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[暮らしっ句]ぼろ市[俳句鑑賞]

「ぼろ市」は十二月中旬と一月中旬の行事。時期がズレてしまいました。
 そのことと「暮らしっ句」と標榜しつつ、非日常的な解釈が多くなっていることをお断りしておきます。心が澱んでいる?

 ボロ市に襤褸なし 忽と師が佇ちて  谷川季誌子

 哲学的な一節。「襤褸(ぼろ)とは何ぞや?
 連想されたのは「山水に得失なし、得失は人の心にあり」。うろ覚えですが夢想疎石の言葉だったかな。

……この風景は素晴らしいとか、適当なことを云ってるんじゃねえよ。あんたがそう感じているだけ。良いも悪いも、あんたは自分の心を見ているに過ぎない…… そんなニュアンスだったと思います。

 世間がゴミだとボロだとか決めつけても、それはあくまで世間の評価。自分にとっての価値はまさに人それぞれ。
 掘り出し物探しは楽しいものですが、相場より安いものを買ってやる!ということじゃなくて、自分にとってのお宝を見つけたいものです。
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 行き止まる ぼろ市の道 青木の実  栗林松枝

 行き止まり…… 普通に考えれば、失敗。不運。でもそこには「青木」があった。冬には珍しい鮮やかな緑と赤。花ではないですが、冬の山野の「華」。でも、目に入らない人もいる。
 そう思うと「青木」に気づいたのは作者の「幸運」。チカラという言葉を使うなら、その「幸運」を拾ったのが作者のチカラ。
「幸運」って何でしょうね。もしかしたらチケットのようなもの? それ自体に価値はない。でもそれがあれば、素敵な経験が出来る。どんなに素敵な場所もチケットのない者には扉のない壁。たとえ遭遇しても入れません。というか、その向こうを想像することも出来ない。

 そんなこと云われなくても当たり前のこと?

 じゃあ、お金で買えないチケット、あなたはお持ちですか?

 ぼろ市や 銅壺ぶらさげゆく女  原田達夫
 ぼろ市の 見返り美人と目が会へり  近藤幸三郎
 ぼろ市の 裸婦の絵の美しすぎる  後藤立夫

 祭りにケンカはつきものだそうですが、おそらく「女」もそうなのでしょう。一般女性と「女」の境界は曖昧ですが人目を惹く「女」はいます。日常では見てみないふりをするのがマナーですが、祭りだから話題にしたわけですね。三番目は「絵」について語っているようですが、その「絵」を見かけるまでに見かけた「女」にすでに刺激されていたと思われます。
 それでどうした? という話はありません。小説なら「絵の裸婦」に「知り合いの女性」をオーバーラップさせて「非日常」と「日常」、「欲望」と「理性」の垣根をぐらつかせるのでしょうが、俳句ではそこまでは踏み込みません。
 というか、それは俳句の問題というより作者の年齢ですかね。離れたところから眺める程度で満足なんだという。その「これだけで十分」という分別が日常の幸せを成立させているとも云えるし、つまらないといえばつまらない。
 わたし? 自分が当事者であれば遠くから眺めるだけでよしとするでしょうね。しかし、そんな話を聞かされてもおもしろくない。他人には踏み込んでもらって、おもしろい話を聞かせてもらいたい(無責任!)
 そのあたり、「日記」と「小説」の違いということにもなるのかな。

 ぼろ市に 服喪の姉を連れ出せり  吉田明子

 気晴らしも必要よ、という心遣いですが、そんな表面的な意味合いに奥行きを与えているものがある。
 わたしは骨董はやりませんが古書ではね、これは誰かのコレクションだなとわかることがままありました。そこに新しい本が混じっていれば遺品である可能性は小さくなりますが、十年以上も前で止まっているコレクションだと、たぶん遺品。そんなのを見かけるとやはりせつなくなります。他人事ではありませんから。
 でもね、だからといって蚤の市のような催しを見物するのがイヤになったかというと、そんなことはないんです。古い物は年寄りにやさしい。それは現在地から過去を懐かしむということじゃなく、タイムスリップ。自分が昔に戻っていける感覚。
 ちょっとまわりくどい説明になってしまいましたが、作者がお姉さんにプレゼントしたくなったのはそれではないかと。終末期の夫ではなく、元気だったころを思い出してほしかった。古いものには束の間、過去を再現してくれるチカラもありますから。
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 ぼろ市の 防毒面に執着す  宇都宮敦子

 兵隊さんの持ち物にふれた作品はいくつかありましたが「防毒面」はちょっとケタ違い。作者は「防毒面」の何に引き付けられたんでしょうか。デザイン? 機能? 三択にしましょうか……

1,日頃のすました仮面を脱ぎ捨てて、このおどろおどろしい面で世の中を徘徊してやりたいと思った。「この薄汚れた世の中で、あなたたちはよく素面でいられるわね!」

2,作者は虚弱な体質で感染リスクが高いとか、そこまで深刻な話ではなくても花粉症とかで、空気がコワイ。思わず「これを付けたら安心できるかしら?」と思ってしまった。

3,「世界の終わり」を幻視した。こういうと大げさですが、ぼろ市は冬至の一週間前のこと。一番陰気な時期。ついそんな想像をしてしまっても不思議はありません。

 さて、皆さんはどう思われますか?
 手掛かりはやはり「ぼろ市」。Amazonで高性能の防毒マスクを品定めしているのではありませんから。「ぼろ」=「どうせ役には立たない」ことが盛り込まれている。
 思えば防毒マスクは第一次世界大戦で使用されたものでしょうから、感染対策(スペイン風邪)のマスクの流行と時期が重なる。当時は、マスクが本気でアテにされたのでしょうか。
 そう考えると、感染対策のマスクが復活したように、防毒マスクも復活するかもしれません。いざとなると科学よりも政治的・社会的な取り決めや大衆の素朴な感覚がものをいうようになりますから。
 戦争が起こりそうになった時に、戦争に反対するか、それとも備えにいそしむか……。もし食料や物資を買いだめして、それで助かることを期待するとしたら、それはかなり危険な錯覚。
 一説によると、近々、はじまるのは空気が兵器になる戦争だそうです。人間が毒ガスを発散するようになるんですって。そんな話を聞かされると「防毒面」の復活も十分にありそうですね。実際には役に立たなくても。「やらないよりやったほうがマシ」論法が世間を席巻しそう。

 と縁起でもないことを云いましたが、行き止まりと思えた場所にも「青木」が見つかることもあるわけで、最後の最後まで希望は見失わないようにしたいものです。「青木」がヒントだとしたら、希望は「自然」かな?


 見出し画像は、yoshiizm さんの作品です。ありがとうございました。


 

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