「ノルウェイの森」が描く生と死

もっとも好きな小説は何か、と問われるとなかなか簡単には答えられないが、真っ先に候補に上がる作品の一つが村上春樹の「ノルウェイの森」である。

村上春樹が好きということに対してさまざまな反応をする人々が思い浮かぶ。とりわけ、「村上春樹苦手なんだよねー」という反応をする方も多いのではないだろうか。文体が気取ってる上に、性描写が露骨で、毎年ファンが騒いでうるさい、っていうのが村上春樹嫌いの方々の印象ではないだろうか。
一方で、ファンからしたら「ノルウェイの森」が好きっていうのは非常にニワカにみえることで、実際に「ノルウェイの森」は村上作品の中では異色な部類に属する。
僕自身村上春樹の他の作品も大好きだし、彼のファンだが、繰り返し読んだ回数が一番多いのはこの作品で、3か国語(日本語、中国語、英語)で読み比べたことがあるくらい愛着がある。

初めてこの作品に出会ったのは、2011年3月東日本大震災の頃だ。春休みが到来したまさにその日に、震災が起こり、家に帰れず学校に泊まったことは一生忘れないであろう。家に帰ると、津波で人々が普通に生活していた空間が壊され、原発は不安定な状態に陥り、言いようのない不安感・虚無感に襲われた。その時期に出会ったのが、村上春樹の「ノルウェイの森」であった。「ノルウェイの森」ではとにかくいろんな人が死ぬ。それが当時の東日本大震災での風景と重なり、人生にはどうしようもない悲しみがあるということを深く印象付けられた。そこから何度もこの作品を読み、読むたびに感じることが変わっていった。この作品から学べたこと、感じ取ったことはかなり自分の人生に影響を与えた気がする、ただそれを言語化できない状態がずっと続いていた。
それが最近になって少しずつ、ぼんやりではあるものの見えてきたので、言語化してみたいと思う。

【1】ノルウェイの森における<生>と<死>の構図

「ノルウェイの森」ではいろんな人が死を迎える(そのうち自殺がかなり多い)が、その多くの特徴として以下の2点があげられる。
①自分の居場所の喪失を背景とする、もしくは見越した死であること
②その死が誰かにとって居場所の喪失となること
ここでいう「居場所」とは、「その人にとって承認と安心感を得られる場・人間関係」のことをさし、二人以上によって構成される。
そして、<生>はこの「居場所」の存在、もしくは「居場所を追い求め続ける意志」の存在が前提となる。

しかし、留意しなくてはならないのは、ノルウェイの森では、生と死は二元論的な対立関係にない、つまりお互いに矛盾する概念ではないのである。

死は生の対極としてではなく、その一部として存在している。

これはノルウェイの森の2章に登場する主人公ワタナベによるあまりにも有名なセリフである。これに対して、主人公はこのように続ける。

そのときまで僕は死というものを完全に生から分離した独立的な存在として捉えていた。つまり、<死はいつか確実に我々をその手に捉える。しかし逆に言えば死が我々を捉えるその日まで、我々は死に捉えられることはないのだ。>
(中略)しかしキズキの死んだ夜を境にして、僕にはもうそんな風に単純に死を(そして生を)捉えることはできなくなってしまった。死は生の対極存在なんかではない。死は僕という存在の中に本来的にすでに含まれているのだし、その事実はどれだけ努力しても忘れ去ることのできるものではないのだ。あの十七歳の五月の夜にキズキを捉えた死は、そのとき同時に僕を捉えてもいたからだ。

親友キズキの死をきっかけに、主人公ワタナベは死を生の対極概念として捉えなくなる。そして、死は生のなかにすでに含まれているという。
親友の死を経験した結果、生と死は対極概念といえるほど離れておらず、死は生の中に埋め込まれているといえるほど近いことにワタナベは気がついた。上記の<居場所>をめぐる構図を当てはめれば、生には常に居場所もしくはそれを追い求める意志が必要になるということは、それが失われた瞬間に人は死を選択する。そして、キズキの死を通じて、主人公はその瞬間がいつでも訪れうるほど生の中に埋め込まれていることに気づく。自分にとって大切な存在である他者の死はありふれているし、そしてそれは自分自身の死への契機にも容易になりうる。つまり、居場所(もしくはそれを求める意志)の喪失=死の可能性は常に生の中に潜まれており、その瞬間は生の最中にいつでも訪れうる。
そして、キズキの死を通じて、生の条件である居場所を喪失したワタナベは、生きてはいるものの、常に死を自分の中に宿しながら生き続けることになる。

生のまっただ中で、何もかもが死を中心にして回転していたのだ。

このように考えると、本記事のタイトルにもなっている<生>と<死>という構図は、『ノルウェイの森』では、一般的な、<生>と生が終了した瞬間もしくはあとに訪れる<死>という構図に加えて、<生>と生の中に宿っている<死>という構図も含まれている。

【2】登場人物をめぐる生と死

この視点で、主な登場人物をみていく。

①直子の孤独

この作品における最大の山場である直子の死についてまず見よう。
おそらく直子にとって大きな転機となったのは、恋人キズキの死であろう。元々直子にとって、キズキ、そしてこの小説の主人公ワタナベで構成される3人グループが「居場所」であり、中でも小さい頃から幼馴染で恋人であったキズキはとりわけ重要な存在、「居場所」であった。そして、ある晩キズキは突如前触れもなく自殺し、「遺書もなければ思い当たる動機もなかった」死を遂げる。直子とワタナベは元々「二人きりになってしまうと、僕と直子は上手く話すことができなかった」と主人公がいうような関係であるため、キズキの死は彼ら二人にとって居場所の喪失となった。大学に入ってから偶然直子とワタナベは再開し、何度もデートした。そして、直子の20歳の誕生日に初めて性的な関係をもった後に精神治療施設(阿美寮)に入る。精神治療施設といっても、かなり広い敷地で、自由度も高く、患者共同で菜園を作ったり、学校があったり、独立した快適な共同体であった。ここで直子はレイコさんという姉御的な存在の年上の女性と出会い、時折訪ねてくるワタナベとともに良好な関係を築けていた。起伏はあるものの、直子は新たな「居場所」を見つけられるように見えた。しかし、ある時期から再び病状が悪化し、より閉鎖的な精神病院に入院したあとに、再び回復に向かおうとしたときに自殺するのであった。

さて、なぜ直子は突如自殺したのだろうか。この小説を振り返った時に、僕が印象に残るのは、冒頭の主人公の回想シーンでの直子の発言だ。
ワタナベのずっとそばにいるという発言に対して、そんなのは不可能で、例えば会社での出張などで必ず側を離れなくてはいけない瞬間がくるし、そこでずっとワタナベを自分の側に居させるのも対等な人間関係ではないと話していた。これだけで、直子の<生>を巡る考え方がいかに特殊で、そして彼女にとって生きることがいかに困難かわかる。
また、直子は「ほとんど生まれ落ちたとき」からの幼馴染のキズキとは何事も共有し、恋人のような関係になるのも自然だったという。その一方で、もし生きていたらお互いに愛し合うが、「少しずつ不幸になっていったと思うわ」と述べている。その訳とは、自分たちが自分たちだけで完結した世界を作り、外の世界との結びつきがなかったからである(ちなみにその外の世界とつなげる役割をワタナベが果たしていたことも同時に述べてある)。
ここで、なぜ直子は自殺したのかという問いに戻る。小さい頃から一緒にいたキズキは直子にとって唯一無二の存在で、「居場所」であった。その居場所は「ほとんど生まれ落ちたとき」からのものであったために、直子にとってそれなしで生きていかなくてはいけないことはかなり過酷であっただろう。一方で、ワタナベは自分たちと外界をつなげる存在ではありえても、同じような「居場所」とはなりえない存在であった。
ワタナベとの関係が直子にとっての新しい形での「居場所」となりえた可能性ももちろんあったようには思う(もちろんキズキとは全く違う形だが)。ただ、奇しくもワタナベが別の女性「緑」と直子で心が揺れ、レイコさんに相談した直後に、直子は自殺した。自分がかつていた「居場所」が二度と戻らないこと、そして「ワタナベ」という違う形での「居場所」となりうる存在もいつか消えうることを予見して、直子はこの世に別れを告げたのではないか。
ちなみに直子があらかじめ入念にその準備をした上で死を選んだことが作中で描かれている。つまり、死を選んでそれを前提とした上で彼女は残りの生を送っている。思えば、これこそがまさに冒頭で説明した生と死は二元論的な対立関係にあるのではなく、死は生に内在していることの例である。

そういえば、キズキの死も謎に満ちており、その理由はかなり推察が難しい。ただ、その一つに直子もいっていたような「少しずつ不幸に」なっていく自分たちを予見して、この世を去った風に僕には思える。つまり「居場所」の喪失もしくは崩壊がいずれ起きうることを予見していたのだ。

②主人公ワタナベ

ところで、この作品は主人公ワタナベの視点で語られるが、ワタナベが直子やかつての親友キズキと異なる点としては、受動的な部分も多いにあるものの、居場所を失っても生きる意志を示していたこと。

「おいキズキ、と僕は思った。お前とちがって俺は生きると決めたし、それも俺なりにきちんと生きると決めたんだ。(中略)俺は責任というものを感じるんだ。なあキズキ、俺はもうお前と一緒にいた頃の俺じゃないんだよ。俺はもう二十歳になったんだよ。そして俺は生きつづけるための代償をきちっと払わなけりゃならないんだよ」

ワタナベが唯一の友人と語るキズキの死はもちろん彼にとって大きな喪失であった。しかし、彼は少なくとも生き続けた。普通に恋人を作り、大学に入って寮に住む「突撃隊」と呼ばれる住人と奇妙だが滑稽な生活を送り、寮で知り合った「永沢」と大学生らしくナンパで女を引っ掛け回したりもした。ただ、それでも再会した直子に惹かれたのは、心のどこかしらでかつての3人の「居場所」をなんらかの形で回復させたいという思いがあったのではないかと考える。実際、大学における生活は彼にとっての居場所となりえなかった。それはキズキを唯一の友人と語るところや、永沢とある時期から交流を持たなくなったことからもわかるし、ナンパでひっかけまわした女の子たちは容易に取り替えが可能な記号に過ぎなかった。しかし、そんな彼の大学生活における例外が、この作品のもう一人のヒロイン「緑」であった。

直子を失った後、ワタナベは再び緑のもとに帰ろうとする。長い間直子と緑の間で揺れていた彼がついに決断して再び歩み出そうとする。しかし、最後のシーンで電話で緑に「あなた、今どこにいる?」と聞かれた時、「僕は今どこにいるのだ」と自分の居場所がわからなくなってしまうあたりワタナベの新たな生への歩みはまだまだ不安に満ちたものであることが伺える。

③緑の魅力

『ノルウェイの森』読者が口を揃えて言うのが、緑の魅力だ。僕自身は初読時は全くそのようには感じなかったが、2回目以降は多くの読者と同じような感想を抱くようになった。
緑はかなりぶっ飛んだ女の子だ。突拍子もない変な行動を平然とやる。しかし、それでも彼女を多くの読者が魅力的に感じるのはどうしてだろうか。
一言で表すと、それは「居場所に恵まれない中でも、居場所を求め続ける存在」であるからだと私は考える。彼女は小さい頃から両親に十分に愛されず、自分と合わない名門のお嬢様学校に行かされ、大学でも自分がまともと思える場所がなく、彼氏でさえ彼女の個性を抑圧しようとするし、これまでの人生で自分が居場所と感じられる場所を十分に見つけられなかった。
それでも緑は明るく振る舞い、時にはど肝を抜かれるような行動を取りながらも、自分の<生>にしっかりコミットしていた。そして、不満を覚えていた彼氏と別れ、別の女に惹かれ問題を抱えていたワタナベを追い求めるところに彼女の生きる姿勢が見いだせる。その一方で、おそらくワタナベが彼女を選ばなくても彼女は生きていけるだろうと思われるほどの強さを緑は持ち合わせている。そんな生きる上での強さはほかの登場人物にはなく、緑にしかないものであった。

④レイコさん

受動的なワタナベと能動的な緑というコントラストをおいたとき、レイコさんはまた一味違った存在であろう。
三度の精神崩壊を経て、ピアニストとしての夢も家庭も捨ててしまった彼女は阿美寮で直子に出会い、そして直子に見舞いに来るワタナベとも知り合う。阿美寮でのレイコさんはとてもかつて悲惨な境遇に見舞われた人とは思えないほど落ち着いており、阿美寮で直子とともに平静をみつけられたかのように見えた。そして、6章で「ここを出て行って外の世界とかかわりあうのが怖いのよ」というように、その平静に慣れてしまったが故に外の世界に戻れなくなってしまったようにみえる。
しかし、直子がなくなったあと、レイコさんは阿美寮を離れ、旭川という未知の土地での生活を開始させようとした。これまで人生で何度も居場所を失った彼女が、大事な友人である直子をなくしたあとに自分の居場所であった場所を離れ、新たな地で暮らそうとするのは非常に心を打ちものがある。

【3】結び:<死>を常に孕む生を生きるには

さて、「ノルウェイの森」を通じて、我々は様々な死を見ることができる。そして、逆説的に「ノルウェイの森」における生は、我々がいかに<生>に必然的に宿っている<死>に抗いながら生き続けられるかを考える上で多くのヒントを与えてくれる。死を選ばずに生き続けることを選択した登場人物を通じて、私たちの<生>について考えることができる。

上述のように、ワタナベと緑はいいコントラストをなしている。

ワタナベは、一言でまとめてしまえば、受動的な<生>である。周りに流されながらも、突撃隊、永沢など周囲の人物とうまく折り合って生きている。そして、それは当初の緑に対する態度にも当てはまっている。しかし、大して好きでもなかった地元の彼女と別れて上京を選んだり、直子を追い求めたり、永沢と縁を絶ったり、緑にアプローチをかけたり、受動的な態度のみならず、能動的な選択も徐々にするようになる。特に、最後にレイコさんに「幸せになりなさい」と背中を押された結果、緑に電話した場面は、ワタナベの生き方の転換の可能性を示唆するものである。しかし、「僕は今どこにいるのだ?」と言ってしまうほど、まだまだ自分の<生>に迷いがあるようである。

余談だが、村上春樹の作品における主人公は、みんな多かれ少なかれ内向きで受動的な男性である。90年代後半刊行した『村上春樹、河合隼雄に会いに行く』において、村上春樹は「デタッチメント(かかわりのなさ)からコミットメント(かかわり)」への転換を宣言したのである。このことから、90年代後半以降はさておき、それ以前はデタッチメント、つまり積極的に関わらないことが村上春樹の作品を理解する上でのキーワードであることがわかる。(そして、90年代後半以降のその転換はうまくいってないと評する声が多いのも興味深い)

直子を亡くした後、ワタナベは以下のように述べる。

「死は生の対極にあるのではなく、我々の生のうちに潜んでいるのだ」
たしかにそれは真実であった。我々は生きることによって同時に死を育んているのだ。しかし、それは我々が学ばねばならない真理の一部でしかなかった。直子の死が僕に教えたのはこういうことだった。どのような真理をもってしても愛するものを亡くした哀しみを癒すことはできないのだ。(中略)
我々はその哀しみを哀しみ抜いて、そこから何かを学び取ることしかできないし、そしてその学び取った何かも次にやってくる予期せぬ哀しみに対しては何の役にも立たないのだ。

哀しみ(≒死)と共存して生きることにワタナベはたどり着いたのである。

一方で、緑は上述のようにこれまで十分に満たされてこなかったものの、それでも幸せを追い求めている。終盤の10章でワタナベがまだ迷っていると緑に告げた時、緑は「ねえ、私は生身の血のかよった女の子なのよ」と答えたが、この言葉は彼女を非常にうまく表している。緑は実際に「生身の血のかよった女の子」であるし、「生身の血のかよった女の子」として生きたいしそう扱われたい。しかし、これまで彼女が周りにその個性を押さえつけられていたことを考えると、彼女は思うように「生身の血のかよった女の子」として生きられなかった。それでも緑はワタナベに「いいわよ、待ってあげる。」といえるほど緑は辛抱強い。一方で「でも私をとるときは私だけをとってね。」といえるような強さと幸せへの追求も同時に彼女は持ち合わせている。(ちなみにフェミニズム的な観点から村上春樹はあまりにも女性を都合のいい存在として描いているというような批判がよくなされる。父性の不在ならびに母性への過剰な依存という評価と合わせて村上春樹の作品を特徴付ける側面として見逃せない部分である)

ワタナベと緑の両者に対して、レイコさんの生はまた少し違ったものである。なんども精神崩壊に見舞われたことからレイコさんは決して強い存在ではない。そして、「ここを出て行って外の世界とかかわりあうのが怖いのよ」というように外の世界で幸せを積極的に追求できるほどの強さもないようにみえる。しかし、直子の死をへて、阿美寮を離れ未知の地で暮らすことを決意した彼女は緑的な<強さ>とはまた違う静かな<強さ>を身につけたようにみえる。惨劇になんども見舞われながらも、静かな<強さ>を身につけて歩み出そうとするレイコさん的な生への姿勢もまた一つの生き方であろう。

ここでは書ききれなかったが、登場人物の数だけ『ノルウェイの森』に<生>のあり方を見いだすことができる。永沢さん的な生も、突撃隊的な生も、存在する。
しかし、『ノルウェイの森』において生と死は二元論的な対立関係にないことから、私たちは同時に死を選択することも生のあり方の一つであるという考え方に出会う。キズキも直子もあらかじめ死を決断し入念に準備した上で自らの命を絶った。つまり、死を前提とした上で、残りの生を送ったのである。この考え方が正しいかどうかはここでは論じないし、個人的には同意しないということを付け加えておく。
それでも、ワタナベが死は生の中に存在すると言ったように、我々の<生>は一筋縄では行かない厳しいものである。そのような<生>をどう生き抜けるかはすべての人が絶えず向き合わなくては問いである。我々にできることは、この問いに向き合いながら、自分の<生>を生き、自分の居場所となっている他者の<生>を尊重し、ときには助けることである(そしてワタナベが直子を助けられなかったように、時としてそれは失敗する)。

『ノルウェイの森』はそんな<生>、そしてそれに宿っている<死>についての一つのささやかな物語である。








【※】追記:性描写の意味

ところで村上春樹の他の作品の例に漏れず、ノルウェイの森では性描写が頻発する。これも村上春樹が嫌いな人がよく指摘するポイントだ。性描写の意味がよくわからない。
ただ、これだけ頻発させるのには必ず理由があり、これを紐解くことも村上作品を読む上で大切になりそうだ。振り返れば、本書を通じて性行為に二つの側面があることに気づかされる。
①性欲を満たす手段としての側面
②関係性を確かめる手段としての側面(=居場所を確かめる手段)
 =これは多くの場合「愛を深める手段」と言い換えられるが、そうでない場合もある(特に本書においてはその場合が多い)。そして、ノルウェイの森においては、「居場所を確かめる手段」という風に言い換えることもできる。

重要なこととして性行為を行なっている者同士でも性行為に求めている側面が異なっている可能性があることである。また、(少なくともこの作品において)性行為の前提として「性欲の存在」が必要となる(ただし、強姦などのような場合にはこれは当てはまらない)。
また、一般的には性行為には他にも生殖の手段や金銭を得る手段としての側面もあるが、ここでは捨象する。そして、ノルウェイの森を振り返ると①と②の側面をしっかり書き分けていることに気がつく。

わかりやすい例が一つある。永沢とワタナベがナンパで女を引っ掛けようとしてなかなかうまくいかなかった日の次の朝、ワタナベは一夜明かしたカフェで彼氏と別れたばかりの女性と出会う。そのままワタナベと女はホテルで寝るが、二人が性行為に求めていたものは異なる。詳しい描写は省くが、文中の記述からは女性は性行為を通じて別れた彼氏との記憶(これは「居場所」とも言い換えられるだろう)に浸ろうとしているのに対し、ワタナベは特段性欲を満たす以上の何も求めていないのだ。つまり、女性は上記の②の関係性・居場所を確かめる手段としての性行為(もっともそれはすでに失われたものだが)を求めていたのに、ワタナベは①の性欲を満たす手段としてしか求めていなかったといえる。
ここで我々は性行為という行為の特殊性に気づく。性欲を媒介にしながらも、当事者間ですら全く異なる感情を抱くことがありえるのだ。さきほどの例でいえば、女性は関係性(それはすでに失われているが)を確かめるために行っているのに、ワタナベは性欲を満たす以上のことは求めておらず、関係性を全く気にかけていない。ワタナベにとってはここにおいてはむしろ関係性は不要である(むしろ関係性がないからこそという可能性も考えられる)。このように同一のものを媒介にしながら、性行為の描写は関係性への没入(依存)と関係性のなさを描くのにうってつけである。

さて、ノルウェイの森を考察する上で、避けて通れないのが直子が20歳になった夜のことだ。直子が20歳になった日、ワタナベは彼女と共に彼女の誕生日を祝った。そして、その日に両者は関係を持ったのである。
上記の図式に従った時、直子とワタナベはそれぞれどのような側面を性行為に求めたのだろうか。ワタナベは「いまでもあの夜直子と寝たのが正解だったかどうかわからない」というように、自分の中におけるあの夜の出来事の位置付けをとらえきれていない。一方で、直子は①の側面をあの夜の出来事に見出していた。ここで直子がこの夜の以前にも以後にも性欲を感じたことが一度もないことに留意すべきだ。特に、キズキを愛していたのにも関わらず、だ。これを通して、直子が抱える欠陥の一つがみてとれる。キズキを愛し、彼との「居場所」が生きていく上で不可欠なものだったのにも関わらず、性欲を持てない。一方で、ワタナベは愛していなかった前の恋人との性行為やナンパで多くの女性と関係を持つことから、相手との愛がなくても、相手との関係に「居場所」的な意味がなくても、性欲を満たすために性行為を行うことができた。ここに、ワタナベの人間関係における姿勢が見て取れる。彼は物語を通して、人間関係において受動的な存在として描かれている。自分から人間関係を作ることや深めることを能動的にすることはあまりない。その例外が直子との関係だ。直子に対しては、自分から手紙を送ったり、阿美寮に行ったりしている。これがなぜなのだろうか、そしてあの夜直子と寝ることを通じて彼は何を求めていただろうか。おそらく正解はないだろうが、キズキもいたかつての「居場所」が一つの答えとして考えられる。つまり、キズキの死によって失われた居場所を回復させたいという思いがあったのではないか。そして、直子と寝たこともこれの一環だったといえるだろう。しかし、直子はこの夜の出来事をきっかえに罪悪感を覚える。愛していたキズキに対してはできなかった行為を、愛してもいないワタナベとはできた。このような直子が抱える問題も彼女の特殊性の一つであり、彼女が生きていく上でいかに大きなハードルを抱えているかを描写している。

もう一つ、本作において奇妙なのが終盤で直子が亡くなった後に、レイコさんとワタナベが寝たことである。しかも両者ともかなりそれに没入したのである。
これは上記の居場所の構図に従えば、ワタナベ-直子-レイコさんで構成されていた居場所(関係性)の確認と捉えられる。直子を失った今、ワタナベは緑という違う女の子を選択し、レイコさんは阿美寮を離れ旭川で暮らすことを決意した。これから別の居場所を見つけ生きていこうとするときに、最後に両者ですでに失われて二度と戻ってこないであろう居場所を性によって確認しあったという風に捉えることができるのではないか。

このように批判されがちな村上春樹の性描写だが、一つ一つ読み解くとそこにはしっかりした意図があることが伺える。
性描写は村上春樹にとって、<生>と<死>にかかわる重要な要素である関係性(居場所)を描く上での重要なモチーフである。



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