そしてトガワが残った。

 結婚していた2年間はわたしにとって人生最大の断捨離で、自分の中にくすぶっていた小説の麻薬が、全部抜けたような気がした。小説を読まなくても書かなくても、人生に何の問題もなかった。離婚して実家に戻った後に自分の所蔵する本はほとんど処分したので、今のわたしの本棚には、多分、現代日本の生存中の小説家の本は、一冊もない(まだ残っている本は、児童文学、文化人類学関係の教科書、英語の本が数冊、世界と日本の古典文学が少し、若干の詩集、今のお仕事や関心事に関わるエッセイ・ドキュメンタリー・研究者が一般向けに書き下ろした書籍、あと処分できないマンガ、で、小さい本棚3個分)。

 離婚後1年から1年半の間は、フィクションより現実の方がどうしても面白く思えたので、小説は読まなかった。書くことを再開して、徐々に気持ちも軟化して、少しずつ読み始めたのが最近のこと。わたしが若い頃は、今ほぼ重鎮となられている女性作家の方たちがわあーーーっと、その力を知らしめ出した頃だったと思うのだが(もしかすると、今でも若い女性作家の方たちがわあーーーっとその力を知らしめ出しているのかもしれないが、あまりウォッチしていないので)、その頃読んで憧れていた本たちを、読み返してみた。

 そこで一番思ったことは、(あっ、なんかもう、自分違うところにいる)ということだった。

 第1回「女による女のためのR-18文学賞」で最終候補作に残った後に、ある編集者の方に作品を見てもらい、少しお話をさせていただいた時期がある。その時わたしは、自分の好きな作家として、そのわあーーーっとした勢いの女性作家の何人かを挙げたのだが、その編集者の方には、「うん、その方たち、すごく魅力的ですよね。で、あなたは、〇〇さん的な、文章の力で魅せる方向に行きたいの?それとも、△△さん的な、ストーリーの巧みさで魅せる方向に行きたいの?」と(今振り返って、彼女の言わんとしたことを整理して単純化すると、そういうことだったと思う)言われた。当時ぴんとこなかったのは、その好きだった作家たちの魅力もぼんやりとしか分かっていなければ、自分の持っているものがどっちに向かおうとしているかも分かっていなかったからだろう。

 今になってみると、「どっちでもございませんデシターーーー!!!」という感じだ。あの当時何を考えていたのやら、本当に身の程知らずというか、それはレベルということではなくて、まったく自分と違う存在に憧れてロールモデルにしていたというか、例え順調に書いていたとしてもゴールはそこじゃなかったというか、何ていうか、学校で自分とは全然性格の違うグループに憧れて(そこに入りたい!)と力んでいたのに、卒業して何年も経ってからふと(あれ!?よく考えたら、今の友達みんな全然ああいうタイプじゃなかった……)と気付くような感じというか、そういう。

 そして今のわたしは、(じゃあもう、キクチトーコで行こう!)と思って、その好きだった作家さんたちとは似ても似つかない感じで文章を書いているのだが、(あっ、この人の影響だけ残ってた)と気づいたものがある。それが、戸川純だ。勿論彼女は小説家ではなくて、女優であり歌手である人なのだが、彼女の駆使する言語感覚は、やっぱり唯一無二ではないかなと思う。

 彼女の歌と初めて出会ったのが、小学4年生の時である。姉が、お友達のお姉さんの持っていた彼女のアルバムのダビングのカセットテープをお友達経由で借りてきたのをわたしも聴いた、という、ちょっと説明すると長すぎる経緯を経た。相当な田舎のことだったから、そのお友達のお姉さんて(会ったことないけど)、今にして思うとエクストリームな少女だったよね、と思う。「玉姫様」と「極東慰安唱歌」と「好き好き大好き」だった。戸川純の歌詞はとにかく言葉が難しくて何言ってるか分からなかったから、半分伸びたようなテープを何度も巻き戻しては聴き返した。そうこうするうちに、今度は姉が同じお友達から、戸川純本人曰くの「タレント本」、「樹液すする、私は虫の女」を借りてきた。これがまた、衝撃だった。彼女の詩やエッセイやショートストーリーで埋め尽くされた本なのだが、齢10歳の田舎の少女にとっては、(こんな言語世界あんのかよ!)という本なのだった。そこから、戸川純に傾倒する人生が始まった。

 戸川純の独特過ぎる言葉の選び方や作品世界の影響は、わたしの中に今は残っていない。それは抜けたような気がする。ところが何の影響が残っているかというと、句読点の打ち方なのだ。彼女の文章は、結構独特なところに読点が打たれていて、それが一種のひっかかり、というか、リズムを、生む。その文章のリズムが、わたしの中に、残っている。普通に説明的に書いている時には出てこないけれども、ちょっとトーンを変えた時とか、センシティブな文章になった時に、出る。

 それに気づいた時、(そうなんだ、面白いなあ)と思った。もしかしてわたしにとって文章を書くということは、内容がどうこうより、文章がどうこうより、声に出して読む的な、音楽的なものだったのかもしれない。

 最後には、わたしの本棚、というよりも、わたしのCDラック、みたいな感じになったけど、そんな、わたしの脳内言語活動的倉庫のおはなし。

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