涙なしでは語れない。どうして社会にはこれほどに惨たらしい瞬間があるのだろうか。あの日の中年サラリーマンと、あの日の君を救ってあげたい。『デタラメだもの』
お客様を相手に仕事をしていると、お客様の都合に合わせて仕事せねばならん場面も多く、はい朝はこの時間に仕事をスタートして、はいこの時間に休憩して、お昼はこの時間に食して、この時間には仕事を終えて、この日とこの日は休んで、などと自分勝手な都合で生きることは到底不可能。
お客様との打ち合わせで違う町を訪れ、電車を下車し訪問先まで移動する3分間に昼ごはんを食べねばならん機会などもあり、そんな折は、コンビニに立ち寄り、おにぎりを1個とペットボトルの水を購入。コンビニの自動ドアを出るや否や、そのままおにぎりを開封し、大口を開け、ひと口で頬張る。モグモグと噛んでいる時間的余裕などないので、ペットボトルの水を口内に注ぎ込み、水でそれを押し流す。そんなシーンは多々あるもの。
若手の頃は特にそんな機会が多く、今でこそ自分で時間を作り、のんべんだらりんと仕事ができるようになったものの、オフィス街などでは今でも、戦う男たちのそういう姿を目撃することがよくある。
そんな光景を目撃する度に、「君の夢はなんだい?」「君には守るものがあるのかい?」「君は幸せに生きているかい?」と尋ねたくなる。そして、心の中で、「絶対に負けるなよ!」と叫ぶ。なんだったら、「君の代わりに僕が打ち合わせに行ってやるから、ファミリーレストランにでも入って、ゆっくりランチを食えよ!」と叫ぶ。「もし居酒屋で一緒になったら、吐くまでビールを呑んで、夢を語り合おうな!」とも叫ぶ。
しっかし、社会ってやつはなぜにこんなにも、男たちを悲惨な目に遭わせるのだろうか。と、つくづく悲しくなる。
以前、お客様との打ち合わせのために、東京は表参道を訪れたときのこと。おしゃれなカフェテリアやイタリアンが立ち並ぶ中、1軒だけ存在する、チキンで有名なファストフードチェーン店。僕が住む大阪と表参道とは物価が違い過ぎるため、僕は毎度毎度、そこにしか入れないのだが、そこである悲しい光景を目の当たりにした。
店内の通路にしゃがみ込み、スマートフォンではない旧来の携帯電話を耳に押し当てて、ひたすらに謝罪し続ける中年のサラリーマン。なぜ通路なんかにしゃがみ込んでいるの、と注視してみると、どうやら店内の壁面に設置されたコンセントに充電器を差し込み、それを携帯電話と接続し、充電しながら得意先と会話しているようだった。
ただ、コンセントの位置と、スペースを確保してしゃがみ込める位置が少しく離れているため、コンセントがピンッと突っ張っている。まるで、人が通りそうな道にワイヤーを張り、引っ掛けて転ばせたりするワイヤートラップのような様相を呈していたのである。
もちろん、店内でチキンを食す若者たちは、そのワイヤートラップをまたいで奥に進む必要があり、かなり迷惑になっている様子。おいおい、大丈夫かいな、おっちゃん。
すると、平謝りを続けていた中年男性が、カバンから1枚の紙を取り出し、丸めた膝の上に置く。そして、右手にボールペンを握る。謝罪しながら、紙の上に何か書き込んでいる。
きっと、得意先から何か申し付けられているのだろう。あれほどに謝罪を続けているということは、トラブルが発生しているはず。その上、得意先が申し付ける内容を失念してしまっては、炎上がさらに拡大してしまう。何が何でもメモらねば。という必死さが伝わってきた。きっと、メモ帳を探し出す余裕などなく、何かの書類の裏面にでも書き込もうとしているのだろう。
が、丸めた膝の上に乗せた用紙にボールペンで書き込むもんだから、ブスブスと紙に穴が開き、まるで書き込めない。ボールペンの先で紙に穴を開け、紙を裂くことで文字を表現しようとするアーティストみたいになっている。
その状況に焦りを感じたのか、壁面に紙を押し当て直し、書き込める状態にしようと試みた中年男性。しかし、運命はまだまだ彼を許してはくれない。体勢を変えたことによって、伸び切っていた充電器のコードが限界を迎え、壁面のコンセントから抜けてしまったのである。
それにより彼は体勢を崩し、携帯電話を地面に落とし、ボールペンも落とし、押さえていた用紙はグシャグシャになり、それでも瞬時に携帯電話を取り上げると、充電器を差し込むために、コンセントのある壁面へと這って行ったのだ。
ひと言だけ言いたい。
もし彼が、とんでもなく仕事ができないタイプの人間だったとしよう。彼のミスが原因でとんでもないトラブルが起こってしまったのだとしよう。だとしてもだ、これほどまでに悲惨な仕打ちを彼に食らわせることに、何の意味があるのだろう。そこには何の快楽が存在するのだろう。今、ここに問いたい。そして、彼のことを救ってあげられない自分の無力さに腹が立つ。と同時に、それを観察し、こうして執筆に勤しんでいる自分が情けない。僕はチキンにもご馳走様を言う必要があるのと同時に、あの中年男性にもご馳走様を言わなければならないと切に感じている。「ご馳走様」
なぜこんなにも彼にフォーカスするのかと言うと、自分にも若手時代、同じような経験があったからだ。
若手時代、全く関係のない部署の仕事を、鬼のような上席の命令で、急遽命じられたときのこと。その部署の仕事のことを僕は知らない。そして、携わったこともない仕事。何やら、全国展開している会社にとあるヒアリングシートを送ったから、それの聞き取りを担当して欲しい、と。ん? なになに? なにそれ? 聞き取り? なんのこと?
ヒアリングシートに何が書かれているのか。どんな内容の回答が返ってくるのか。何も知らない。が、上席曰く、「返答先としてお前の名前を書いてシートを配布してるから」とだけポツリ。なるほど。さぁ、何が始まろうと言うのです?
急遽それを告げられた日の夜。その日は大雨の日だった。終電の数本手前くらいの時間。帰宅途中、急に携帯電話が鳴った。電話帳に登録されていない着信のため、ディズプレイには電話番号だけしか表示されていない。とりあえず、出てみる。
するとあろうことか、電話先の相手はいきなり、「神奈川支店、Aというツールを850部、Bというツールを1,200部。あと、Cというツールは裏面だけデザインを変更して400部。デザインの変更内容は──」と、一気にまくし立てたのである。
僕は突っ立ったまま電話を受けていたので、慌てて閉店後の商店の軒先に潜り込み、しゃがみ込み、カバンの中から1枚の用紙を取り出し、ペンを取り出し、まくし立てられるまま内容を書き込んだ。
幸いその時はボールペンじゃなかったため、用紙にブスブスと穴を開けてしまうという事態は避けられたものの、とにかく猛烈なスピードで書き込まねば聞き取りと書き込みが間に合わない。神奈川支店ということもあり、「か」と目印を書き込み、告げられた内容をメモした。
それを書き込んでいる間にも、次の支店から電話が鳴る。着信履歴から電話をかけ直すと、同じように依頼の内容をまくし立てられる。電話先のその方は複数の支店を担当しているらしく、次から次へと各支店の依頼内容を早口でまくし立てる。
あまりに淀みなく告げられるもんだから、筆は追いつかない。車が走り抜けると、騒音で聞き取れない。聞き返しても、「ちゃんと聞き取らんかボケ! 二度と言わんからな。忙しいんじゃこっちは!」と凄まれる。威圧感に圧倒され、聞き返すことができない。
必死に聞き取り書き込んでいるうちに、とんでもないことに気づいた。先ほどから、神奈川支店の部数の頭には「か」といったように目印を付していたのだが、鹿児島支店にも「か」と書き、香川支店にも「か」。どの「か」が神奈川支店のものなのか鹿児島支店のものなのか香川支店のものなのか、判別がつかなくなってしまっていたのだ。
それに気づいた瞬間、その先の未来に待つであろう恐ろしいほどの地獄絵図に恐怖を感じ、泣き出しそうになった。ところが、運命ってやつはそんな程度じゃ僕を許してはくれなかったんだぜ。
急に風が横殴りに変わり、大量の雨が軒先に差し込んできたのである。どうなったかっていうと、手にしたペンが水性ペンだったがために、用紙に書き込んだインクが雨で流れ、解読不能な状態になってしまったのだ。
僕は大いに泣いた。もう1度言う。僕は大いに泣いた。社会人人生、詰んだと思った。聞き取った内容のすべてが消え失せてしまった。たったの1度、内容を聞き返しただけで、「ちゃんと聞き取らんかボケ! 二度と言わんからな。忙しいんじゃこっちは!」と凄む気質を持ったお客様たち。その全ての方々にもう1度聞き取り直すなんて、できやしない。もう1度言う。僕は大いに泣いた。大雨の中で。
この件がその後、どういった解決を迎えたのか、僕は記憶にございません。思い返そうにも、何ら思い返せないのです。それほど衝撃的な体験だったのだろう。きっとこれから先の人生を全うするためには、記憶から排除したほうがいいと、脳が判断したのだろう。
もしタイムマシーンがあるなら、僕はあの大雨の日に戻り、あの日の彼に傘を差してあげ、こう言ってあげたい。
「ちゃんと聞き取らんかボケ! 二度と言わんからな。忙しいんじゃこっちは!」と言われたら、忙しいのは皆同じです。聞き取れないことを聞き返すのは社会人としての常識。復唱していただかなければトラブルが起きる。双方にとって損するだけでしょう。そんな奴には今後発注しないぞと凄まれるようでしたら、ご自由どうぞ。こちらもそんな奴と仕事をする義務も義理もございませんので。
そう言ったっていいんだよ。というか、未来の君は、そんなことを平気で言ってのけられる立派な大人に成長しているからね。安心しな。ほら。食べな。腹が減ってるだろう。チキンで有名なファストフードチェーン店のチキンだよ。3ピースもあるよ。
といってあの日の彼を抱きしめてあげるだろう。
デタラメだもの。
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