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ショートストーリー『ギョウザ殺人事件』

    《 ギョウザ殺人事件 》


辰夫は、新宿からずっと憂鬱だった。
地下鉄丸ノ内線、池袋行き車内。
夕方、
恋人の智子を家まで送って行く途中である。

辰夫の憂鬱の原因は、
新宿駅から隣の座席に座ってきた、
帰宅途中のサラリーマンらしい男だった。

彼は息が臭かった。
ギョウザを食べたばかりだとすぐわかった。

仕方ないと思った。
ギョウザを食べてはいけないなんて法はない。
呼吸をするなとも言えない。
運が悪かったんだ。
どうせ次の乗換駅で降りるだろう。
それまでの辛抱だ。
…希望的観測だった。

しかし、赤坂見附を過ぎ、
銀座を過ぎても男は辰夫の隣で
呼吸していた。

辰夫はだんだんイライラして来た。
臭くてたまらないのだ。
こんなだったら、
新宿でJRに乗り換えて
池袋に向かえばよかったと後悔した。

だが、新宿駅の人混みの中を、
山手線のホームまで移動するのは
かなり面倒だったのだ。

ギョウザ男とは辰夫を隔てて座っている智子は、
何事もないように寝息を立てている。

新宿で男が乗り込んで来た時、
「うっ、臭いね」 
「うん」
と小さく言い合って、
しばらく他愛のない会話をし、
いつの間にか眠ってしまったのだ。

彼女の寝顔を見ながら、
辰夫は昨夜の口論を思い出していた。

彼女に言わせると、
辰夫は“心が狭い”のだそうだ。
他人の無神経に対して神経質過ぎると言う。

辰夫は心外だった。
絶対そんなことはない。
自分こそ普通なのだ。
まわりがおかしいのだ。
無神経はやはりよくないことなのだ。

神経を使うことがそんなに面倒なのか、
人は自分の周りをあまり見なくなった。
人間の感覚が、
少しずつ正しくない方へずれて来て、
人はそれに甘んじ、
いつしかその感覚が大多数の人の
“普通”になってしまった。

だから、当たり前に神経を働かせると、
それは“神経質な人間”ということになり、
ともすれば異常視されてしまうのだ。

以前、辰夫が歩道を歩いていると、
前方から横いっぱいに広がって、
話に夢中になっている女子高生たちが
やって来た。

辰夫は歩道の端に寄って歩いたが、
彼女たちの隊列は変わらない。
そしてそのまますれ違う。

「痛っ」と後ろから声がした。
その中の一人の肩と辰夫の肩が
ぶつかったのだ。

あんなすれ違い方をしたのだから、
ぶつかるのは言ってみれば当然のことだ。

(こっちだって痛いんだよ)

辰夫がムッとしながらも
悲しい気持ちでいると、

「なあに、あの人」
「ヒドーい。大丈夫?」
「痛あーい」

まるで被害者意識丸出しの声が、
彼の痛みに追い討ちをかけて来る。

もう、辰夫の心はズタズタである。
彼は、少しの勇気が欲しいと思った。
彼女たちにわかってもらいたかった。

しかし、彼女たちが、
まともに話を聞くだろうか。
増々“変な人”呼ばわりされるのではないか…。

そう思うと辰夫の正義感はたちまち萎え、
悔しさと悲しみだけが残るのだった。

そして昨日も…。

地下鉄の中。
雨の降る夕方、
その電車は当然の如く混んでいた。

ある駅に着いて、
たまたま自分の目の前の席が空いたので、
辰夫は座った。
入れ替わりに彼の前に立ったのは、
若いサラリーマン風の男。
ケータイを見ている。

そして電車は走り出す。
しばらくすると辰夫は、
自分のヒザに何か当たるのを感じた。

それは、
男の腕からぶら下がっている傘だった。
当然それは濡れている。

(この野郎!)と思ったが、
辰夫は努めて穏やかに言った。

「あの、すいません。傘が当たるんだけど」

男はチラッと辰夫の顔を見てほんの少し
体を引き、またケータイに目を戻した。
しかし何も言わない。

(ああ、こいつもか…) 
辰夫はすぐ悲しくなる。
だが、その悲しさが怒りへと変わるのに
そんなに時間はかからなかった。

またヒザにコンコンと当たり始めたのだ。
それでも辰夫は怒るのは我慢して言った。

「あの、
 さっきから傘が当たってるんだけど…」

自分の濡れたヒザを示しながら、
しかし今度は語気は少し強かった。

だが男は、
やはりさっきと同じ動作をしただけで
相変わらず無言だった。

「いい加減にしろ!」
今度当たったらそう言いたいと
辰夫は思った。

しかし彼はまたその怒りとは裏腹に
弱気になるのである。
言えるだろうか…。

正しいことを言うのは決して恥ずかしい
ことではない。
だが、こういった人間を相手に辰夫の怒りの
正しさが通じた試しは一度もなかった。

相手にわかってもらえる術を知らない辰夫は、
自分が歯がゆかった。

それに周囲の人はどう見るだろう。
皆、我関せずを決め込んで、
辰夫の正義の味方になる人間など一人も
いないに違いない。

自分のヒザの僅か先で、
電車の振動に合わせて揺れる傘を見つめる
辰夫の頭に、そんな思いが去来していた。

辰夫が降りる駅に着くまでに、
事は起こらなかった。
ホッとしたような、何か複雑な気持ちで
彼は立ち上がった。

だが電車は混んでいる。
すぐ横のドアまで行くのにさえ
多少時間がかかる。

その時だ。
さっきの傘の男が辰夫の空けた席に座ろうと、
明らかに辰夫を押し退けた。

もう我慢できない。
しかし辰夫は男につかみかかれなかった。
人波に押されるまま、
もうドアから出て行くしかなかったのだ。
やっと突き出した拳で、
席に着いた男の肩をこずいただけだった。
ブン殴ってやりたかったのに…。

そうしたからと言って
気が晴れるわけではない。
何も解決しない事はわかっていた。
やり切れない気分だった。

あの男は、明らかに怒っていた。
理不尽な話だが、
男は注意された事に気分を害していたのだ。
それで辰夫を押し退けるという行為に
出たのだった。

昨夜、辰夫はその事を智子に話した。
そして智子は不機嫌になった。
そういった辰夫の話にはウンザリなのだ。

だが、決して話がわからないわけではない。
実際、彼女自身も無神経な人間から
迷惑を被った経験は幾度となくあり、
辰夫に対してグチをこぼす事もある。

しかしその後ですぐ、
言わなきゃよかったと後悔するのだ。
何故なら、話を聞いた辰夫のほうが、
当の智子よりも怒りを感じてしまい、
いつも二人で煮詰まってしまうのだ。

おおよそ女のグチというものは、
聞いてさえもらえればそれでよいのだ。
しかし辰夫の場合、
それだけでは済まないのが常だった。

「でも、自分だって知らないうちに
 他人に迷惑かけている事もあるわけだし…」
と、彼女は辰夫の興奮を押さえようとする。

「だから常にまわりに神経使うのさ。
 他人に対してラクしちゃダメなんだよ」
と、辰夫はおさまらなくなる。
「みんながそうすれば、
 それが自然に当たり前になり、
 余計なトラブルがなくなるんだ!」

冷静に聞けばもっともな話だ。
だが、
聞いていて智子はだんだん腹が立って来る。

「みんながみんながってあたしに言っても
 しょうがないじゃない! 
 あなただってこの間電車でドアのところに
 立ってた時、乗って来る人の邪魔をしてたわ。
 無意識かどうかわからないけど、
 でもわざと意地悪してるように見えたわ!」

辰夫は絶句した。
そしてすぐその時の状況を思い返した。
たしかにそれはあった。
たしかにそれは、わざとだった。

だけど、
それには辰夫なりの理由があったのだ。

あれは、やはり電車は混雑していて、
まだ降りる人が何人もいたのだ。
それなのに先に乗って来ようとする人がいたから、
それを阻止したのだった。

たしかに自分はドアの脇にいて、
降りる人のために自分も一旦降りてスペースを
空ければよかったのだろうが、
身動きが取れず仕方なく
無理矢理乗って来ようとする者を
押し戻すしかなかったのだ。

なのにその行為は、
智子には単なる意地悪にしか見えなかったと言う。

意地悪という言葉はショックだった。
いつもの悲しみ以上のものが、
心の中を駆け巡っていた。
恋人にもわかってもらえないのだ。

「もうやめましょ、こんな話」
そして智子が話題を断ち切った。


ギョウザを食べたとなりの男に罪はない。
しかし臭い。

…本当に罪はないのだろうか…。
(いや、ないよ。
 こっちの運が悪かっただけだ)
そう思うしかなかった。

電車は終点の池袋駅に着いた。
男が先に降りると、
今までの不快な臭いが消えた。

辰夫は一言も口をきかなかった。
智子は自分が眠ってしまって彼の話し相手に
ならなかったから彼の機嫌が悪いのだと
思っていた。

無言のまま二人は、
彼女が乗り換える線の改札まで歩いた。

「やっぱ俺、ここで帰る」
辰夫が言った。
「…そう、…じゃあ…」
智子は一人で改札を抜けた。

少し寂し気だったが辰夫は今日はもう
これ以上彼女と一緒にいたくなかった。
振り向かないまま人波にのまれていく
智子を見送ると、辰夫は踵を返した。

池袋駅のラッシュ時の人込みはかなりすごい。
人々は思い思いに歩いている。
しかも、皆急ぎ足で、
自分の目的の方向だけを見ている。

その時、何とも空しい気持ちで歩いている
辰夫の注意力は散漫だった。
不意に辰夫の肩に衝撃が走った。

「痛えな」

辰夫がその声に振り返る。
声の主はチッと舌打ちをすると、
すぐにまた自分の方向へと歩き出した。

直後、辰夫はその男の肩をつかみ、
強く引き戻した。

「何すんだよ!」
と、男は辰夫を見た。
いや、見なかったかも知れない。

まさにその瞬間、硬く握られた辰夫の拳が、
男の顔面をまともに捉えたのだ。

男が崩れ落ちるのと同時に、
人波がサーッと引き、
二人を中心にした丸い空間が出来た。

辰夫は無表情のまま、
さらに男の顔を蹴り続けていた。

男は、最初はわめき、
それがうめき声に変わり、
やがて静かになり、…動かなくなった。

束の間の静寂…。

そして、再び辺りに喧噪が戻り、
人々が動き始めた。

だが人々は、
決して血に染まった円の中には足を
踏み入れようとはしなかった。


「あっ、すいません」
背後からの声に辰夫は我に返り、
振り返った。

「すいません。よそ見してたもんで…」
たった今肩がぶつかったその若者が
頭を下げてもう一度謝った。

「あ、いえ、俺のほうこそ…」
辰夫が手を軽く上げて応えた。

若者は踵を返し、少し先で待っていた、
どうやらよそ見をしていた相手であろう、
彼女らしい女の子と肩を並べて、
雑踏の中に消えて行った。

無性に悲しく空しい思いでいた辰夫の顔に、
笑みが浮かんだ。

今のような当たり前の言葉を言い合うのが、
とてつもなくうれしかった。

再び人混みを縫って歩き始めた辰夫の足取りは、
それまでとは打って変わって軽やかになっていた。

そして、
こんな心のスキップがいつまでも続くといい…
と願っていた。


             … End



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