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#016 次回をお楽しみに!

魯迅の「中国小説の歴史的変遷」は、宋代(969-1279)へと移ります。宋代になると、平民の「小説」が勃興します。魯迅は次のように語っています。

この種の作品は、体裁が異なるばかりでなく、文章の面でも改革が起こり、白話を用いるようになりました。したがってまことに小説史上の一大変遷であるわけです。といいますのは、当時一般の士大夫は理学を重んじ、小説を蔑視しましたが、一般の人民はやはり娯楽をもとめていたのです。平民の小説が起こったのは、何ら怪しむに足りないことであります。

「白話」とは「口語文」のことです。日常使う話し言葉で文章を書くことですね。また、「士大夫は理学を重んじ、小説を蔑視」というのは、中国のルネサンスなる古文復興運動と関係しています。宋代では、仏教・道教に対抗する新しい儒学の組織化が行われ、それによって人間の道徳性や、天と人を貫く理(ことわり)を追求することが重視されました。それがいわゆる「朱子学」というやつで、それを完成させたのが朱熹(1130-1200)です。これによって「天理を存して人欲を滅す」(天理人欲)という厳格主義が生まれ、文章も修辞などによる華麗さを追求するものではなく、「道」を表現するための道具であるとされたようです。その代表が、いわゆる「唐宋八大家」というもので、唐の韓愈(768-824)、柳宗元(773-819)、宋の欧陽脩(1007-1072)、蘇洵(1009-1066)、蘇軾(1037-1101)、蘇轍(1039-1112)、曾鞏(1019-1083)、王安石(1021-1086)を指します。

まぁ、でもそれは、いわゆる意識高い系のインテリの話であって、一般の人々は、単に面白ければいい小説を求めていたということですね!

「小説」が平民に広まるに至った背景には、当時の中国の政情も関係しているようです。

宋は汴に都を建てましたが、民の生活は安定し、物資も豊富で、したがって娯楽も多く、市街地には伎芸というものが行われました。この伎芸の中にいわゆる「説話」が含まれています。「説話」は、次の四科に分かれます。

一、講史 二、説経諢経 三、小説 四、合生

「講史」は、歴史上の事件や有名な人物の伝記などを語るもので、これがのちの歴史小説の起源となりました。「説経諢経」は、仏教の経典を俗語でわかりやすく説くものです。「小説」は短い説話のことです。「合生」は、まず意味のあいまいな二句の詩を読み、ついでさらに数句を読んではじめて意味がわかるもので、おそらく当時の人々を諷刺したものでしょう。この四科のうち、のちの小説と関係があるのは「講史」と「小説」だけであります。当時、この種の職業に従う人々を「説話人」と呼びました。さらに彼らは「雄弁社」という団体も組織していました。彼らはまた説話のとき底本として話を敷衍するためのテキストも編集しておりました。これを「話本」と呼びます。

南宋(1127-1279)になると、説話人のために専門的に話本の編写を行う文人が現れてくるそうです。彼らは「書会」という職業組合を作り、「書会」に組織された文人のことを「書会先生」あるいは「才人」と称したそうです。

そして、この「話本」は、唐代の影響を受けながらも、また後世に影響も与えています。というのも、例えば「講史」の構成は、詩で始まり、本文に入り、詩で結ばれます。これは、唐代において、詩に優れた人間が尊ばれたことから、「説話」を読む人たちがあやかろうとしたもののようです。また、後世の歴史小説は、結びに「後事如何なるかを知らず、且[シバラ]く下回の分解を聴け(このあといかが相成りますか、まずは次回での説き明かしを聴かれよ)」という一文を入れるようですが、これは、聴衆を次回の話に引き止めておくための「説話」の文言を踏襲しているためのようです。この手の「次回をお楽しみに!」的文言は、いまでも使われてますよね!いわゆる耳目を「ひっぱる」ための戦略で、この一文で、小説が商業的娯楽物になったことがわかりますよね!

魯迅は、このあと、元代(1271-1368)をすっ飛ばして、明代(1368-1644)の小説について語るのですが…

それは、また明日、近代でお会いしましょう!


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