続・いのちの捉え方についての思案を言語化してみた件 ―嘱託事件ニュースに刺激を受けて―

こんばんは、心太です。

今回は、先日に投稿した記事の続き物となります。
ALS患者さんの嘱託殺人事件のニュースを受け、自分なりにいのちについて巡らせていた考えの一部を言語化することを試みたものです。

前回同様、事件に直接的にどうこう言うつもりはありませんし、引き続き完全に私見となります。
また、答えのない命題へのあれこれの思案に、お付き合いいただけたら幸いです。

センシティブな話題なので、かなりドキドキします。
でも、戦争もなく、経済的、衛生的に恵まれた日本という国に産まれ、いのちについて考える機会は得難く、そして大切なことのように感じました。

前回は、子どもの頃の心太的いのち哲学と、心理学的な知識を得たことによる変化を書きました。

本記事は、私の“人間観”の変化と、“いのちの捉え方”についての言語化を試みていきます(約2400字)。

人間観とは

ちょっとびっくりしましたが、「人間観」って辞書にそのまま載っていない言葉なんですね。
なので、なんとなーく同じイメージでしょうが、私なりの定義をとりあえずこの記事中の「人間観」の意味とさせていただきます。

「人間観」とは_______
“人間とはこういうものだ”、“人間の持つ〇〇”という、人間に対する考えやイメージ。それらの考え方やイメージの総和、人間そのものの捉え方。

きっと、人間観もひとの数と同じ数だけあり、同意できるものもあれば、自分の持つ人間観とは決して相いれないと感じるものもあるでしょう。

なので、まあこんな考えもあるのかあ、くらいの感じで読んでいただけると嬉しいです。

さあ、盛大に保険をかけたところで、行ってみましょう!

過去の心太:人間=一個体で完結するもの

昔の自分は、人間は本質的に独りだ、と考えていた。
いのちも、また思考や感覚も、極限のところでは、他者と共有することはできない。
これは、科学的・現実的にはまったくもって正しいように思えた。

家族とも友人とも、色々なひととの関わりはあるが、自分のことを本当の意味で理解し、コントロールし、体験することができるのは自分だけだ。

で、あれば、自分を生かすも殺すも自分次第ではないか。
いのちは自分のもので、そして一個体の範疇にすっぽり収まる存在。
ひとの使命は、その自分の範疇にあるいのちを如何に燃焼させ、そして終えるか

でも、本当にそれだけなのか?
ひとは、人間は、生物は、ただ一個体に収まるような、ちっぽけな存在なのだろうか?

現在の心太:人間=?

さて、こちらも前編と同じく、昔に比べかなりあやふやになった
ひとをひとたらしめているものは何か?
一個体として、しっかりと存在していること、これは大前提。
でも、それだけか?と考えた。

ありきたりな回答となってしまうが、ひとをひとたらしめる要素は、恐らく他者の存在だと考えた。
他者との関わりの中で、“自分”というものが初めて現れる、ということもあるけど、今回はそういう話とは少し違う

現在進行形で他者と接触を持っていてもいなくても、我々は頭の中で、記憶の中で他者とつながっている。
そして、それぞれがつながっている他者は、また別の他者とつながっている。
つながりは、ぐるーっと巡り巡って、さらに過去や現在、そして未来といった時間軸も越えて、全てのひと、存在へと伸びていく

なぜ他者の存在が、ひとをひとたらしめる要素なのかというと、この“つながり”が作られるからなのだと思う。
ややスピリチュアルな話だが、ユングの集合的無意識、仏教の考え方(諸法無我)にもちょっとだけ通ずるものがあるような気もする。

ときには、他者に言われたことを反芻して苦しくなったり、他者の視線や評価を気にして辛くなったりもする。
「嫌われる勇気」で有名な心理学者アドラーは、ひとの悩みごとは全て、対人関係に帰結すると唱えたように、それほどひとは他者に影響を与え得る存在だ。

でも、同じように他者の存在や、一言が生きる理由や支えになったりもする
人生は面倒ごとや辛いこともたくさんある。
だけど、「大切な人のために」と考えると踏ん張れたり、好きなひとに言われた言葉をこころの宝物にしたりすることで、なんとか乗り越えることができるときもある。

ひとは、一個体として存在していて、全てを共有することは不可能だ。
でも、確かにひとは他者との間に存在し、他者からの影響、他者への影響なく存在しえない。
この“つながり”こそがひとを、ひとにするのではないか。

人間観の変化と、いのちの捉え方の変化

ということで、心太の人間観は、“一個体としての存在”“つながりの中の存在”が加わった。

いのちは本人のものだ。
この考え方は大部分が真理であると感じているが、“つながり”が加わったことでそれだけではないと感じるようにもなった。

ひとが“一個体としての存在”でしかないのであれば、
ひとの一生は孤独で、いのち燃え尽きたあとは無となる

自分で書いてちょっと驚いています。
思ったよりも強い言葉になりました。

書き終わって気付いた、徹頭徹尾、ぼくが伝えたいことは、
「ひとは独りじゃない」
これだけなのかもしれない。

“つながり”というのは、思ったよりも簡単にも作られる。
それこそ、その場にいるだけでひとは他者に影響を与えている(視覚情報や空間的な雰囲気など)。
関わりを持ったりしたらなおさらだ。
それに、自分が関わって影響(A)を与えたひとは、また別のひとと関わりを持ってなにかしら影響(B)を与える。
影響(B)のためには、影響(A)が必要だったともいえる。
そう考えるとすべてはつながっていて、自分もその中の一部で、そして独りではいられないはずだ

ひとのいのちは本人のものだ。
でも、ひとのいのちの持つ意味は、一個人の中に収まるような、小さなものではない
と、思う。

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なんだか思ったよりもスピリチュアリーなような、小難しい哲学のような、宗教的なような話になってしまいました(笑)
怪しいセミナーに呼んだり、高い壺を売りつけたりしないので、ご安心ください。。

前編は、いのちの自己決定について、心理学的な知識を交えて書いてありますので、そちらも良かったら是非。


では、また。


心太



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