TALK:小池一子×中村政人対談
東京の街を舞台にした国際芸術祭「東京ビエンナーレ」。現在進行形で様々なプロジェクトが進みつつある「東京ビエンナーレ」とは、いったい何なのか? 目指すものは? 乱立する“芸術祭”と何が違うのか。総合ディレクター中村政人と小池一子の2人が語り合った。(2020年1月15日収録)
聞き手:佐藤直樹(アートディレクター)、上條桂子(編集者)
写真:土田祐介
東京ビエンナーレ構想とは?
上條桂子(以下、上條):中村さんが3331 アーツ千代田を立ち上げられた際、企画書に東京ビエンナーレをやりたいという構想を書かれていたと聞きました。何故そのような構想が立ち上がったのでしょうか? そこからお話を伺えればと思います。
中村政人(以下、中村):芸術祭というと、日本各地で開催されているものを思い浮かべると思いますが、そういうかたちでの“芸術祭”をやりたいって思ったことはありません。僕は90年代から国内外で作家活動をしてきて、海外のいろんなアートシーンを見てきたけど、そこで感じていたのは、アートシーンの成り立ち。立ち上がり、と言えるかもしれない。アート“ワールド”ではなくて、アート“シーン”の成り立ちに興味があります。
89〜92年の間に韓国に留学していて、その間にバックパッカーで世界各地を巡っていました。例えば、アムステルダムとかロッテルダムって進歩的じゃないですか。当時、現地で見たことだけど、作家たちが自分の場所を創る方法として、ある学校をスクワット(不法占拠)したことがあったんです。そう聞くと横暴な行為に思えるけど、後から聞いたらアーティストが入ってからの方が街の治安がよくなったと。その場所でアーティストたちが作家活動を続けていくことと、街で立ち上げようとしている活動の間にある関わりや切り口みたいなものがだんだんと見えてきました。さらに、作家たちの動きが10年、15年にもなると、今度は行政や財団等も評価し資金援助があり、アートセンター化していき、廃墟の学校がスクワットされた結果、地域に開かれた文化施設として再生していきました。
アートシーンというのは、美術館があってシーンが生まれるというよりは、作家たちの多様なアクションそのものがあって、そこから鋭い切り口の表現活動が生まれてきます。それがその地域のアートシーンとしてオルタナティブな活動として見えてくる。そういうオルタナティブな活動の連鎖が、その地域のアートシーンのベーシックな体力になっていくのだと思います。実際、個人で作品をつくるときも、いろんな意味でトレーニングをするわけです。観察することは当然、手の動き、その他の特別な技術もそうだし、自分の中で様々なことを鍛えていかないと作品はつくれません。自分を鍛えていくということと、社会と関わる切り口。それが発展していった時に、どういうヴィジョン、どういう社会を目指そうとしているのかというのが、最初の僕自身が考えていたことなんですよ。
佐藤直樹(以下、佐藤):海外のアートシーンの動きに詳しくなっていく過程で、日本にそういうシーンがないという絶望もあった?
中村:オルタナティブなアートシーンを創り出している人は、少なかったですね。小池さんや自主企画展を野外でつくっているような活動は、とても貴重だったと思います。
また、アイデンティティの自己形成をある意味シーンの形成とシンクロさせて考えているところがあって、自分たちのアートシーンを導き出すためには、自分たちで展覧会を企画するしかないと考えていました。例えば、「THE GINBURART(ザ・ギンブラート)」(銀座、1993年)では、銀座1丁目から8丁目までを8人のアーティストで縄張りを分けるように担当を分けて、ゲリラ的にアクションを展開しました。蓋を空けてみたら約40人のアーティストが参加して、勝手に銀座のアートシーンを塗り替えるような熱い想いで活動していました。
佐藤:ある意味、そこで思いは実現しているとも言えるじゃないですか。
中村:そこでは、自分なりにこういうことをやってもいいんだというひとつの手応えが得られました。関わった作家も含めて、その出来事を受け止める側も、大勢の人ではないんだけれどもきちんと見てくれました。一緒にアクションを起こした人たちとのシンクロしながら、一歩時代が進んでいく実感。これがアートシーンだなって思ったんです。だからそれは、いいとか悪いとか面白い面白くないではなくて、一緒にやれるかやれないか。そこの大きなひとつの流れがあったんです。
佐藤:どうなっちゃうんだという不安よりは、やるしかないし、やることで次に繋がるんだという。
中村:一般的な意味でのキュレーションとは全然違うんだと思います。キュレーションというのは、作品から何か新たな価値観を読み取って、その思想の切り口を明快に伝えていくことなんだと思うんだけど、僕がやったことは全然違う。当時の作家周辺の人たちが、同じ時期に「こちら」から「あちら」へずずーっと向かったような? 動物の大移動じゃないけど、そのずずーっと動いたなという感覚がないと歴史軸に対峙できないと考えていました。例えば、僕らから振り返って60年代の作家たちの活動っていうのは、像でしかない。一人の活動ではなくてシーンとして見えてきます。それは僕一人が個人で表現活動や造形的なことをするというよりも、同じ時代の作家たちが全然違う方法でなんだか面白いことをやっているということ。自分の表現活動として、ライブ感あるアートシーンが発芽していく全体を伝えたい。そういう考え方を打ち出していった方が、個と全体という意味でも関係がつくれるんじゃないかと思っています。
佐藤:その考え方は今でも?
中村:今でも変わらないですね。だから、“国際芸術祭”とは言っているけど、自分の考え方なり、人との信頼関係なり、自分自身の体力なりがやっと国際的なところに向かえるようになってきたということかもしれません。いま、東京ビエンナーレのひとつの特徴と言える「ソーシャルダイブ」のオープンコール(海外公募)の審査中なんですが、これが大変なことになっていて。プランの応募が1400件以上あったんです。それだけ海外のアーティストたちからも注目が集まっています。
アートの実験場としてのオルタナティブ・スペース
上條:では、小池さんにもお話をお伺いします。小池さんは80年代に「佐賀町エキジビットスペース」(1983-2000)という非営利のオルタナティブ・スペースを運営されていました。この場所を始められた時、無印良品などの広告のお仕事も同時にされている。小池さんが広告のお仕事をされていく中で、佐賀町の活動をやっていかれたいと思う動機がおありだったのでしょうか?
小池一子(以下、小池):70年代、すごい才能がヴィジュアル・アートというかグラフィックの世界に出てきました。当時はデザインという言葉の中でも、プロダクトやインテリア、インダストリアルデザインなどの力がようやく見え始めた頃。私は幸せにも尊敬するアートディレクターに出会えたことで、彼らとの仕事で視覚の世界を知ることができました。もともとは、言葉を扱おうと思っていまして、ビジュアルランゲージというものをずっと考えていたんですね。だからコピーライティングの勉強をしてみたりもしました。アートディレクターとの伴走の仕事の中で、海外の旅が重なっていき、もともと自分の好きだった美術の仕事の見え方が変わってきました。もちろん美術史には滔々たる流れがあるんですが、その中で新しい力が見えてくる瞬間というものがあって。ロンドンでは「Alternative London」という雑誌があって、それを見て「オルタナティブ」という考え方があるのかということを知ったり。当時はニューヨークでもパリでもこの時代は元気がよかった。だから私も「オルタナティブ東京」ということは、夢に見ましたよね。でも、東京全体の仕事ということではなくて、個別のアーティストでいいから、きちんと寄り添って何かつくることができないかと、「佐賀町エキジビット・スペース」をつくりました。
ベルギーの面白い学者がいたんですが、最初にその人とルネ・マグリットの展覧会「マグリットと広告 これはマグリットではない」をつくりました。マグリットというのは、世界中に影響をを与えた画家。それはアート界だけではなく広告界にも影響を及ぼしています。さらに、マグリット自身も広告をつくっていたんです。その広告の仕事では、コピーライティングをアンドレ・ブルトンが担当していたり。そうしたマグリットの一連の活動を彼は調べるのですが、世界の広告デザインに影響を与えているのは画家・マグリットの仕事だという論文を書いてパリの大学の博士過程に通した。その論文をもとにした「これはマグリットじゃない」という展覧会がパリのポスター美術館で開催されて。それを観た時に絶対に日本に持ってきたいと思ったんです。なんて面白い、なんて自由なんだ。ヴィジュアル・アートって、いろいろな入り方ができると思ったんです。ちょうど私が広告の仕事から美術の仕事に特化しようかなと思っていた時期だったこともあり。そして、当時眠っていた食糧ビルの発見とスペースのオープン催事にいたるわけです。
中村:あのビルは素晴らしい場所でした。
小池:私の場合は空間ありきですね。あの空間に出合わなかったら、そんなに長く続いていなかったかもしれません。当時、大竹伸朗みたいな表現力のある人が出てきて。大竹さんが立派な個展をできるような会場をつくりたいと思いました。天井高や広さもそうですが、空間がすべて作品を受け入れてくれるような、そんな場所をつくりたかった。大竹さんの展示は、いろいろとあって4年待ちましたが実現しました。当時、キュレトリアルな仕事というのは何だろうというのを考えていたんだけど、テーマで切っていろんなアーティストの参画を求めることで、何が伝わるのか。時代の思想の変遷、主張の流れといろいろ言えることはあるんですが、まずやっぱり作品をつくる人、アーティストの手伝いをしたいと思ったんです。それで個展をしっかりつくるというのを重ねていったんですね。
その後、森村泰昌さんたちが大阪で「イエスアート」ぼくらはノーと言わないでイエスという、グループをつくりました。そのグループショーに出品されていた森村さんの作品を南條(史生)さんが見て、89年のヴェニス・ビエンナーレに持っていくんですよ。その時、海の向こうにビエンナーレという国家間の競争みたいなものがあるんだということを実感しました。思ったんですけど、ヴェニスって美味しいからみんな行くんですよね(笑)。私の好きな「衣食住」主題に関連するんですが、芸術祭というのはそういう切り口もないとダメなんだと思いました。
そんなことで、当時、普段のアートの仕事が、遠くと思われる大きな国際芸術展みたいなものに直結していくのを感じたんですよね。それと同時に、森村泰昌さんの絵はいくらだとかいうアートマーケットの反応があるんだということもわかりました。
佐藤:中村さんは、こういう森村さんたちの活動はどう見ていましたか?
中村:僕らはちょっと年下だったので、こうなんだなと思いつつ。自分たちとは違うなと思っていました。まあ、なんていうんだろう。森村さんとか関西系のアーティストとは、あまり接点がなかったのですが、作家同士っていうのは、集まると寄り添うのが難しくて、どうしてもバチバチしてしまう(笑)。現在進行形で動いている間は、そんなに厳しくないんですよ。でも、止まるとお互いの議論がぶつかってしまうんです。
最初の「THE GINBURART」に参加した作家たちも、その後10年、20年と経つとそれぞれの立ち位置が見えてくるんですが、全員が何らかのアクションは起こしていて、それぞれがやっぱり面白い。何かの力がシーンのエネルギーになる。個人の創造力と都市の創造力がシンクロする間のプログラムって僕は思っているわけだけれど、その一瞬共存したということの体験が、連続的に起こってくると、個々は個性的で多様な人たちの全体性みたいなものが生まれてくる。いま、多様性ということが言われているけれども、多様性っていうのは個性を認めることですが、実際は、強い個性が集まるとなかなかまとまらない、協同というものが生まれにくい。多様性と協同性は、共存しにくい。そのしにくさを街が解決するようなフレームをつくる。僕がやっていたことは、まさしくそうだったんです。集まってと声を掛けたはいいものの、集まっても誰も言うことを聞かないし、時間も締め切りも守らない、突然作品ができてくる。だけど、彼らは一緒にある出来事に参加したということにおいて、ある全体像をつくったことになる。例えば「THE GINBURART」とか「新宿少年アート」(新宿、1994年)という名で、一つのフレームでその多様性をまとめると、自分たちが参加したという自覚を持つことができる。自覚を持って行動するということが、ひとつの経験として自信につながるんですよね。個人が自信をつけて一歩前進する。バラバラな多様な何十人という集まりが一歩同時に前に進んだという、この集団の人たちの創造性が、確実に同じ都市において協同した関係を生み出したことに手応えをもったのだと思います。また、その大きなうねりみたいなものをその後どうするのか? ということを考え始めていました。展覧会、プロジェクトという協働するフレームをつくること自体が私の表現となると感じていました。
作家たちのプランを聞いてまとめて会場交渉をしたり、かばんみたいな大きな携帯電話を肩から下げながら、歌舞伎町をうろうろして事務局だと言って対応したりという経験が、次のプロジェクトにその協同する活動が引き継げなくなる。その火を消さないためにはどうしたらいいかと考えたときに、組織のようなもの、マネジメントの知識と経験を蓄積していける“場”が欲しいなと。その“場”、つまり拠点に対して人が集ってくるようなことができないかと考えました。それが97年につくった「コマンドN」です。そこで初めて街のあちこちでやっていたバラバラな、多様なものが、時々きゅっと集まる協同の場所になったわけです。これは日頃自由に生きている個と個が、いざというときに支え合うことができる協同体。その個の自由と協同性の連帯感のバランスが重要と考えていました。
さきほど小池さんが言っていた佐賀町の空間の話とも関連するんだけど、最近「寛容性」について考えていて。こうした協同体には、寛容性があることが重要だと思っているんですね。寛容性というのは受け止める力で、空間もその力を持ちます。例えば、佐賀町エキジビットスペースはとても寛容な場所だったと思います。寛容であると同時に、めちゃくちゃ批評性のある場所。何でも受け止めてもらえそうなんだけど、同時にこの場所を使って何を表現するんだい? と空間から問われているような、批評されているような場所でした。
小池:確かにそう。単に作品をつくるのではなく、あらゆる外部に対してどう見せるのかということを検討した。インスタレーションの始まりの時でもありました。
中村:東京ビエンナーレもそうなんだけど、多様な個々を寛容に受け止めると同時に、他者に対する批評性がなくてはなりません。空間が持っている批評性、批評的言語を呼び出して、そこにチャレンジするということを作家と運営側の両者で考える必要があると思っています。
小池:私が仕事を始めた頃、同時代の芸術家グループには「もの派」や「具体」がいて、どちらかというと観念が先に立つような印象でした。そんな中で仕事をしていたので、中村さんが銀座や秋葉原でやっていた動きは、なんて面白いんだろう! と思いましたね。新しいムーブメントが作られているんだって思いました。
中村:日本の美術界の文脈で言うと、「ネオダダ」「具体」「もの派」や「ポストもの派」「ニューウェイブ」などの流れがあるとおもいますが、やっぱりそれはアート界の中での概念を形式に継いでいるに過ぎないって思っていました。そこに自分がやっていること、やりたいことを当てはめようとすると、全然当てはまらない(笑)。でも、アート界に合わせて生きていくよりも、まちに照準を合わせて、さっき言った寛容性と批評性を求めようとした方が、はるかに面白いなと感じたんです。
小池:「佐賀町」はその中間くらいにいるのよね、きっと。
中村:小池さんが素晴らしいなと思うのは、コマーシャルな文脈をちゃんと知っているということなんですよ。つまり、セゾンの堤さんやイッセイさんらの、産業としての構造にちゃんと入って仕事をしているということなんですよ。それを僕はやったことがない。学生時代に少し仕事をした経験はあるけど、時間や思いをかけてつくる作品に対して、何のリスペクトもないまま扱う人がいて、そこに対価が発生するということもわかった。小池さんは、そういう産業構造の中で絶妙なバランスをとりながら、芸術の事業をして、かつ広く時代に発信し続けている。やはり、すごい人だと思います。
小池:本当にアートそのものが経済性を持つかというと、そういうことはないと思っていました。だからデザインの仕事で食べながらアートをやるっていう構造はずっとあって。それは仕方のないことだと思ってきましたが、最近はそれこそ多様な動きが出てきて勇気付けられます。
中村:小池さんが思っている本当の意味でのアートの「本当の意味」にどうすれば近づけるかというのは、少しずつ見えてきているような気がして。今回僕らは、そこにチャレンジしていきたいですよね。
アートの寛容性ということで、公募展の「ポコラート vol.9」(アーツ千代田3331、2020年)に参加した作家のことを思い出しました。その人は、カセットテープをずーっと見続けているんです。何も喋らないで、ただ、カセットテープを見たり、テープを引っ張り出したり、ケースを入れ変えたりして。20年くらい、ずーっとそれをやり続けているんです。その方の映像をいろんな方と見ていて、「カセットテープだけのことを考えられる領域ってどこにあるんだろう」という話になりました。それは精神的な障害を持っているという切り口で言えば、なんらかの病名が当てはめられるのかもしれない。でも、その行為は彼の心の領域であって、さらにそれを施設として長年受け入れ続けていること、カセットテープが大量にある環境……。様々なことが絡み合っているのだと思いますが、何故こんなことが可能になったのかと。アートはそうしたものを受け止めて、一緒に考えることができるよねと話をしていて。そこには経済性なんて関係ない、人間のひとつのあり方なんです。「“純粋”であり、“切実”であり、どこかが“逸脱”している」そのあり方をどう感じ取れるか。アート界では、ちゃんと感じ取れるんだということを見せたいし、そういうことが感じ取れなくなったらダメなんだと思う。こうした表現がアーティストの表現とは違う、なんてことはないんです。
佐藤:この作品がいくらっていう話じゃないですよね。経済とは何の関係もない表現は確かにあります。
小池:昨今よく話題になっている「生産性」の話になりますね。最近は、人々の考え方もすごく変わってきていますが、そんな社会の中でいわゆる“アート”、そしてアートに関わる人間が、そうした寛容性をどこまで見せられるか試されているような気もします。
チェンマイ・ソーシャル・インスタレーションと
芸術祭を起こす場所の寛容性について
中村:先日、学生に「チェンマイ・ソーシャル・インスタレーション」(1995年)の取材を受けたんです。95年にタイのチェンマイで開催された展覧会なんですが、爆発的に面白かったんです。タイのアーティスト、ナウィン・ラワンチャイクンから声を掛けられて、街のどこで作品を展示してもいいからやらない?って言われただけで、特に条件は他に何も連絡がない。もちろん渡航費も製作費も出ないし、コーディネーターもいない、街を案内してくれる人もいない。でも現地は美味しいものがいっぱいあるし、気候もいいし、なんか楽しい(笑)。オープニングの日になると、突然バスがやってきて「作品見に行くぞ!」と言われて、それに乗って街を巡る。何故か白バイに先導されながら。めっちゃゆるい。その場所に着いたとしても、作品が完成していなかったり、来るはずの作家が来ていなかったり。そんな感じだったんです。
佐藤:いいですね。あいちトリエンナーレに行った時、生真面目に網羅するぞとチェックして見ましたけど、よくよく考えたらおかしいです。それって本来の芸術祭の楽しみ方じゃない。チェンマイの展示とは対極になっていました。
中村:最近になってチェンマイの展示が再評価されているようです。何故あんなに国際的にアーティストが集まって、刺激的な状況が生まれたのか? モンティエン・ブンマーというアジアの文脈で非常に重要な作家がいるのですが、彼らが主導したソーシャルアート・プロジェクトです。今振り返ってなぜ参加したかというと、当時ギャラリーも美術館もなかったチェンマイの街自体が究極的な寛容性と批評性がある街でありプロジェクトだったからだと思います。その街にアーティスト中村が試されているなと思ったからです。どんな作品を作ったかというと、現地で見かけた型どりされたビニール袋に入ったドラえもんの形をしたアイスクリームを使用したインスタレーションでした。アイスは、いろいろな色があって、工場を見に行ったらそのドラえもんアイスを量産していました。展示会場の床に、そのアイスを自然光だけで並べました。タイで見かける涅槃仏のように、横たわっている大量のドラえもんを見せたいと考えたんです。工場に1000体欲しいって行ったら、明日できるよと言われて、その場で制作費を払ってつくってもらったんです。作品をつくり、発表、鑑賞するために街があるように思えたのです。東京でそんなことを瞬間的にできるわけがない、楽しい限りです(笑)。
街自体が工場であり、寛容に受け止める場なのです。一つなんらかのアクションを起こすことで、アイデアの実現可能性が一気に高まっていく。それが楽しかったですね。また、チェンマイの作品を見たカナダのキュレーターが、次の展覧会に誘ってくれたりもしました。チャンスがどこに繋がっているかわからない。そういう得も言われぬ“街の力”みたいなものあった。この寛容で批評性ある街の力がビエンナーレの基礎体力になるんじゃないかと思ってます。
その“力”は、アーティストだけが持っているわけじゃないし、街の工場のおじさんが持っているとは限らないけど、「こういうの作りたい」「いいよ」という信頼関係のなかで生まれてくる。何社も見積を取って比較してっていうことじゃない。それは留学していた韓国も同じで、地域と関わってものをつくる面白さには、そういう原体験があります。何かをつくろうとした時に、答えがすっと来ることと来ないこと。一瞬で発注できる面白さもあるけど、答えがすぐに来ないなら来ないで、どんどん人に会っていって、たらい回しにされる、そのプロセスにも別の面白さがある。制作の悩みが街と共にある。その意味では、先ほど小池さんが、作家と「寄り添う」って言ったのが少し近いなと思いました。
上條:なるほど。そうした原体験をいまの東京でそれを行うというのは、どういうことなんでしょうか。寛容性と批評性ということでいうと、いまの東京にそれがないとは言いたくないですが、それをどう見出していくかはどう思われますか?
中村:いま、ソーシャルダイブのオープンコールの1000以上ものリストを見ているんだけど、ここに投影されているんだと思う。
小池:そうね。ソーシャルダイブのオープンコールの応募者が多かったこと。それは、“東京”と“ビエンナーレ”という二つの言葉に、いろんな思いをかけて反応したのではないかと思います。私たちは東京の街って表面だけがキレイだけど冷たくて嫌だなんて思っているかもしれないけど、東京のまちに興味を持ってくれる人というのはもっと違う、鋭い見方をしている。それが国際的な反響の面白さですよね。
中村:特に海外の人たちの視点は、国内の人たちよりも客観的に見えている気がします。もちろん誤読もあるのかもしれないけど、すごくコンセプトが明快。東京やビエンナーレに対する興味、「ソーシャルダイブ」という言葉に対する興味、まちに潜っていくというひとつのメッセージが強かったのかなとも思います。応募してくる人たちの企画を見ていると、みんな東京のことをすごくよく調べてるんですよね。もちろん公募なので選ばなきゃいけないんだけど、まず一回はそのプランを受け止めなければならないと思っていて、プロポーザルだけでなくHPや作品の動画までついつい見てしまう。結果、一人2〜30分かかってしまい、審査時間が大幅に延長してしまった(笑)。
この作家が提案してきたプロジェクトを実際にやったら、まちにどんな影響があるのだろうか、地域の人たちはどう思うだろうかっていうことをイメージしてみるんです。その時に、リスクや負担、予算のことも考えるんだけど、このプロジェクトを一度体験することによって地域を少し変えるきっかけになるだろうなって思えると、さらに作家に興味が湧いてきます。ソーシャルダイブの作家の思いは、かなりアクティブなものが多い。応募されてきた膨大な量のプランを見ていくと、いくつかのタイプにわけられて、それをさらに詳しく見ていって、東京ビエンナーレの諸条件に合うかどうかを検討していきました。ソーシャルダイブのプロポーザルのなかに、東京ビエンナーレの特徴というものが色濃く表れるんじゃないかと思います。
小池:そう、これが東京ビエンナーレの特徴になりそうね。中村さんのアピールに「切実」とあって、これに食いついてきた人も多い。彼らの問題意識にそれがあるからです。
佐藤:なるほど、ソーシャルダイブに応募してくるような人たちは、東京やビエンナーレ、アートという言葉に反応しているんだと思いますが、これらのプロジェクトを実際に展開していく時は、いわゆるアート的なものに触れたことがない人たちにも向けていくわけで、そういう人たちもシーンの構成要素になる。その人たちに何って言ったら、気付いてもらえるんでしょうか。いま、地方各地で芸術祭がぽこぽこ起きているなかで、それに対する興味を持つ人たちも一定数いて、ひとつの“芸術祭”というフレームができあがっている。と同時に、いわゆる“芸術祭”というフレームで語られてしまっていいのかという疑問も湧いてきます。
小池:“ビエンナーレ”なんて言っちゃって何するの?って思っている大人は多いに違いないですよね。そういうことじゃないのよ。ビエンナーレっていう言葉をどういう風に読むかは一人一人違うと思うけど、その人の世界観やまちに対する思いがあって、「東京で何かが起きる」っていうことなんですよね。
中村:そうなんです。ビエンナーレという言葉のなかに、現代美術界のある種の重さが込められてしまっていて。海外の人たちも東京でビエンナーレだったら従来のビエンナーレのかたちなんだと思っている人も少なくないと思う。同時に、そう思いつつも、いや新しいことにチャレンジするんだろうなっていう期待感も持ってくれているんじゃないかなと思います。
小池:東京のブリティッシュカウンシルに以前いた友人から「これ新しいビエンナーレのプロトタイプを作り出しているんじゃないか」と言われて、ものすごくうれしかった。
中村:そう。そこがね、大事ですよね。「いったい、街のどこで何をやるんだろう?」っていう期待感が大事かと。そういう場所が東京のあちこちにあって、さらに場所に固定されないアクションがまちのあちこちで起こる。ソーシャルダイブなんて特にプランを見ている段階だと「ああ、展覧会をつくるの大変……」っていう感じ(笑)。でも、作家たちのアクションが何本も同時に走っていくことで、東京というものに対して、いままでとは違う見方をすることができる、既存の価値フレームを読み替えるきっかけになるはずなんです。少なくとも僕らは勘が働いているから、そういう読み方ができるんだけど、例えば学校の先生や普段アートに触れていない人たちは、まったくそのイメージができない。だからこそ、その価値観の壁を超えて表現の尊さを共有したいのです。
小池:先程のマグリットの話に絡めると、彼の作品の《これはパイプではない》みたいに「これは“ビエンナーレ”じゃない!」って言ってもいいくらいなのよね。
中村:確かに「これはビエンナーレではない」っていうのは面白いかもしれませんね。“ビエンナーレ”というのは形式化され過ぎてしまっているんです。本来、形式化されてきたものから一歩違うぞというものが、アートの根本的なエネルギーなわけで、一度形式化された型を守ろうとしているものを見ると、それは違うんだよねって言いたくなります。それは自分の表現にも言えます。権威とかポジションを大事にするとか。特に欧米のものを日本に持ってきたところで、かなり意識がズレているにもかかわらず、形式だけ守ろうとしていることがまだまだあります。美術館が新しい展覧会をつくりにくくなってきたからこそ、ここで東京ビエンナーレが「ビエンナーレではない」というメッセージを投げ続けるのが重要です。それこそ美術館は「美術館ではない」って言ってもいい。型を守りたいって言い張る人は絶対にいると思うけれど、それはそれでよくて、次の世代への流れにエネルギーを与えて世代交代していって欲しいというか。時代が変化する際に、少しでもいい方向を見つける動きができるんじゃないかと思っています。
ビエンナーレ自体が権威主義になっちゃ絶対だめ。でも、2回目、3回目とやっていくと、ビエンナーレ自体がだんだんある種のかたちになろうとしたときに、また考えるべき時がくるんだと思います。
小池:それは次の人に頑張ってもらおう、と希望を持たないと。
態度そのものが形になる、
まちに深く入り込むアート。
佐藤:書籍『地域アート―美学/制度/日本』に書かれていたような批判も、きっと繰り返し出てきちゃうと思います。東京でやる芸術祭も同じだろうっていう。結局、自分の生き残りのために芸術祭という場所をわざわざつくって……という冷めた目線もきっとあると思います。本当に面白いメッセージや考え方があったりしたらそれを歓迎する気持ちも生まれるでしょう。それが経済活動とは関係のないところで回って、それを味わえる場所が社会にあることが大事なんですよね。ただしそれを説明することは難しい。そうすると、とにかく楽しもうよっていうことになっちゃうのかもしれないけど。
中村:そこには段階があるんだと思います。人っていきなり絵を描き始めたりしないでしょう。それはまちもアートシーンも同じなのだと。全国の都道府県に公立の美術館ができているけれども、まだまだ一般市民の人たちは、アートに対する体験値が少ない。一方でアートの経験が増えている人たちもいます。僕らがチャレンジしているのは、「ものであったアートをできごとに変えていく」ことなんだと思います。結果ではなくプロセス。佐藤さんのように描き続けている事をまず、体感しなくては、その先には行けない。
かつてハロルド・ゼーマンが「態度がかたちになるとき」(スイス、ベルン、1969年)という展覧会を開催しました。ものを見るときに、形に気付いてものを見るのではなくて、態度そのもののなかに形が見えてくるということ。要は、僕らはアートというものに対して、形から入り過ぎていました。ものから先に入ってしまったことで「これがアートだ」と言われた時に、そのものをつくる人の態度を置き去りにしてきた。それを「芸術は爆発だ!」とか言ってしまうと、変な人認定されてしまうわけだけど、かたちからイメージしすぎている。つくる人の考え方や姿勢、地域や人に対しての触れ合い方のなかに面白さがあると思う。
佐藤:それが結果としてアートになるということですよね。
中村:そう。今は態度そのものが形になるという経験があまりにもなくて、結果だけを見過ぎているんです。最近やっと、ビジネス界や教育界でもプロセスや思考が注目されるようになってきました。東京ビエンナーレではアウトプットとしての行動そのもの、態度そのもの、活動そのものを表現として言い切っていいんだと思います。この前、久しぶりに行ってきたのですが、ニューヨークのPS1は非常に残念な例のひとつ。PS1というのは71年に立ち上がった非営利のオルタナティブスペースなんだけど、2000年にMoMAと合併して「MoMA PS1」になってしまった。そっちに行っちゃダメでしょ、と僕は思っていて。確かに、MoMA化することで予算もつくし、運営は楽になるし、エスタブリッシュされたように見えるかもしれないけど、結果、態度そのものが地域から見えなくなってしまったんじゃないかと。だから、東京ビエンナーレも回を重ねていった時に、そうなってしまってはダメなんだよね。
佐藤:アートと関係性という話で、少し振り返っておきたいんですが。戦後、読売新聞社主催で「読売アンデパンダン」展(1949-1964)が起こって、毎日新聞社は「東京ビエンナーレ」(1952-1990)をやっているなか、「東京ビエンナーレ2020」の契機にもなった1970年の「人間と物質展」があって。朝日新聞社主催の「世界・今日の美術展」(1956)ではアンフォルメルが紹介されました。それらの展覧会で紹介されたのも、単にものとして彫刻や絵画があるわけじゃない、関係性みたいな話で、それぞれの展覧会のスタイルはあれど、同じように探っていた時代なんじゃないかと。「もの派」や「具体」などと並行するかたちで、赤瀬川(原平)さんが出てきて、ネオダダやフルクサス、アンデパンダン展などの活動があって。赤瀬川さんが面白いのは、アートシーンのなかで自分の名前を刻むというよりは、そうじゃない外れた動きをし始めるじゃないですか。
小池:「路上観察」とか。それは、現在のアートの開かれ方、まちとアートの関連論議の先駆けですごいと思いますよね。
佐藤:赤瀬川さんや建築家の藤森照信さんとかがやっていた、まちに出て行く行為。アート的な確信は持っているんだけれども、アートシーンで何かをしようというのではなく、まちに出て楽しそうなことをしていくという。よくわからない得体のしれない集団といった感じで。そうした人たちへの思いというのは、当時ありましたか? 無理矢理関係付けて整理して言葉にする必要というのはないんだけど、おそらく赤瀬川さんの周辺への思いもあったんじゃないかなと思っていて。「東京ビエンナーレ」の名のもとに芸術祭をやるということと、先人たちがいろいろ試していたことの関係というか。
中村:日本の現代美術の文脈というのは、まだまだ経験値が足りないと思っていて。もちろんさっき小池さんがおっしゃったような話、ファッションや広告という産業構造のなかに小池さんが存在しているということが大事なんだと思っていて。赤瀬川さんの面白さというのは、尾辻克彦名義で芥川賞を受賞するほどの作家であり、「千円札裁判」とか事件となった現代美術のトピックもあり、『櫻画報』という漫画を描いていたり、イラストレーター的な立ち位置もあり、路上観察もしてきて……。ものすごく多面的。それって何かの形式に合わせたというよりは、彼が単に興味を持ったことに表現の方法が開花し、たまたま世の中が反応した。それこそ、態度が形になったということなんだと思います。
いまの現代美術の文脈というのは、すごく形式化されてしまっていて、美術館は社会のなかでの役割を問われています。さらに予算がどんどん削られていて、そうなるとアート界自体が、文脈のなかで培われてきたアートという枠のなかだけじゃ当然機能しなくなってきます。現代美術の文脈の在り方というのが、ひとつの文脈だけではなく、学術的にも多様な文脈に接続していかない限り生き残れないし、面白くない。そうならないと、さっき話をしたような寛容性は生まれません。
美術教育の話で言うと、もっと芸術の可能性を広げたいと思っています。藝大が藝大だけじゃ生き残れないし、東大も東大だけじゃ生き残れない。東大では芸術は、美学などの表象という分野はあるけれども、芸術を実技、実体として捉える教育課程はない。だからこそ、そこをつなげられたらと思っていて。その時芸術は、芸術のための芸術ではなくて、全ての学術に接続できる学問にならなきゃいけない。それを前提として、芸術という考え方が、どんな領域にも入っていけるということをアカデミックなレベルからも伝えていきたい。東大を目指している子どもたちが芸術もがんばらなきゃダメとなったり、芸術を教養として身に付けなければお医者さんになれないというくらいの学術的位置づけにしていきたい。今、美術教育の流れから、この点をチャレンジしようと思っています。
小池:田中泯さんの最近の舞台が素晴らしかった。出演者は一般の人からオーディションをして選んで。物語が進んで、あるカオスのなかで泯さんが登場するんですが、その時の姿が着流しの着物の腰に刀をすっと刺していて。もう、見ている方は思わずおひねりを投げたくなるような姿で。後におっしゃっていました。芸術、芸術ってずっと言ってきたけれど、今の俺はこれだと。ああ、泯さんはすごいところに行ったなあと思いました。
中村:それは珉さんが舞踊を通過して映画俳優も通過したからこそ、辿り着ける境地なんじゃないですか? アートシーンの熟成感というのは、個人の歴史のように簡単に熟成するとは言い切れないと思うんですよ。寛容性と批評性に委ねるような切っ掛けがあると思う。東京は関東大震災、第二次大戦のような大きな天災と人災を経て、ゼロから立ち上がれる都市として成長してきました。この甚大な被害が結果、東京の成長を飛躍させています。一人の人間が生きていることと、それらの集積である都市。そこには、個と全体の新陳代謝が促される必然的きっかけが絶対あると。例えば、1964年と2020年という二つのオリンピックというのが、切り口としてはわかりやすい。1970年の「人間と物質」展から50年という考え方もあるけど。田中泯さんのような成熟感に辿り着くためには、やっぱり僕らがここで産みの苦しみを味わって、未知なる領域に挑み、さまざまな経験値を貯めていかなきゃいけない。リレーショナルアートはリレーショナルであることだけではダメでもう一歩踏み込まなきゃいけない。ソーシャルエンゲージド・アートはエンゲージドだけで終わっちゃダメであってその先を創り出さなければならない。
まちの人たちが持っている文脈っていうのは、お祭りや地域行事、マンションや億ションを買うことだったり。そういうなかでの関係性はもっと生々しくて、もっとベタで、もっと強い。その普通の日常に見慣れない場を創っていく。ビエンナーレでチャレンジすることはそこなんじゃないかな。一度まちのなかに深く入り込んでまちの人たちと一緒にアクションを起こす、そこをしっかりチャレンジしていって、結果、60人くらいのアーツプロジェクトやアクションや言説が“態度”になれば、東京ビエンナーレのビジョンが見えてくるんじゃないかと思います。
小池:ソーシャルダイブの国内応募者の方たち何十人かのインタビューをしましたよね。そのときに作家の“態度”というものを少し感じました。提案した人たち同士はすぐに話が合うし、熱く語り合えちゃったりする。何かが生まれだそうとしている感じはありましたね。
中村:そうそう。確かにその雰囲気はありましたね。どのプロジェクトからも情熱が感じられるので、選考はため息続きですが……(笑)。
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