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賀茂道子「GHQは日本人の戦争観を変えたか 「ウォー・ギルト」をめぐる攻防」から(3)

なぜ、1980年代、1990年代に「自虐史観」が拡がったのか。
やっぱり学校教育かな。70年安保闘争の影響もあったけど、中学校、高校と、父親世代に対する思春期的反抗心と学校の革新派教師からの説明の板挟みになって、どっちに対しても反抗的な態度をとっていたことを思い出す。 

文化的には当時流行っていたフォークソングに散りばめられた。反戦のメッセージやロックが標榜していた反抗、それらが毛沢東の「造反有理」と結びついて若者が蝟集していました。そこに何か新しい「未来」がみえる感じがしたのです。

そして、その新しい「未来」は日本の国体とか天皇とか靖国神社とかいった日本の「過去」のことはどうでもいいやって感じがしていたのです。韓国や中国からの誹謗中傷は、若者に敵対している「悪い」大人たちに対する批判であることから、それこそ「てめえらよく聞いて反省しろ」って気持ちからむしろ「喝采」していました。

従軍慰安婦問題も発覚したときには、それみたことか、やっぱりなぁ、という気持ちがありました。だって、中学の時に革新派の教師から、朝鮮人の強制連行を教え込まれていたからです。そりゃ、男にやってたことを、女にもせんわけないわなぁ、という気持ちでした。

慰安婦問題が公然化したのは、92年。その頃、僕は大学を卒業して弁護士になっていました。周りの学生もほとんど、吉田誠治が語ったことは事実だと受け止めていました。
まじめかどうかは別として、そこそこ自分の知力に自信があって、大人たちのいうことのいい加減さがわかってきたら若者が「反抗的」になるのは当然だと思っています。聡明な「女」が偉そうにするだけの「男」に反感と嫌悪を持つのと同じことです。 

世の中のことを分かってくるというのは若者・学生には無理ですよ。スタイル若しくはファッションとして身についた「反抗」は、まずは、伝統や常識といった非理性的な理屈を盾にとる「右」に対する反発からスタートし、「左側」に寄ります。やがて「左」が体制を牛耳っているという現実がみえてくると「左」に反発してどんどん「右側」によっていきます。その往還を経て、やっと世の中を知り、自分で見た現実を足場にして、自分自身で考えられるようになってくる、というのが僕のたどった軌跡でした。 

サルトルを一生懸命、辞書を引きながら読み解いて理解しようとしていた時期に、サルトルに批判的な視点を持て! といってもそれは無理というもの。宮沢・清宮の東大憲法の教科書を一生懸命讀んで理解に努めている時期に、これに批判的な視点を持て! といったら、結局は、中途半端な理解しかできません。学問 を修めるには、「没入」の時期を経なければならないのです。 

そして、皆んなその辺で学問に取り組むのをやめちゃうんですよ。サラリーマンになって会社に入ったら、定年退職するまで、仕事に関係のない勉強に「没入」する時間なんてないんだから。 

僕は、たまたま京大で佐藤幸治から佐々木惣一の系譜の「憲法」を叩きこまれたんで、東大の宮沢・清宮(芦部・樋口)の系譜の「憲法」を客観的に眺めることができたんです。これは今となってみれば、幸運でした。東大出身の弁護士で、京大憲法を理解している奴に出会うことはめったにないですから。ただ。現在の東大教授・石川健治は天才です。下手をしたら僕たちよりも佐藤幸治憲法を読み込んでいる。こいつは左翼だけど侮れない。切れすぎて危ういところがあるけど。

皆さん、覚えておいてください。京大では毛利透と曽我部真裕が鋭い。そして土井真一。土井君はいまのところ余り業績をあげられていないけど、その学識は凄いものです。 
(R4/8/23  MLへの投稿から)
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賀茂道子「GHQは日本人の戦争観を変えたか 「ウォー・ギルト」をめぐる攻防」から(3)
賀茂道子「GHQは日本人の戦争観を変えたか 「ウォー・ギルト」をめぐる攻防」から(4)

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