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冬に溶けた彼


今日、春物のコートを下ろした。

今まで私を寒さから守ってくれていた冬物のブラウンのコートに比べると、それはとても薄くて心許ない。ぐんと防御力の落ちそうな装備にちょっぴり不安になって、ストールの一枚もかばんに忍ばせようかと悩んだけれど、それも家に置いてきた。三月が、冬が、終わろうとしている。


二月の頭に、恋人ができた。


自分でも驚いているのだけど、“3年付き合った彼”でも、“あの人”でも“優しい人”でもない、まっさらな状態で始まった人。去年の秋くらいに出会い、ぽつりぽつりと時たま連絡を取ったりなどしていた。3年の彼と色々あり私が連絡を返さなくなって途絶えてしまっていたのだけど、年明けに酔っ払ったその人が勢いに任せて私に電話をかけてきたところから急速に全てが動き出した。そこから毎日LINEをして、ほぼ毎夜電話をした。

3年の彼とのことなんかも話をした。どうしても「私から見た最後の彼」の話になってしまうから、私達の別れに至るまでの話を聞いたひとは「別れて正解だよ」と言う。そんな男は最低だ、などとも言う。私はそれがなんとなく自分がずるいような気がして嫌で、詳しく聞かれない限りはあまり人には話さないようにしていた。

でも、彼は、しっかり根掘り葉掘り私の話を聞いた上で、「ひどいと思う。でも、それでも君が彼を好きだったってことは、断片的に話を聞いた俺にはわからない、君にしか見せない素敵なところがあったってことでしょう。すごく魅力的な人だったんだね。」と言ったのだ。

それが、私が彼と過ごした三年が決して無駄ではなかったと、間違ってはいなかったんだよと、はじめて誰かに認めてもらったようで「彼と居た三年間のわたし」はとても救われた。それと同時に、なにか、すとんと、ぱたりと、思い出の蓋が閉まったような不思議な感覚に陥ったのだ。

その日から私は「3年の彼の夢」を見なくなった。

そんな毎日のやりとりをひと月半ほど続けた頃、私達は初めてふたりで飲みに行き、終電を逃した。タクシーを拾えば帰れる距離。それでも、なんだろう、離れたくないなあとぼんやり思っていたとき、彼が「さみしいね」とぽつりと零した。

私は頷きながら、なんとなく「ああ、するのかな」と思った。微かな期待と落胆が混ざったような変な気持ちだった。このまま、また、遊ぶようなことをして、この人とも終わってしまうのかな。私ももうなんだか慣れてしまったな。だめだな。でもまあ、この人なら、いいか。なんて、到底だめな思考が頭を占めて、私のためにタクシーを拾おうとしていた彼をそっと止めた。

ホテルに入って開口一番彼が言った言葉は、「あの、ほんとに、信じてもらえないかもしれないけど、何もしないから、安心して。」だった。

男女がホテルに入るということは、もう、そういうことだ。彼もきっと、最初からこのつもりでいたに違いない。そう思いながら、「ほんとう?」などと聞いて笑った。信じるわけがない。何もしないなんてことは、あるわけがない。

そう思っていたのに、ところが三時間経っても彼は私に指一本触れてこなかった。

ずっと腕組みをして私から少し離れてソファに座り、なるべくばかな話をして夜を明かそうとしていた彼に先に触れたのは、わたしだった。そういうことしたら、だめだよ。と言う彼の目の奥は、困ったように、けれど色をつけて揺れていた。

髪に触れて、抱きしめあって、キスをして、とうとう箍が外れた彼は、それでもとても優しかった。


始発でさよならをし、ああ、やらかした、ふしだらだ、これは百0で私が悪い、と頭を抱えた私に彼はその後、「こんなはずじゃなくて...何もしないなんて言って結局我慢できなくて本当にごめん。順番入れ替わっちゃったけど、俺と付き合ってください」と言ってくれた。


もう、三年愛した彼は、私の中から消えていた。こんなにも呆気なく、溶けていくのか。本当に、「溶ける」と言う表現がよく当てはまるように、虚しさも悲しさも戸惑いもなく消えていった。「あれだけ人を愛せたのは幸せだったな。迷惑もかけたな。ちゃんとこれからに生かそう」という気持ちだけが残った。


彼は本当にいちいち優しくて、私がやさしい、うれしい、ありがとうと言うと「普通のことでしょ」「優しさのハードル低すぎない?」と笑う。でも、私にとっては普通じゃないんだよ。嬉しいことなんだよ。

この先どうなるかはわからない。でも、私のすべてを聞いた上で大切にする、と言ってくれたこの人を大切にしたい。と思う。そして、この人と始まるために、あの別れがあったのかもしれないとも今は思う。


自分が幸せになるための別れは、時に強制的に起こるものである。

間違っていなかったよ、と、頭を撫でるように、読み返す。










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