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[短編]褪せない時間

 毎朝、要介護者と一緒に散歩している。
 うちの要介護者は陽気で、みんなに挨拶する。
 そのおかげで、ずいぶん馴染みが増えた。
 オレだけだと十年散歩しても、ずっと独りのままだったろう。

 先週、出会ったのは、似た境遇の父娘。お父さんがアルツハイマーだという。確かに、うちよりずっと若い。老人性……にしては若過ぎる。

 オレがカメラを持ってるのに気づいて、「父もカメラが好きで、鳥をよく撮ってました」と娘さんが教えてくれた。
 お父さんは、その声が聞こえているのかどうか、山の方を眺めていた。

「ほら、お父さん、見てもらいましょう」

 娘さんがお父さんに声をかけて、お父さんのショルダーバッグから、何やら取り出した。年季の入ったポケットアルバムだった。

 以前は、よくあった光景だ。代表作をポケットアルバムに入れて持ち歩いていたカメラマンが結構いた。きっかけがあると、それを取り出して自己紹介するのだ。まあ、そこそこ腕に自信が無いと出来ないことで、オレはいつも拝見させてもらうだけだったが。

 アルバムには、野鳥の写真ばかりが収められていた。
 なるほど、確かにたいしたものだった。
 ただ、オレの中にさもしい根性が頭をもたげてきて、(これだけ撮るには相当高価な機材が要るだろうな)と、つい斜めに見てしまった。

 しかし、最後のページで、ハッとさせられた。
 そこに写っていたのは、安いデジタルカメラだったからだ。

 オレが見入っていると、「それはワタシが撮ったんです。父が使ってたカメラです」と、娘さんが説明してくれた。

 もう一度、アルバムを見直した。確かに鳥は鮮明に写っているのだが、背景のボケが汚かった。高級な望遠レンズの画像ではなかった。色にも品がない。上等のカメラだと、高級なオーディオのように鑑賞に堪えるしっとりした色合いが出る。

 飛んでるところを撮った一枚に目が留まった。左の木から右の木に飛び移る、ちょうど中間地点で見事に対象を捉えたものだが、見覚えがある気がしたのだ。

「これはね、タイミングを予測して撮るんです。飛び立ってから、シャッターを切っても間に合わないんで、ヨーイドンでシャッターを押すんです」

「わかります。デジカメのシャッターは遅すぎますもんね。
 じゃあ、ピントも置きピンですか?」

「そうです。オーフォーカスを切って、あらかじめ手動でこのあたりだろうと決めておくのです」

「なるほど。じゃあ、この一枚を撮るのに、何百枚も……ですか?」

「いえいえ、それほどでもないんですよ。どういうわけか、わたし勘がいいんです……」

 オレの頭の中で、そんな会話がふいに再生された。
 次第に、記憶が蘇ってきた。800万画素とかのデジカメを使ってた頃の話だ。十数年どころではない。もっと前だ。場所は、植物園の池のほとりの東屋……。
 オレは花を撮りに来ていたのだが、ちょうどアオサギが岸辺にいたので、これ幸いと撮っていた。アオサギくらい大きければ、8倍ズームでも狙えた。
 オレに声をかけてきたおじさんのカメラは、倍率こそもっと大きかったが、同等の安いデジカメだった。そんなもので飛んでるところを撮るなど神ワザに近い。しかもその人は、定年退職してから撮影をはじめたとのことだった。家が近所なので、散歩ついでにちょうどよいと思ったのだそうだ。オレは高校の時から撮ってるから、その当時でもキャリアだけは、ん十年だった。なんたる違いかと、結構、へこんだのを覚えている。

 たった一度の出会い、時間にして十五分程度のことだろう。それなのに記憶が鮮明なのは、そのおじさんの人柄のせいもある。オレは相性問題の大きい人間で、合う人が少ない。それだけに合った人との記憶は色褪せないのである。

 アルツハイマーというお父さんは、相変わらず山を静かに眺めていた。心なしか、あの時のおじさんに似ている気がした。

 オレは鳥は撮らない。だから、一カ所で長く粘ることもない。ぶらついて行き当たりばったりで撮るだけ。そこはあの時のおじさんや目の前のお父さんとは大きく違う。
 しかしそれでも、ひとりでカメラを持つ時間のことは良く知っている。その心境は、かなり近いはずだ。仲間達とわいわいと思い出を作ってきた人たちからすれば、その何もなさは悪夢のようなものだろう。しかしカメラを持つ者には、その時間こそが自分の居場所だったりするのである。

「いい時間を過ごされましたね」

 山を眺めているお父さんに、後ろからそう声をかけた。

 お父さんは、今この瞬間も、あの頃を生きているのではそんな気がした。もしそうであれば、反応がなくて当然だ。その場所には自分しかいないのだから。

(あなたのお父さんは今、一番居心地のいい時間をすごしておられるのかもしれませんよ……)

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