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#009 2300年後の説教

昨日紹介した『荘子』の説話は、「デカイことを成し遂げたければ、デカイことをしろ!」「小さなことをしていては、大きなことを成し遂げることはできない!」「小さな些細なことで、おのれを着飾っても、功名や美名を得ることはできない!」という意味を、巨大魚の釣りを例えにして説いていましたが、そのお話のなかに、

小説を飾りて以て縣令を干[モト]む

という「小説」の単語が初めて登場する一文が出てきましたね。いわゆる「寓話」のかたちで教えを説いているわけですが、そのことに関して、荘子は雑篇寓言篇で、次のように言っています。

寓言十九、重言十七、巵言日出、和以天倪、寓言十九、藉外論之、親父不爲其子媒、親父譽之、不若非其父者也、非吾罪也、人之罪也、與己同則應、不與己同則反、同於己爲是之、異於己爲非之、重言十七、所以已言也、是爲耆艾、年先矣、而无經緯本末以期年耆者、是非先也、人而无以先人、无人道也、人而无人道、是之謂陳人

寓言[グウゲン]は十の九、重言[ジュウゲン]は十の七、巵言[シゲン]は日々に出だし、和するに天倪[テンゲイ]を以てす。寓言十の九は、外に藉[カ]りてこれを論ず。親父[シンプ]は其の子の為に媒[バイ]せず。親父のこれを誉[ホ]むるは、其の父に非ざる者に若[シ]かざるなり。吾が罪に非ざるなり、人の罪なり。己れと同じければ則ち応じ、己れと同じからざれば則ち反く。己れに同じければ為[スナワ]ちこれを是[ゼ]とし、己れに異なれば為ちこれを非とす。重言十の七は、言を已[ヤ]むる所以[ユエン]なり。是れを耆艾[キガイ]と為[ナ]す。年先んずるも、経緯本末の以て年の耆[キ]なるに期[ア]うなき者は、是れ先んずるに非ざるなり。人にして以て人に先んずるなきは、人道なきなり。人にして人道なき、是れをこれ陳人[チンジン]と謂[イ]う。

寓言(他事にことよせて説いた言葉)は九割を占め、重言(古老の発言に託して重みをつけた言葉)は七割を占め、巵言(とらわれのない自由自在の言葉)は日ごとに口をついて出て、天倪(自然の平衡)によってすべての対立を調和させた。全体の九割を占める寓言とは、他の事を借りてきて論ずるものである。血縁の父がその子のために媒酌をしないのは、血縁の父が誉めるよりも、父でない他人が誉めた方がよいからである。これはこちらが悪いのではなくて、世間の人々が悪いのだ。人々は自分と同じ意見には同調するが、自分と違った意見にはそっぽをむき、自分に同調するものはそれを正しいとするが、自分に異をたてるものはそれを誤りだとするからだ。全体の七割を占める重言とは、論争をやめさせるためのものである。それは古老のことばを利用するのだ。だが、年齢のうえでは人生の先達であっても、その年齢の古さにふさわしく、筋みちだって本末のそなわった話があるのでなければ、これは先達だといえない。人として人生の先達がつとまらないものは、人としての道がそなわっていないものである。人でありながら人の道がそなわっていないものは、それを陳人(古くさいだけの人間)という。

荘子自身が、自分の説教スタイルは、「例え話と、先達の引用だ!」と言っているわけですね。

た・だ・し、年を取っただけでは、先達とは認めない!というかなり辛口な意見も言ってますね!これは非常に身に沁みる説教ですね…。あまり大きな声では言えませんが、今の日本って、陳人だらけですよね…(あっ、太字にしちゃいました…)

では、魯迅の授業に戻りたいと思うのですが…それは、また明日!

近代でお会いしましょう!





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