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当たり前だけど全部できないんだよなア。

こんばんわ。ここ数日、体調を崩しておりました。
週末は、小説を一文字も書かずnoteも下書きを書いては消してをしてました。術後、生理が来ないと先生はおっしゃていたのにしっかりと薬をやめた途端にあいつがやってきました。しかも「今までよくもまあ、せき止めてくれていたな、食らいやがれ昔年の恨みいいい」と言わんばかりに、猛威を振るいました。量と痛みがひどい。男性は、ケガしていると思って構いません。股がケガして、血を出してます。腹の内側から痛いです。
病院からもらったロキソニンは、手術時の痛み止めですが、生理用に使いました。これで無くなってしまいましたね……先生、どうしてくれるんですかああああ。

ここで吐露しても意味がありません。次なる問題は明日の歯医者です。明日も今日と同じくらいの経血の量なら、椅子が血まみれになって私は、すいませんすいません、生理で来てすいませんと謝ることになります。歯医者のあの寝る姿勢は危険です。したがって美容院も無理なんです。女の人がスケジュールとにらめっこしているのはそういった要因もあるので、一カ月の予定がわりとすぐ埋まるわけです。予定を埋められない週があります。個人差あるとは思いますが。

話を戻し、タイトルの通り「当たり前だけど全部できないんだよなア」とここ数日考えています。
仕事が再開したら療養期間ほど掃除も小説の執筆時間も当たり前ですが減ります。今日は二日ぶりの執筆となりました。私が書けなくなってしまう要因のひとつに「自分が書いた小説の内容を忘れる、考えていた内容を忘れてる」があります。プロットは作っているのですが、プロットには書かれてないぼんやりとした風景を思い出せなくなります。すると、書きたかった感情を忘れ、自作を読み直すのが億劫になり、未完の作品がまた増えるという「俺は小説家になる!」と息巻きながら実際には書いていない作家志望の女が出来上がりです。未婚の小説家志望の女ほど痛い存在はありません。
周りには小説家志望の女がおりません。若い人なら存在するかもしれませんが、妙齢の女性では「現実逃避」としか捉えられないわけです。
でも、負けずに会社行きながら書かないと作品すら出来上がらない。全部は無理なんです。だから、せめて小説だけでも書かないと。

朝ドラ「あさが来た」を家族で追って視聴しております。
波留が主演のものですね。
こちらを見ていて考えるのは「自分なりの理想像を貫くしかない」です。主人公のあさは、子供を姑と夫に預けて「銀行」をつくるために奔走します。それは当時の母親像からは遠く、あさは苦悩します。いい母親じゃない、と。でも、銀行をつくって、人々を、日本を支えたいという志があるわけです。そんなとき、お姑さんから「あんたは欲張りや」と言われます。今更みんながいう良い母親にはなれないのだから、自分なりのいい母であるしかないという言葉で救われます。
普通は、とか良い母親は、とか世間でいわれる理想像を自分に当てはめようとみんながしがちですが、各々ができる範囲でやっていくしかないわけです。みんな同じ環境下じゃないのだから。同じ家、財産、兄弟、みんな同じじゃないですよね。
私は子持ちじゃないけど、普通のこの年齢の人はではなく私は私なりの活動をするしかないと考えました。今は療養中ですが、仕事の楽しみも理解できるんです。仕事が嫌いではないのだと、仕事に奔走するあさを見て元気付けられました。

作家の朝井リョウさんが自分を朝ドラの主人公に見たとき、「もう次のステージに進む感じかな」と感じたら動いてみる、というエッセイで書いてました。俯瞰して自分を見て、朝ドラのどのあたりか。
考え直すのもありですね。私は現状、結果出しておりませんのでしばらく動けませんが(;^ω^)例えば、何かしら賞をとって兼業になったら話は別です。仕事もしつつ、やっぱり小説を書いていくしかないです。これを定着できていないうちは進めないかな、と。

上記でも書きましたが朝井リョウさんのエッセイ「風と共にゆとりぬ」を読んでおります。評判通り笑えます。作品は真面目なのに面白い作家さんなんですね。「時をかけるゆとり」は未読なのでメルカリで発注しました。こちらを読んでいると他の小説家さんにはない雰囲気に驚きました。
私は小説家は人づきあいは最低限であると感じていました。それよりもずっと一人の時間を楽しみながら自己に向き合うものだと。朝井さんは「桐島、部活やめるってよ」でデビューなさって数々の作品を執筆しているすごい人なんですが、途中まで兼業作家でした。出社前と帰宅時に小説を書いていたそうです。やはり残業はしないで誰よりも早く事務処理をこなしておりました。会社自体は不満もなかったそうで、エッセイでもネタになっており楽しそうです。
そう、会社生活が楽しそうだったのが驚愕です!ここでの人間観察がまさに小説でも生かされている気がします。私は小説家をしている人は会社が嫌いだから小説家になる人が多いような気がしておりましたが、それは書く小説の傾向によるのかもしれませんね。朝井さんのように、社会と自分との齟齬を丁寧に描く方は、人と接している方が浮かぶんじゃないでしょうか。
著者自身も、なにかしら働いていたいという願望があると書いてありました。もう専門作家さんとなりましたが、小説とエッセイから人々の可笑しみをよく見ている人だと感心しました。
でも、誰とでもフレンドリーってわけでもないんです、ふつうだけどふつうじゃない思考回路なだけですね(笑)
エッセイを読んで、少し肩の荷がおりました。私は今の職場に居続けたら絶対、小説家になれないと考えておりました。
 時間がないと書けない、残業が減らないと、結婚もできないかもしれない——それらはもちろん、思い込みで自分から楽しい現場であると、ネタ探しをしてみたらいいだけかと考えなおしました。現に朝井さんは飲み会なども参加しておられるし、社員旅行の話も、友達とのビーチバレーの話も、肛門の話も、行ってみないと起こらなかった現象です。なるほどなるほど。人づきあい苦手ですけど、ネタ探しだと思えばいいのかと納得しました。会社復帰したらもう少し人と接してみよう。
HSPかなと思いがちですけど、努力してみよう。学校と違って基本的にはみんな親切ですからね。
今すぐ転職だわ、じゃなくて今いる環境をちょっと見直そうと考えなおしました。もしかしたらネタの宝庫かもしれません!

さて、長いですがもう少し。
鈴木輝一郎先生の「何がなんでも長編が書きたい!」を読んでおります。以前から岐阜の小説講座が気になっておりました。
こちらの小説講座ものすごく受賞歴が高いんです。先生も本で書いている通り、講座に通ったからと言って小説家になれるわけではありませんとあります。もちろん、そのとうりですが、実績がすごいわけです。
他の小説講座と何が違うのか。それは、教室内の許可ない合評は禁止しているところです。間違った方向に行かないようにですね。あと、交流も禁止しております。あまりに受賞者が多いので、仲間がどんどん去っていくと、心が折れそうになるからですね。
確かに、私もそうなるかもしれません。
先生はさっさとプロになって友達を作ればよろしいと書いておりました。この言葉がぐさり、と胸に刺さります。
私は数日前、大阪の小説講座に通うか検討しておりました。その方が仲間も増えて楽しいし、書き続けることができるのではないかーー甘かったですね。友達できても、お互い合評しあうようになって、向こうのが上で嫉妬して書かなくなってしまうかもしれません。友達の方がすごいって勝手に評価して、自分の欠点ばかりアマチュア同志で批判しあって書けなくなったら、元も子もありません。
岐阜の教室は個別でリモート受講も可能、料金もリーズナブル。
ただ、書かないと進めないだけです。ここ重要。

本では自分が小説が下手だとまず認めて、まず作品を書かないと指導しようがないと書いております。たしかに、当たり前でごわす。
私は療養中なので毎日一時間程度、執筆できておりますが、これからは会社行きながら書かないといけません。
もし、友達や友人に読んでもらうのも禁止な場合は、小説を書いている話だけでもモチベに繋がるのではないかと考えます。
「見せてー」「読ませて—」ってなったらお題をもらい短編を書いて読んでもらう。いいのができたら何かに投稿。
小説講座は先生のところに決めよう——今の段階でそんな考えに至りました。








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