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[暮らしっ句]顔見世[鑑賞]

「顔見世」というのは、京都の南座で十二月に興行される歌舞伎のことです。詳しくは検索していただくとして、関西では毎年恒例のニュース。なので、出かけない者にも欠かせない年の瀬の風物詩……。


 顔見世や 少し派手目の帯締めて  大泉美千代
 顔見世や 鏡にうつし 帶をポン  芝尚子

なんとなく光景が目に浮かぶようです。出かける前から勝負? は始まってる~ サッカーで云えばロッカールームの緊迫感!
と、見たようなことを云ってますが、もちろん想像です。こんなに短い言葉なのにイメージの喚起力がスゴい。


 顔見世へ  暗き水面の 川渡る   坂本俊子

南座の西側が鴨川。京都といえば本来、鴨川より西ですから、南座に行くには川を越えていく。一帯は繁華街ですが、日が暮れると川は暗闇。華やかな世界へ行く前に、いったん闇を通過するという、それもまた気分を非日常へいざなってくれる。


 祖母に添ひ 母とも行きし 顔見世や   高木智

年配の方で、何度も通った方であれば、いろんな思い出が蘇るわけですね。最初は祖母に連れられていったとか。母とも出かけたとか。
そして、役者も代が違うけれど同じ坂田○○○、片岡○○○、市川○○○……、演目もあの時と同じとか。すごい世界ですね。客席の照明が消え幕が上がれば、今、隣にいるのは娘? 母? 祖母? となっても全然おかしくない。母だと思えば、母がそこに居る。自分は娘に戻っている。芝居が終わるまでは……。


 顔見世や 面影の師と 連立ちて   柴田雪路

恩師というのも特別な響きがあります。わたしは恩師にも縁が無かった人生でした。この人なら、という相手を見出して自分を預けることを知らなかったし、また達人に見込まれるようなこともなかった。それだけに、なんとなく憧れはあります。
俳句を見ていると、恩師はよく出てくるんです。たとえば「探梅」とか。しぶいでしょ? 満開の桜なら恩師が霞みますが、探梅だと花がないところを延々と歩くわけで、自然、会話が中心。恩師の訥々とした言葉が沁みてきそう。
この句の場合は、満開の桜に匹敵する華やかな題材ですが、そこにいる恩師は故人。でも、満開の桜と違って舞台は影を伴う。客席は影。だから、「面影」となった故人と一緒にいられる。


 顔見世の 夜の部を待つ 鰊蕎麦   山下佳子

※鰊=にしん

南座の近くにあるお店の名物。そこで軽く腹ごしらえ。待ち合わせもかねているのかもしれません。ただ、その時間帯だと店はものすごく混むはず。ですから、それでも立ち寄るんだという、何か強い思い入れがあるようです。
詮索は出来ないんですよ。手がかりがなさ過ぎますから。ですから、想像されるのは自分のこと。待ち合わせかなと思えば、自分の知り合いが思い浮かぶ。独りかなと思えば、昔、誰かと一緒に立ち寄った思い出をなぞっているのかな、なんて思って、自分のなつかしい人を思う。
そういえば年の暮れって、心の中の人と再会出来そうな気がしますね。日が短いのは、心の時間が増えることでもある。どんよりしてる場合じゃなく、心の世界を愉しむのがいいかも。


 顔見世の ロビー華やぐ 着飾りて   小澤淳子

これも光景が目に浮かぶようです。帝国劇場でも歌舞伎座でも同じでしょうが、わたし心情保守なんで、伝統的なブルジョワ文化には嫌悪感がないんですよ。
実際にはどんな気分なんでしょうね。顔ではにこやかに笑いながら、勝ったとか負けたとか思うんでしょうか。あ、また着物新調したな! とか。どうせ、買ってもらったやつでしょ! とか。そんな下品なことはないか。
実際、いい着物は鑑賞に値しますしね。見入ってしまう。それに帯やら小物を組み合わせるわけですからね。表現ですよね。着る者のセンスと教養がにじみ出る。わかるかね? 洋装とは違うんだよ、洋装とは! とそこで愛国主義者になったりして。


 顔見世や 待ってましたと おほ向ふ  小林久子

歌舞伎は一度だけ見たことがあるんです。国立劇場で(学割!)。なので、かろうじてイメージは出来ます。確かに、自分の近くから声が上がると、興奮しました。舞台からの刺激とはまた別の刺激。
ちょっと理屈っぽいことをいうと、舞台は彼岸、客席は此岸なわけで、その境界が強過ぎると没入しにくい。「おほ向ふ」というのは、その間をつないでくれる。境界をぼやかしてくれる。実にうまく出来ています。粋!
これ、歌舞伎以外の芝居やスポーツでも、うまくやれば良い感じになりそうですが、そうならないのは双方に「粋」が必要だからでしょう。舞台の人間が「邪魔しやがって!」と感じればそれでアウトですし、観客の掛け声が下手くそであれば、それも野暮。両方が「粋」でないと成立しません。おもしろい。


 顔見世や 昔の恋は みな哀し   山田弘子

この感想、三回くらい書き直しました。一見すると、昔の人は大変だったわね、と。他人事のような口ぶりですが、読み返しているうちに、本当にそうだろうか? と思えてきたのです。もし、自分とはまったく無縁の事なら、そんな芝居をわざわざ観に行きませんよね。
「昔の」という言葉は実は照れ隠しで、実はこういう思いがあったのではないか。顔見世や「本気の」恋は みな哀し
自分はあの時ブレーキを踏んだけれども、あのまま突き進んでいたら……と。もちろん、シチュエーションはまったく別でしょうが、岐路で飛び込んだ人の物語を見ると、もう一つの自分の人生が浮かび上がってくる。芝居を観ながら、自分の中でもう一つのドラマが進行する。それが大人の味わい方かも。


 

 顔見世や 花道にある 闇のいろ   鈴鹿仁

花道は華やかな虚世界と現実を結ぶ架け橋で、舞台と反対側にあるのは現実世界。この「闇」は現実のことです。
蓮池にたとえれば、舞台は蓮の花。現実世界は泥池。花道というのは、花と根を結ぶ茎。茎の下半分は泥にまみれている。
何が云いたいかというと、この現実世界の中にも花道はあるということです。アーティストは、ある意味、それを巧みに発見出来る人。作品という花は現実世界から抽出されたもの。映画やら小説の要素は、我々の身近にあるわけです。
したがって、現実を忘れるために芝居を見物するというのは、実にもったいない。芝居を見て、現実を見直して、身近なところに花の茎(花道)を見つけることが出来れば、それこそ何倍にもおもしろくなります。
このnoteでも身近な出来事を、もう毎日のように短編にされてる方がおられますよね。これドラマじゃん、これネタになるじゃん、て。次から次に花道が見えるんでしょうね。泥にまみれている花道の先が見通せる!?


 顔見世の 三階席に かくれ会ふ   奥名正子

観劇を口実にした密会。目立ちたくないので、わざわざ三階席を選んだということでしょうか。顔見世ですから、若い二人ではないですね。経済力があって教養もある二人……。もう一つのドラマが同時進行しているわけです。
作者自身のことなのか、それとも作者は怪しい二人を見かけただけなのか、あるいは、今回は見かけただけだが、そんな時もあったということなのか、そのあたり含みが余白というより余陰……。


 顔見世の 席に亡夫の 身じろぎぬ   品川鈴子

こちらは一途な愛、と最初はそう思ったのですが、これもまた一筋縄では行かないようです。
「亡夫の身じろぎぬ」という表現は、裏を返せば、<生者(作者)は揺れ動く>という暗示。わたしには大人の恋愛はわかりかねますが、「あなた、支えて」という本意があるとすれば、密会の句と正反対どころか紙一重……。


 顔見世の あとの生ゆば生麩かな   岡崎るり子

これも京都の名物。ヘルシーでもあるので、こっちのほうが人気かな。ただ、鰊蕎麦とは値段が違いますけどね! と余計なことを云ってしまいました。今日は、愉しかったね~という句。


 顔見世に 縁なきままの 八十路かな   山本千里

わたしは、こっちです。一度も行ったことがない。若い頃なら、えいや! でチケットが買えましたが……。
でも、俳句として見れば、この句もいいでしょ? 句にすれば、それぞれの人生、それぞれの味わい。

 観に行ったこともないのに、どうして顔見世を取り上げようと思ったのか?

 実は、今の今までそこにひっかかっていたのですが、ようやく答えが見つかりました。

 わたしにとっては、顔見世を愉しむ人々の姿、景色が、ひとつの舞台なんです。それを観て愉しんでる。今、自覚出来ました~

出典 俳誌のサロン 歳時記 顔見世



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