二十五、二十一

二十五歳という岐路

それで、破壊と再生について書いたり、二十五歳の節目にブログをして日記のように日々感じたこと、出来事を綴っていこうと決意したのには理由がある。それは今年の5月くらいに見始めた「二十五、二十一」という韓国ドラマが影響している。

作品の中で、主人公は二人。
十八歳の少女がフェンシングを極めていく過程や、真っ直ぐに人を好きになったり、時代や期待、人にことごとく裏切られたりと、二十一歳になるまでの姿が描かれている。その傍らでもう一人の主人公が時代によって未来を奪われ、時代が用意した未来を記者として生きることになり、真っ直ぐなその少女に憧れや期待を抱き、それが愛に変わっていく模様が描かれている。

兎に角、90sの雰囲気が大好きな私にとってこの作品は話の流れから映像美から全てがタイプだった💖

また主題歌もすごくいい。その名の通り、「二十五、二十一」という曲で、人生観や環境、さまざまなことが変化し、大人になっていく過程を歌っている。二十一歳の時に考えていた自分と、二十五歳になって味わう現実のギャップに耐えられていない感じもまたいい。

「胸が痺れるような幸せな夢を見ていた」とか「永遠だと思っていた、二十五、二十一のあなたとわたし」というような歌詞があって、特に二つ目の歌詞には本当に共感する。

二十一歳は永遠に続くような気がして、今も未来も大して変わらないような気がしていた。好きなことや憧れ、周囲の人もかなり変わったし、二十五歳の自分は時が永遠ではないことに気づいて、輝かしい時を兎に角大切にかみ締める傾向にある、少なくとも私は。

二十一歳は過ぎていく時に何も感じず、ただただ横目で流して笑っていた気がするのに、二十五歳は1日1日、特に大切な日は感傷的になる。

あとこの人に何回会えるのか。
あと何回夏が来るか。
あとどのくらい健康で笑い合っていられるのか。

外国人の友達がいると、ビザの関係でそう長く一緒にはいられない。限られた時間を過ごしていることを会う度に感じる。

永遠に同じものなどない。と、ある友達に言われたりもした。

長い夜や、仕事で疲れた時はあんなにも時を長く感じるのに、幸せな時間は過ぎるのが早い。

そしてもう一つ。このドラマで、主人公の女の子が言ったセリフが好きでたまらない。
「自分を信じられなくなった時、私を信じてくれるあなたを信じた」

もちろん、人間なんて自己肯定感マックスで、毎日ポジティブなんてありえない。多少の起伏はあるし、自己否定をしてしまう時もある。

そんな時、私だったら、あなただったら、何を信じるだろう。

私は、人たちが立ち止まって目を見て本気で伝えてくれたその場面を信じる。なぜなら、誰かに信じてもらえて、説得してもらって、励ましてもらえることは尊いことだと思うから。

目を見てきちんと話すということは、向き合ってくれているということ。嫌いだったら、目も合わせずにアドバイスや命令や文句を言ってくるはずだから。

だから私も、その人を信じたいと思った時、目を見て一生懸命伝える。
何を言われたか、どんなに素敵な言葉か、それは全く関係ない。その誰かが一生懸命目を合わせて話を聞いてくれたり、抱きしめてくれたり、激励してくれたそれ自体が意味がありすぎることだと思うから。

混乱したら、静かにこれまでの数々の本気の目を、人々からもらった温もりを私は思い起こす。それで、また前に進む。

そういう意味で多分私も、自分を信じられない時、自分を信じてくれた人たちを信じているのだと思う。

いろいろなことを本当に深く考えさせられるドラマだった。

二十五歳、どうやって生きていこうか。たぎる生命を存分に生かして、情熱を燃やして生きていこう。改めてそう決意した。

綺麗に、人に迷惑をかけずに、ほどほどに、やれることをして生きよっかななんて思うにはまだまだ早い、いやむしろ今生で本当にそんな風に生きていきたいのか、それは私の人生ではないことに気づいた。(そうである人を否定する気は全くない。ただ私自身を考えたときに、という意味である。)


これからどんな人生を送るのだろう


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