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忘れることを許していいのだ

(2022年8月のアメブロ記事をリライト)

「ツラいことが忘れられない」
というのならそれは、

「忘れられない」のではなく、
自分が覚えていたいから。

そのツラさを、痛みを
忘れないようにと
何度も何度も思い出し、
記憶の中で再現する。

覚えておくためには、
そうやって忘れないための努力が必要です。

もともと人は忘却の生き物、
忘れていくのは自然なこと。

それでも、
どうしても忘れられないのならば

「忘れられない」のではなく
自分が覚えていたいから。

だとするならば、
いつまでそこに
エネルギーを注ぐことを選び続けますか?


お盆もあっという間に過ぎ、
秋の気配を感じるたびに、嬉しくなります。

秋生まれだからでしょうか?
いちばん大好きな季節です。

この夏の間に、
我が家の観葉植物がいきいきと大きく育っていきました。

同じように、
息子の身長も一段と伸びたような感じがします。

「パパの身長越したかな?」

ふと口にしてみたものの、
亡き夫の正確な身長が思い出せません(苦笑)

8センチヒールを履くと同じくらいだった気がする。
というざっくりな感覚はあるけれど、
それも「多分ね」という曖昧なもの。

先日、得意なチーズケーキを作った時も
「パパってチーズケーキ好きだったっけ?」
と息子に改めて聞かれると、
ハッキリと答えることができません。

私が作ったものは、
なんでも美味しそうに食べてくれた。
(気がする)というだけで、
本当にそうだったか?という自信もなく
確かめることもできません。

忘れちゃうものです。

19歳で出会って、人生の半分以上を
共に生きてきた相手ですが、
やっぱり忘れていくのです。

ちなみに我が家では、
パパのことは忘れてもいい。
ということにしています。

忘れてしまったら、かわいそう。
忘れてしまったら、冷たい。
忘れてしまったら、さみしい。

忘れることで、
その存在がなかったことになってしまう。

以前の私は、忘れることに対して
そのような思いを持っていました。

でも今は、

たとえ忘れてしまっても
それは消えてなくなるのではない。

そう思っているので
悲観的になることはないし

覚えていなきゃ。ともしない。

肉体は、消えた。でも
存在がなくなったわけではない。
それがはっきりとわかるようになったから。

むしろ、肉体という
物理的な制限がなくなったおかげで、

どこにでもその存在を
より自由に見いだせるようになった。
そのように感じるのです。

大きな大きな循環という同じ流れの中に存在し
どうせいつかは、またひとつになる。

共に過ごした時間は
もうすでに私の血肉となっていて、
息子たちには間違いなく
そのDNAが受け継がれているわけだから。

「忘れないように」と頑張らなくても
何もなくなったりしないから大丈夫。
ということにしています。

人はちゃんと忘れていくのです。

痛みや、苦しみだってそう。
忘れたっていい。

忘れることを
許してもいい。

そう思うのです。


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