投げやりになりたくなった2週間

こんなことある?ー窮地は本当の自分を知る1番の方法ー

怒涛の二週間を過ごしたトマト。ひと段落したのでまたここに文章をおさめることにした。

というのも2022年も後二ヶ月で終わってしまう。(震)それで、今年はすっごく早いような長いような一年で(まだ終わってないが)、どちらかというと土を踏み締めて生きたな、というよりは、スルーっとぬるーっと飛んでるような…はたまた超早いベルトコンベアに乗らされて転げ落ちそうになるとこを必死にしがみついているような、何ともよくわからない上半期であったなと思う。

評価の世界に少し足を踏み入れ、それに耐えられる根性も備わっていなければ体のコアの部分もふにゃふにゃであった。ただ、描きたかった物語を形にしたかっただけであるのに、誰かにすごいと認められ、才能だと言われ、それがどんなに少人数でも、私はゆらゆらと揺らいだ。自分は「普通の25歳より腹を括って生きている」「誠実に生きている」と思っていたし信じていた。周りからもそう見受けられると言われると、そうなのかなとか思ってしまう。

でも、誰かと比べてこうだとか、それがいい意味であれ、かなり私には毒になっていた気がする。というのも、人に優しくいなきゃいけない、誠実に生きなきゃいけない、という思いは、過剰な他人への盲目を生み出してしまったり、そこまでしなくていい余計なお世話を生み出したりもする物だということ。

何より、自分のやりたいこと、思い描いていたこと、本来好きだったことから軸がズレていく。あの人にとってこうでいたいとか、例えば親にとって自慢の娘でいたいとか、先生にとって自慢の生徒でいたいとか、信頼できる上司にとって完璧な部下でいたいとか、そういうものが目的になると、人生はどんどんと複雑化し、狂っていってしまうということだ。

そういうものは本来、手段でしかない。

私は思う。

英語は本来、コミュニケーションを取るための手段。極端な話、外国で死にそうな時に、助けてといえるように英語を勉強する。それ以上でもそれ以下でもない。社長になるのは、いいアイディアと社会に求められているものを考えついて、それでご飯を食べていきたい、と思うから起業して需要と供給が成り立ち、お金が生まれて社長という肩書きが生まれるだけであり、最初から社長という肩書きは手段でしかない。トイレ掃除をするのも、ただトイレを清潔に保ちたいからするのであって、目的はそれ以上でもそれ以下でもないはず。

今の世の中は、本来手段であったことを目的にする傾向がある。少なくとも日本は。というのもこうなったのは、この国が様々な文化をとても長い歴史の中で受け入れてきながら、全て独自の文化として吸収してきたからであるような気がする。

例えば、英語というものを受け入れはしたが、単一民族の中で、「使う」というよりは「学ぶ」ということを目的化していった。スティーブ・ジョブズやイーロンマスク、ウォルトディズニー。様々な分野でカリスマ性の光る社長を皆が羨望の眼差しで見つめる。そして、そういう人達のような偉業を遂げたい、というより、その人達になりたい、金持ちになり、社長という肩書きが目的である、が多い気がする。勿論、そのような人ばかりではないが、そういう人達の表面的な経歴だけをネットで見れるようになった今、何万の苦労を想像し、何を成し遂げてきたかより、さらっと綺麗な経歴だけを見てその肩書きを目的とし始めるようなことが多い。

無論、トイレ掃除ひとつとっても、様々な目的づけを行う人もいるようである。

手段を目的とする傾向の良さもあるが、私の場合はHAVE TO(〜すべき)という思考になり、一つの物事を成し遂げるのに、相当な思考回路を要するような気がするのだ。そして、好きなもの、魂が沸々と燃える情熱がその奥に埋まっていくような感覚がある。

長くなったが、人生はシンプルでいいのだ。小さい頃、そうだったように。あそこに立っている外国人にハローくらいのコミュニケーションはとってみたい。そしたら必然的に英語は手段になる。

人が本当に困っている時、自分が悲しみに暮れる時、何か心が動くような感動できることを他人にも自分にもしてあげたい。だから、楽器を演奏することにした。それが目的になれば、楽器を演奏できるようになることは手段でしかなくなる。


何より、トイレ掃除の目的を、気分もトイレもさっぱりさせてみるか、くらいであれば、モップを手に取り磨くことはただの手段でしかなくなる。磨くことを目的にしてしまっては、そこに理由づけをし、開運や金運アップとかに過度に期待することになる。それがないと、すぐにやーめっぴということになり、本来の目的はどこへ行ってしまうのか。


そして究極のシンプルは、いくら優しい自分であろうと、輝いている栄光の道を歩む自分でいようと、カップ麺を家で食べごろごろし、社会に認識されない一日を過ごそうと、上司に好かれる自分でいようと、笑顔を振りまく自分であろうと、結局自分はかけがえの無い73億人の中の1人の自分でしか無いということなのである。

そう考えると、自分はすこぶる特別なわけでもなければ、自分は完全に周りに埋もれてしまう薄い存在でも無いのである。どこにいても、何をしていても。

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