許されている、という感覚が、わたしたちを自由にする。

 彼氏と付き合い始めて一年くらいは、どうしても彼氏の家で料理が作れなかった。もっと始めの頃は、洗い物もできなかった。彼氏にはたびたび「ドーシテ何もシナイノー?ズルーーーイ!」と言われたが、どうしてなのか、言語化できなかった。だんだん手を出すようになって、彼氏は「オトナニナッタ♡」とにっこりしたが、(別に、オトナになった訳じゃない、プスプス)とは思ったけれども、では何でなのか、よく分からなかった。

 考えてみたことはいくつかあって、「だって、結婚してた時は全部やってたから、今はやりたくないんだもん」とか「いっぱい運転してきてツカレタ!」とか「元夫に『不味い』って言われたから、料理するのが嫌だ」とか「あなたの台所の使い方がよく分からない」とか、いろいろそれらしい理由は浮かんでくるのだけれども、そのどれもが、決め手に欠けるような気がした。本当でないような気がした。

 今ではご飯も作るし、洗い物があれば彼氏のいない間にさくっと洗う。洗濯物を干してあげたこともある。家事まわりの話だけじゃなくて、「ナニタベタイ?」と訊かれたら提案できるし、「ナニホシイ?」と訊かれたら「これ!」と示せるし、飲みたいビールの銘柄が彼氏と違っていても平気だし、「君はこれについてどう思う?」と訊かれたら答えられる。一緒にいる時、好きなように、思ったように、楽ちんに、振る舞える。

 多分、それらのことができなかった頃は、「相手の希望から外れる振る舞いをしたら、罰される」という恐怖があったのだと思う。無意識下に。だから、相手の希望する振る舞いが分からないうちに行為することについて、心理的にものすごい負荷と抵抗があった。心の居心地が、悪かった。

 元夫の希望を外した行為をすると大変なことになったのは以前にも書いた通りだが、子どもの頃の経験を思い起こしていると、ひとつ、母との強烈なのを掘り起こした。皮から作る餃子、に一人でトライした時、料理本が文字だけだったこともあり、ぶよぶよなものができたのだが、その成果物を、母が全部捨てたのだ。母の家事のルールは細かくて、例えば食器を拭く布巾と鍋釜を拭く布巾も分けるし、黒い衣類は褪せるから裏返して干せだとか、靴下を2足まとめて洗濯ばさみで留めると乾きにくいとか、いまだに注意される。そんな母ですら、父の姉にあたる伯母よりはずぼらで、「義姉さんが台所にくると緊張した」とかいう話が出てくる。父の「俺より優れるな」希望を外し続けた結果、自己肯定感の低下に苛まされたことには、この間やっと気づいた

 これらのことは、別に彼らが特別抑圧的な人間である、ということを意味しない。元夫はDVを行う人間ではあったが、わたしは「The DV」というようなお手本みたいな典型的人間ていないんだろうな、と思っているし、父と母も、言ってみればよくいる普通のニッポンの父親母親だ。誰もがその人間関係において、希望し希望され、それに沿い、沿うことを求め、その日常的で社会的で歴史的で複合的な経験の集合が、コレ、なのだと思う。多分どんな方も、例えば女性なら、おばさま世代のどなたかに野菜の切り方の細かい指示を受けるくらいの経験はおありだろう。誰もが、抑圧の主体にも客体にもなり得る。

 しかしだ。彼氏と一緒にいる時、大体のことは問題にならない。彼氏の料理は緩い。じゃがいもの皮を剥かなかったり、ブロッコリーの茎をそのまま使ったり、しいたけの軸を取らなかったり、炊きあがった玄米ご飯が固ければ水をぶち込んだり。さらに言えば、食卓にポテトチップスが上がることだってあるし、ディナーが吉野家やマックやケンタッキーのテイクアウトになることだってある。お風呂でアイスクリームを食ったこともある。洗い物はシンクの水切りラックに載せて終わりだし、洗濯物を洗濯機の中で放置してしまって乾いたら、もう一度回す。たまに靴で家に上がる。彼氏の車にはちょっとぶつけた跡がある。彼氏の知らない日本語を教えても、彼氏は怒り出さない。彼氏がわたしに求めていることは、お互いに心地よくあることで、彼の定めたルールを守ることではない。

 どうしてわたしたちは、誰かの希望に添おうとするのだろう。どうしてわたしたちは、それがその人のマイルールに過ぎないのに、誰かのルールを遵守しようと努力するんだろう。どうして、そんな人ばかりではないのに、誰もが自分のマイルールを被せてくると、思い込んでいるんだろう。どうしてそれを破ると、罰せられると信じているんだろう。どうしてわたしたちは、ルールの遵守と引換えの愛に、条件付きの愛に、慣れているんだろう。

 彼氏は「生タマネギはヤダ」と言ったけれど、「生タマネギを出すのなら、愛してあげないよ」と言った訳ではなかった。わたしだって、「ディナーが吉野家のような人とは、別れる!」とか言ったりはしなかった。わたしたちは最初から、自由に振る舞ったとしても、愛されることが許されている。許されている、という感覚が、わたしたちを自由にするのだ。こういうことにひとつひとつ気付いてきたから、今、彼氏と一緒にいることが、すごく楽だ。同時に、彼氏と一緒にいない場所でも、生きやすくなった。

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