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【読書 (+映画) 記録】流浪の月

今回は凪良ゆうさんの、"流浪の月" です。
読んでから少し経っているので、読んだ直後、映画見た直後に溢れるままに書いた日記から引っ張ってきているところもあります。ゆえに読みづらい文章になっているやもしれません。

読む前に

この作品は、ずっと読みたいと思ってて、図書館で貸し出し予約をして、何か月も待って、予約したことも忘れた頃に借りることが出来た本。
そしてそれがちょうど映画の公開の少し前だったから、なんというかすごく、いい感じだった。

初めて読んで

すごく歪で、とても苦しくて、でもとても美しかった。
私が好きな本は、こういうのばかりだな。
この作品に関して言えばもちろん、本屋大賞を取るような作品で、映像化もされたのだから、私がどうこうではなく現代を生きる人たちに刺さる作品なのだろうけれど。

傷を抱えた人がいて、というか誰もが自分にしか見えない傷を抱えていて、周囲が慮るその傷は、多分本人が思っているそれとはすれ違う。本当の自分が何かを、誰もわかってくれない気がする。そして自分すらも、本当の自分がなんなのかが分からなかったりする。そのこと自体は、大小はあれ、誰もが抱えていることなのかもしれない。

こんな風なこと、現実には起きないだろう、と思う。こんなにもドラマチックには、生きられないだろう、という意味で。だけど人の心理としてはすごくすごく現実的だと思う。すぐ近くに、こういう人はいるのかもしれないと感じるような繊細さ、緻密さで描かれた世界。うまく言葉にならないけれど。

ちょっと事態は好転しているって、救われて終わったって思いたいけど、そんな単純なことではない。だって結局、誰にも埋められないのだから。でも誰にも埋められないことを知ってるから、まだましなのかな。それを知ってるってことは、それはそれですごく寂しいことなんじゃないかな。

読みながら、泣いた。でも読み終わって自分の中で整理しながら、もっと泣いた。なぜこんなにも泣けるのだろう、と思いながら。哀しいのか、感動なのかそれすらも何も分からない。ただただ涙が出てくるんだけどこれは何だろう、そんな風だった。何に泣いているのか本当に分からなかった。今思い返しても分からない。

この世の理不尽を、理解できるようになってしまったな、と思う。昔だったら、もっと意味が分からなくて、もっと辛くて、もっと悲しんで泣いたと思う (今も泣いたけど)。だけど今はどこかに諦めみたいなものがあって、すこし冷めてる自分がいる。更に言えば、先に書いたように、少し現実的ではないな、なんて思ってすらいる。

それからとても真だなと思ったのは、善意が、敵意だと受け取られてしまうこともあること。バイト先の店長さんとか。人の善意を、素直に善意として受け取ることができる状態にあるっていうことは、案外希少なことなのかもしれない。

この作品は映画も観たので、その感想も。

観終わって

映像で観るとまた涙涙だった。原作より少し、苦しさが強い感覚があった。なんだろう、あんまり綺麗じゃない美しさというか。人間の不完全さが浮き彫りになっていて、だからこそそれを逆に美しい感じられるような。

前半、広瀬すずさんが言葉を発さずにただ笑顔を作っていることによって、世間というものに首を絞められていく、その感じがすごく強かった。その世間というものって何かはわからない。個々人の集まりのはずのそれが、大きな渦となって首を絞めていく感じ。
許すって、許される、って何。誰に、何を。人生って誰のものなんだろう。個人の人生は一人では組み上げることはできなくて、必ずどこかで他人が介入する。それは如何ともできないにしろ、いたずらに人の人生に足を踏み入れるのは違うだろうと思う。

基本、映画化された作品と、原作は、また違う作品として受け取るようにしている。同じ小説ですら読む人にとって違うものが見えるのだから、映画など、そこから生まれた作品はまた全く異なる作品であって当たり前だと思うから。
ただし、私個人の状態としてそもそも原作の設定が頭に入った上で観ていることには変わりなく、つまりあの作品をゼロベースで観た人がどう感じるのかは想像できなくて。だからどうしても、原作を読んでいない人はどういう風に受け取っただろうと考えてしまったりはする。もちろん、読んでいたからといってみんなが同じ受け取り方をしているわけではないんだけれども。

例えばこの作品で言えば、趣里さん演じる梨花ちゃんのお母さんが、原作で抱いた印象より少し悪い人みたいな感じになって終わってしまったのは少し気持ち悪かったかもしれない、私の中で。原作ではただただ、母親というより女、というか、自分の人生が自分にとって一番大事であるということを素直に受け入れて生きてる人ってだけ、といえばいいのかな。周りからすれば迷惑なこともあるけど、悪いわけではない、何ならみんなそうのはずなんだけど、どうしてか身勝手になっちゃうタイプの人という感じの印象だったから。

他にも、松坂桃李さん演じる文くんは、性的欲求を感じる相手が幼女だったのではなく、コンプレックスに苛まれた結果公園で子供たちを眺めていたこと。捕まって警察でいろいろ調べられることによって、「死んでも知られたくないこと」が明らかになってしまったことなど。どのあたりまで伝わるものなんだろう。原作は読む前提なのだろうか。

とにかく泣いてしまったけれど

小説でも、映画でも、とにかく泣いた。こういう時、私が流してる涙は誰のものなんだろうと思う。流している涙は紛れもなく私の中の水分が私の目から出てきたものだけど。そうじゃなくて。
だって映画を見ている時、私は座席に座ってスクリーンを眺めているだけなのに。どこも痛くない、どこも苦しくない。なのに何で泣いているんだろう。何が私を泣かせているの?可哀想だと思ってるの?可哀想、なんて感情は、自分がその人たちより優位にいることの、それが自分ではなかったことへの、安心感の裏返しなのでは?そう思う私もいる。でも私の中の部分は、そうではないと確信している。
本当に自分が何に泣かされているのかは分からないけれど、優越感とか安心感とか、そんなものを感じる余裕はないから。必死だから。何に。かは、分からないけど。

世間はこの物語を、どういう感情で見るんだろう。どんなふうに思って、どんな風に変わるだろう。何も変わらないのかな。この映画を見たところで、誹謗中傷も、差別も、誰かの傷も、減ることはないのかな。それをちゃんと見ている人がいるっていうことの証明がここにあることは、傷を負った誰かには救いになるんだろうか。私自身、この小説を読んだから、この映画を見たからといって何ができるだろうか。それ以上に、私の個の行動以上に、何かできることはないのかな。
よく分からなかったって人もいるんだろうな。「映画」としての作品の作り方について議論する人もいるかもしれない。俳優や女優が好きだから見ただけって人もいるかもしれない。時間のある土曜の午後に、とりあえず観にきてみただけで、面白くなかったなぁ、って思って終わっちゃう人もいるのかもしれない。世界を変える力なんてないと分かっていて、でも少しでも、理不尽に辛い思いをする人が減りますようにとは、祈ってしまうよね。

あとは純粋に、役者さんってすごいなあと思いました。

本日はここまでです。
ちなみに映画で部屋の床に光がキラキラしていたのが印象的すぎて、サンキャッチャー欲しくなって買いました。
キラキラしてるのをぼーっと見てるだけで幸せな時間の溶かし方が出来ます。とてもいいです。
以上、読んでくださった方、ありがとうございます。

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