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日本語が話せない曽祖母の話/続・自己紹介

今回は曽祖母の話です。
先に自己紹介の記事をご一読いただけれると嬉しいです。

ボクはふんわりとですが、先人たちの生きた証みたいを少しでも継いでいきたいと考えています。

曽祖母からは「愛情と思いやり」を教えてもらいました。
そして、曾祖母は「生きる」ことの意味を10代で考えるきっかけをくださった存在でもあります。

ボクの母方の曾祖母と曽祖父は日本語が話せません。
会話は常に宮古島の方言で、まったくもって、意思疎通が図れませんでした。
祖母に通訳してもらっていましたが、祖母も日本語と方言が混じっているため、自力で表情や声のトーンなどの情報から直感でコミュニケーションを図っていたのを覚えています。
今思い返せば、街中で突然英語で話しかけられても冷静に対処できているのはこの経験が活きているかもしれません。

そんな曾祖母ですが、物心ついたころから軽度のアルツハイマーを発症しており、小学校高学年になるころにはボクの顔が分からない程度に症状が進んでいました。ごくまれに調子の良い時は顔と名前が分かるぐらいでした。

さて、アルツハイマーの症状の1つに「何度も同じことを話す」があります。
曾祖母は、毎日のようにボクのところにやってきては、宮古島の方言で「ご飯は食べたか?」と話しかけてきました。多い時は1日に5回から10回はあったと思います。
※方言の意味は祖母に教えてもらいました。

所説ありますが、アルツハイマーで何度も同じことを話す症状が出ている方の話している内容は、
その人が人生で辛かったこと、悲しかったことに紐づいていることがあるそうです。
大学に進学したのを機にアルツハイマーに関する本を読み、衝撃を受けました。

想像にはなりますが、戦時下で食べるものがなく、餓死寸前の中で生き残ってきた曾祖母がアルツハイマーで記憶が思い出せなくなっていく中、残り続けた記憶がひもじかった戦時下の記憶だったのではないかと思います。
そして、子や孫たちには絶対にひもじい思いをしてほしくない、させないという「愛情と思いやり」が曾祖母の最期の最期まで絶対に譲れない信念だったのだとボクは解釈しています。
今の社会では餓死寸前の追い込まれることがないことに感謝しつつ、愛情と思いやりを持ち続ける人間でありたいです。

そんな曾祖母ですが、晩年はほぼ寝たきりでした。
生命維持装置みたいなものをたくさんつけて寝ている曾祖母の姿を見て、
「生きる」ってなんだろうとすごく考えさせられました。
もちろん少しでも長く生きてい欲しいという想いがあったのだとは思いますが、ボクは「機械に生かされている」と感じました。
昨今「健康寿命」という言葉がありますが、健康で長く生き続けるような人生を歩んでいこうと決意した瞬間でもありました。
また、もしも家族の誰かが生命維持装置なしで生きられない状態になった場合、生命維持装置を使わずに自然の流れに任せようと家族で決めたことも覚えています(ボク以外の家族が覚えているか定かではありませんが)。

過去を掘り起こすと、今の自分の人間性の根っこにあるものや大事にしたいと思っていることが眠ったりしているんだと思いつつ、ボクという人間を知ってもらうために書きました。

以上です!

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