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『歩いてみたら』 第4章

 寝ても覚めても散歩のことばかり考えるようになった。
 来週からは会社勤めの生活に復帰する。仕事が始まれば毎日のように広場に顔を出せない。ケイティの散歩係は継続するつもりだが、出勤前に徒歩で四十分もかかる公園に行くことは難しい。
 となれば、メンバーと会えるのは休日だけ。
 毎朝淹れるコーヒーの出来を山科夫妻に伝え、改善のアドバイスをもらえるのはせいぜい週二回だ。金森さんがライを撮る様子を見て腹を抱えて笑う機会も減るし、曽我さんと話して少年のように心をおどらせることも少なくなる。
 それって、めっちゃさみしいじゃん。
 仰向けになり目を閉じ、両手のひらを天井に向けて足を肩幅にひらく。通称「屍のポーズ」でヨガマットの上に寝転がりながら、博一は悶々としていた。
 スマートフォンをリンクさせたテレビモニターから「はい、なにも考えずに、ゆっくりと息を吸って、吐いてー」という仙人の声と、ヒーリング音楽が聞こえている。
 師と仰ぐ仙人の指導を守らないのは気が引けたが、公園のことを考えないのは無理な注文だった。広場とそこに集うメンバーは、いまや必要不可欠な心の支えになっていた。
「ではみなさん良い一日を。ナマステー」動画が終わったのでヨガマットを手早く丸め、テレビ台の横に立てかける。寝間着から散歩用のラフなTシャツとハーフパンツに着替えた。
 昨晩から冷蔵庫内で抽出していた水出しコーヒーを氷の詰まったタンブラーに移し、トートバッグにしまう。リビングでそわそわしているケイティの首輪にリードを繋いで自宅を出た。
 この日、広場には一番乗りだった。当然である。いつもより二十分早く家を出たからだ。
 これからメンバーに行う提案を頭の中でなんべんも言葉にし、精神を整える。大丈夫。皆こころよく了承してくれるはず。各人の予定は把握済みだ。ケヤキの前のベンチに座って、ケイティの頭を撫でながら自分を鼓舞した。
紫外線の増加を肌で感じるようになってきたころ、グループ全員がそろった。いつもの四組以外はいない。好都合だ。朝の挨拶を済ませて本題に入った。
「ねえみなさん、ランチ会っていうのをやりませんか?」
「ランチ会?」
 小型カメラのタッチパネルを操作していた金森さんが顔を上げる。
「そうです。お食事会。なんか、せっかく仲良くなれたのにここだけで会うの、もったいないような気がして……」
「水沢さんってロマンチスト?」
 山科・妻が茶化してくる。
「ランチってことは昼だよね? うちは営業があるからなあ」
 山科・夫がヤギみたいな顎髭を撫でながら答える。
「ええ。なので火曜日はどうかな、と。まあ火曜日って明日なんですけどね」誰かに口を挟まれるのが怖いので一気に続ける。
「ほら、山科さんのカフェは定休日でしょう? それに昨日金森さんに聞いたら今週は時間つくれるっておっしゃっていたので……」
「金森さん、そうなの?」
 山科・夫が訊ねる。金森さんは黒いゴムバンドでカメラを頭にくくりつけている。
「うん。今週は仕事で撮影入れてないのよ。チャンネル登録者数が大台に乗ったから、ライの動画編集やろうと思って」
「えー、大台っていくつ。ちょっとうちのマイケルも撮ってちょうだいよ」
 山科・妻が金森さんの肩を叩く。金森さんが「そしたらね……」と山科・妻にあれこれと撮影の指示を出している。
「ほお、そうですか……。ま、火曜ならうちら夫婦は問題ないですよ。となると曽我さんはどうなの? 教室は大丈夫?」
「え? なんですか?」
 曽我さんはしゃがみ込んでシャンティの折れた耳を直している。
「いまね、皆でランチしようって話になってるんだけど、曽我さんはどうかなって。発起人は水沢さんね」
「ランチ? いいですねえ。でも私、今日はずっと教室埋まってるんですよ」
「ううん。いちおう明日の予定」
 山科・夫が言うと、曽我さんが勢いよく立ち上がった。
「えー、本当ですか。明日なら大丈夫です。生徒さん、夕方から二組だけなので」
「お、まとまるもんだねえ。いいじゃないの。それじゃ明日やりましょうか」
「実は僕、この近所にいい感じのカフェ見つけたんですよ。もちろんペット同伴オッケーで、先週オープンしたばっかり。そこでもいいですかね?」
「もちろん。おまかせしますよ」
「もしかしてそれ、ナチュラルローソンのとなりに新しくできたお店?」曽我さんが明るい声を出す。
「そう。あそこテラス席が広いから良さそうだなと思って」
「分かるー。パラソル立ってて可愛いですよね。インスタでフォローしちゃいましたもん。行きたいと思ってたんです」
「ならよかった。それじゃ、十二時にお店でどうですか。予約は僕がしときます。ええと、場所は……」
 ポケットからスマートフォンを取り出し、地図アプリをひらいてメンバーに店の場所を伝えた。カフェは公園から歩いて五分ほどで、金森さんの住む宮殿のようなマンションの裏手に位置している。禁煙でワイファイ完備。駐車場も二台ぶんある。
 博一が考案したランチ会を行う場所として、おあつらえむきの店だった。由梨の雑誌の最新号で得た情報だ。《世田谷デートで行きたい! 超絶ヘルシーなカフェ。》という見出しで紹介されていた。
 博一は企画した会が受け入れられたことに安堵した。懸念していた曽我さんのスケジュールも問題ない。もっとも、教室の予約状況はホームページで確認済みだったのだが――。

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 翌朝は散歩を終えたあと、家に戻らず公園で時間を潰した。
 曽我さんと金森さんはいったん自宅に帰ってからカフェで合流するという。遠方に住む山科夫妻は二度手間になるため、この日の散歩は近所で済ませるとのことだった。
 古びた木製のベンチに座り、バドミントンをして遊ぶ学生たちの声に耳を澄ます。お手製のコーヒーを口にする。
 水出しコーヒーもすっかり抽出のコツを掴んだ。
 ガラスの容器に深煎りしたコーヒー粉を落とし、粉全体が浸る程度に常温の水を注いで三分待つ。粉が水を吸いきったらガラス容器がいっぱいになるまで水を入れ、冷蔵庫でひと晩寝かせる。
 そうしてじっくりと時間をかけて抽出したコーヒーは、ハンドドリップ式とはまた違った味わいがある。豆の油分がそぎおとされ、酸味が少なくあっさりとした風味なのだ。山科・妻から水出しコーヒーの存在を教えられた当初こそ、「水で淹れるコーヒーなんて美味しいのかよ」と疑ったが、いちど試してみたらやみつきになった。気温の上昇もあいまって、いまでは水出し一択である。たまにコーヒーと牛乳を一対一の割合にしてカフェオレで飲む。これがまた美味いのだ。
 掃除、ヨガ、そしてコーヒーといった休暇以来の趣味に費やした金額はすでに十万円を超えている。三万円のコーヒーマシンの購入を躊躇していたころを思うと派手な散財である。
 しかし実際のところ金額はたいした問題ではなかった。どうせ使い道のない給料だ。夫婦の財布は別だし、子供がいるわけじゃないから突然の出費もない。
 それよりも新しい趣味に没頭することで、日常に艶が生まれる感覚がたまらないのだった。四六時中クリスマス・イブの夜に浸っている気分だ。底知れぬ積極性に満ちている。万事挑戦してみたい。いまの自分ならば、あの総務部でも上手く立ち回れるかもしれない。
 正午、カフェの前でメンバーと合流した。
「それじゃあ入りましょうか」
 リーダーの風格がある山科・夫が皆を促す。首にバンダナを巻いた若い女の店員に案内されたのは、予約の際に頼んでおいたウッドデッキのテラス席だった。八角形の木製テーブル中央にはカラフルなパラソルがさしこまれている。背丈ほどもあるオリーブの木がテラスの隅で涼しい顔をしていた。
「めっちゃいいじゃないですか。しかもワンちゃんと来れるなんて」曽我さんがシャンティを膝に乗せ、スマートフォンで写真を撮っている。
「こんな路地裏のお店よく見つけたね」と山科・夫。
「けっこう女子っぽいところあるもんね、水沢さん」山科・妻がからかってくる。
「うわー。いい。すごくいいよ。ちょっと皆、自然に会話してて」金森さんが立ち上がってテーブルから距離をとり、カメラのレンズをのぞき込んだ。
「山科っちの奥さん、もうちょっと椅子ずらせる? 着てるシャツが白いから光飛んじゃってるな……。そうそう、パラソルの影に入って」指示された山科・妻が移動する。「うん。いいね。いいねえ」と呟きながら金森さんがシャッターを何枚も切った。
「あ、後ろ」曽我さんが首を伸ばす。金森さんの背後にはバンダナを首に巻いた店員が水とメニューを運んできていた。
「ああ、すいません……。じゃあ俺も座るか」金森さんが着席し、皆で注文を決めることにした。
「ねえねえ、犬用のメニューもあるって」山科・妻が夫の脇腹をつつく。
「本当だ。でもお前らこれで足りるか?」山科・夫が五郎丸とマイケルに話しかける。巨大な体躯を持った二匹は、暑さに弱いのかウッドデッキの床にへたり込んでいる。
「シャンティはどれがいい?」
 曽我さんが愛犬にメニューを見せている。
「あっ、曽我っち。それいいね。ちょっとそのまま動かないで」
 金森さんが再び立ち上がり、レンズをのぞき込んだ。ライがその足元に寄る。山科・妻が「もー金森さん注文決めようよ」と口を尖らせた。
 皆、楽しんでくれている。ランチ会を開催してよかったな。
 博一はカフェに満足している様子のメンバーを見て、肩の力がぬけた。
 知り合って約三週間。正直、今回の提案が距離の詰め方として妥当かどうか不安だった。
 もし露骨に嫌な顔をされたら。あからさまではないにしても、やんわりと断られたら。
 そう考えると提案の前日はなかなか寝つくことができないほどだった。
 でも実際に、こうしてメンバーがランチ会を満喫してくれている。眼前の光景は、会社でも家でも「宙ぶらりん」な自分に多少なりとも自信を持たせてくれた。
 もう休暇が終わっても大丈夫だ。週末に散歩で会えるし、またランチ会を開催すればいい。さらに次の一手としてヨガ会というのも企画している。曽我さんに講師をお願いして、公園内の芝生エリアで朝ヨガをする。さぞかし有意義な時間になることだろう。
 いつまでもメンバーとの関係を保っていたかった。自分の人生で、まさかこんな仲間たちとの出会いがあるとは。さらにグループの結束を強めていきたい。きっとほかの人たちも同じ感情のはずだ――。

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 ランチ会を終えてのぼせた頭のまま自宅に帰る。
 ケイティのボウルに水を張り、簡単に着替えを済ませて再び外出することにした。
 自宅の最寄り駅で各停の電車に飛び乗り、新宿に向かって揺られる。行先は東口の大型家電量販店だ。
 エスカレーターを乗り継いで四階、カメラのフロアに到着する。金森さんに刺激をうけて、自分も写真を撮ってみたくなった。そろそろアーティスティックな趣味にもトライしたっていいだろう。
 今回ばかりは現物を見てから購入を決断したい。ネットでカメラのスペックを書き連ねられてもよく分からなかった。高い買い物は対人のほうが安心できる。
 体の後ろで手を組んでフロアを物色していく。
「お客様、なにかお探しでしょうか?」早速、青いベストを着た販売員がどこからともなく姿を現した。
「いえ、あの、カメラ買おうかな……って考えてたりするんですけど」
「左様でございますか。いまお客様の前に並んでいるのは一眼レフと呼ばれるものですが、お探しはこのタイプでしょうか?」
「ええ、まあその、綺麗に撮れるものであれば……」
 博一が言うと、青ベストの販売員が親指と人差し指で輪っかをつくった。
「それでしたら、こちらでバッチリです。おまかせください。ちなみになにを撮影されるご予定でしょうか?」
「とくに決めてるわけじゃないんですが……犬とかですね」
「ワンちゃん飼ってらっしゃるんですね。大きい子? 小さい子?」
「どうでしょう。ビーグルなので、中型でしょうか」
「ビーグル!」販売員が革靴を鳴らして一歩近づいてきた。「さぞかし可愛いでしょうねえ。お客様が撮影したくなるお気持ち、よく分かります。うーん、ペットちゃんの撮影ということでしたら、こちらの機種なんかいかがでしょうか」
 販売員が手で示した先には、入門編というポップのついた黒いカメラが置いてあった。
「こちら、カメラをご趣味として始められる方によくおすすめさせてもらってますねえ」
「はあ、なるほど」値札を見ると七万九千八百円だった。
 いやー、カメラってやっぱ高いんだな。どうしよう。ずっと続けるって考えれば安い趣味なのか?
「こちらのいいところはですね……なにより、レンズがセットになっていることなんですよ。つまり、この商品をお買い上げいただけば、すぐに写真を撮ることができます。撮影モードも多彩で、夜景モード、接写モードなど幅広い楽しみ方が期待できるのです。そしてお客様でしたら、ずばりスポーツモードでしょうか。その名のとおりスポーツ写真を撮る際のモードですが、動きの速い被写体を撮影する目的の機能なので、遊びまわるワンちゃんも綺麗に撮れますよお」
 販売員は自分が発した言葉にうなずいている。
「それにほら、おとなりのカメラなんかはレンズを別で買わないといけないので、見た目の価格よりさらにお値段が上がってしまうんですよ」
「カメラ本体だけで十万円ですか」
「そうです。そうです」販売員が心中お察ししますといった顔をする。「で、さらにレンズで十万円なんてザラです。もちろんそのぶん性能はぐんと上がりますが……。まずはレンズキットの機種がいいと、私は思いますけどねえ」
「この入門編のやつって動画も撮れるんですか?」
「動画は……すいません、こちらですと撮れないタイプになっているんですよ」
「そうですか……」どうせ高い金を出して買うのであれば動画の機能は欲しい。
「ビーグルちゃんの姿、ムービーで収めたいですよねえ?」
「ええ。撮れるのであれば、そうですね」
「でしたら、こちらです」
 販売員が大股で素早く歩き始める。自信に満ちた背中を小走りで追う。
 案内されたコーナーには、金森さんが使っているのと同じ小型カメラが陳列されていた。
「こちらアメリカ生まれのブランドで、アクティブな方々に人気の商品です。すごく小さいでしょう? だからサーフボードやマウンテンバイクに取り付けるといった使い方が可能なんです。どちらかといえば動画メインのユーザーが多いですが、もちろん静止画も綺麗に撮れます」
「これ、知り合いが持ってるのと同じです」
「そうですか」販売員がモデム機を手渡してくれる。「でしたらぜひ、持ってみてください。こちらサンプルなので実際の重さはもう少しありますが、たいして変わりません。それに手のひらの上に収まるでしょう? このサイズにもかかわらず激しい動きでも手ブレが最小限で済みますし、ワイファイ経由で簡単にスマホにデータ移行できますし、耐衝撃性に優れ壊れにくいですし、お値段も一眼レフと比べれば控えめで、悪くないと思いますけどねえ」
 顎に手を当てながら値札を見る。四万五千円だった。
 これくらいなら……。最初の一歩としてはまずまずなのかな? 
 メカっぽさ満点の四角いフォルムも格好よかった。それに、同じ機種であれば上手い使い方を金森さんから教わることができる。そう思ったときには、「買います」と口走っていた。
 青ベストの販売員は我が意を得たりという顔で何度もうなずき、続けてオプションのヘッドバンドや防水ケース、手持ち三脚などもすすめてきた。博一は言われるがままそれらを買った。いっぺん開けてしまえば、財布の口などは緩いものである。
 レジで代金を告げられる。合計で七万円を超えていた。けれど後に引くわけにはいかない。クレジットカードを切った。来月の請求はいくらになるんだろう、とぼんやり考えながら家路についた。
 自宅マンションに着くなり、カメラを充電して説明書を読みふけった。
 ケイティがローテーブルの上に置かれたカメラに鼻を押しつけている。
「これからお前のことたくさん撮ってやるからな。あ、俺たちもユーチューブのチャンネルでも開設するか」つい軽口まで叩いてしまう。
 メンバーの特技を自分も吸収することで、グループの一員としての地位が確固たるものとなっていくような気がした。皆と情報をシェアするたびにパズルのピースが埋まる。一丸となって散歩のコミュニティを形成していく。いつかの流行語大賞にも選ばれた、ラグビー由来の言葉が頭に浮かぶ。
 博一はひとりでメンバーとのシンクロ感に酔いしれていた。

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 次の日、専用のヘッドバンドで小型カメラを頭に装着して広場に突入した。
「なにそれ、金森さんに弟子入りしたの?」「水沢さんは面白いなあ」「ちょっと笑わせないでくださいよー」「水沢っちカメラに目覚めたの? ようし、特訓だ!」
 そうして各員から注目を浴びることは必然だろう。ここらでウケ狙いの行動だってしていいはずだ。
皆の笑顔を想像しながら広場の土を踏みしめていく。グループはなにやら盛り上がっている様子だ。山科・妻が大きな笑い声をあげている。
「みなさん、おはようございまーす」
 快活に挨拶をする。さあ、どっかんと笑いが起きるはず――。
 いきんでひょうきんな表情までつくってみたが、メンバーからは思いのほか淡白な返事をされた。
「あ、おはようございます」
「おはよう水沢さん」
「ケイティ、おはよー」
「今日も暑いね」
 博一は前につんのめりそうなほど肩透かしをくらった。あれ、全然ウケないじゃん。なんで?
 そのとき、山科・妻のとなりに立つひとりの男が近づいてきた。男が手に持つリードの先には、いかにも血統書付き然とした犬が繋がれている。
「おはようございます。初めまして。私、西田(にしだ)と申します。彼はレオです」
 西田と名乗る男が飼い犬であろうジャーマン・シェパードの頭をぽんと叩く。彼と呼ばれたレオは顎を上げて凛々しく前方を見据えている。聡そうな犬だった。西田が右手を差し出してくる。
「あ、はい。ええと、僕は水沢といいます。これはケイティ」
 博一もつられて右手を差し出す。ぎゅっと力強く手を握られた。いてて。指の骨が鳴りそうなほどの力だったが、顔色を変えずに対応する。
「私ここに来るのは初めてなんですが、いいですね。この広場は」
「はあ……。そうですね」
「水沢さんはよく来られるんですか?」西田が慇懃に微笑む。
 よく来られるだって? 冗談じゃない。毎日来ているんだ、こっちはよ。だいだいお前なんだ。初対面なのに図々しくないか?
 身長が百八十五センチメートルほどありそうな西田を見上げ、博一はぎこちない笑顔をつくった。
「ええ、毎日ですけど」
「そうですか。いや、いいなあ。私この近くに住んでるんですが、こんないいところがあるなんて全然知らなかったですよ」
「ねえ水沢さん」
 そこで山科・妻が会話に割り込んできた。
「西田さんすっごく面白いのよお。私なんてまだ会って二十分くらいなのに、すっかり好きになっちゃった」
「おいおい、それは聞き捨てならないな」山科・夫がわざとらしく耳に手を当てた。
「そんな。私なんて面白くもなんともないですよ」西田が顔の前で手を振る。
「西田さんヨガされるって本当ですか?」曽我さんが期待に満ちた顔をしている。
「若いころインドに駐在していた時期がありまして……。ま、たしなむ程度ですけどね」
「そうなんだー。じゃあ今度うちの教室来てくださいよ」
「ははは。考えておきますね」
「西田っち、インドにいたの?」小さな三脚にカメラをセットしながら金森さんが訊ねる。
「ええ。二年だけでしたけど」
「いいなあ。俺、行こう行こうって思ってて結局行けてないんだよね」
「ちなみに、どちらに行きたいんですか?」
「ええとね、ここ。南インドに絶景スポットがあってね……」金森さんがスマートフォンの画面を西田に見せている。 
 いったい、なんだこれは。博一は予期せぬ事態に困惑した。
なぜ。なんで皆ついさっき出会ったばかりの男とこんなに親しくなれるんだ。そんなのおかしいじゃないか。俺がここまで辿り着くのに二週間はかかったんだぞ。いや、もしかしたらそれ以上かもしれない。それなのにこの西田という男は、わずかな時間で自分が築き上げたポジションよりも上にいる。すっかり輪の中心といったありさまだ。
 博一は頭にくくりつけた小型カメラをそっとはずした。いまさら関心を持たれたところで寒いだけである。新品同様のカメラをトートバッグにしまい、場の展開を様子見する。
「西田さん、せっかくご近所なら毎日来れば?」山科・妻が余計なことを言う。
「たしかに。我々に比べたらすぐでしょう」山科・夫がさらに余計なことを言う。
「お仕事はなにされてるんですか?」
 と曽我さんが訊ねると、西田は「いまはいわゆるフリーランスってやつです」と言葉を濁した。
「へえ、じゃあ俺らと同じかあ」
 金森さんがライの頭にリボンをつけながら言う。
「僕は違いますけどね」
 西田と一緒にされるのが不愉快で低い声が出る。
 一瞬、場が静まり返った。だが気にする風でもなく、皆すぐにお喋りへと戻った。
 会話の主役は引き続き西田だ。「インド駐在のときは? 商社とかですか?」「ええ、四井物産に勤めてました」「すごーい。大企業じゃない。ご結婚は?」「子供はいませんが、してます」「おうちはどの辺なの?」「碑文谷の三丁目です」「えー、さてはお金持ちねえ」「いやいや、たいしたことないですよ」「しっかしハンサムだなあ。モデルでもしてたの?」「学生時代に少しだけ」「うそー。メンノンとか?」「まあ、そんな感じです」「え、俺若いとき撮影してたよ」「そうなんですね」
 広場のメンバーはよほどこの高身長男にそそられているらしい。矢継ぎ早に質問を浴びせていた。博一はどこか遠いところから眼前の人びとを眺めているような心情だった。
 新しく来たやつがそんなに珍しいのかよ。心の中で吐き捨てる。
 しかし敵対心を持って観察しても、西田には取り立てて非難するような落ち度はない。それがまた博一には面白くない。
 彫りの深い顔。プロ野球選手みたいに引き締まった体。そのまま代官山にでも繰り出せるであろう出で立ち。犬の散歩中だというのに、高そうな革のスニーカーは汚れひとつなく白く輝いている。
 さらに会話を盗み聞いても、西田は弁が立つようだ。両手をせわしなく動かして喋る姿は、あたかもプレゼン巧者のCEOである。
 リードを持つ右手に力が加わった。ケイティまでも西田に魅了されているのか。くそー。裏切り者め。今日はもう大好物の液状おやつあげないからな。子供じみたことも考えた。
「……さん。ねえ、水沢さんってば」
 気がつくと、山科・妻が何事か話しかけてきていた。
「ああ、すいません。なんでしょうか」
「もー、なんでしょうかじゃないよ。ランチ会、またやろうって話になってさ」
「そうなんですか?」鼻づまりが急に解消されたようだった。「じゃあまた違うお店探しておきますね」
「ううん。そうじゃなくて、次は西田さんが企画してくれるの」
「……西田さんがですか」
「そうそう。西田さん、計画立てるのが上手いのねえ。早速、また明日やることになったの。水沢さんも来るでしょ?」山科・妻は博一の返事を待たずに西田に話しかけている。
「山科さんのところは、明日は営業してるんじゃないんですか?」
「うん。だからうちの店でやろうってことになってさ。二時にいったんアイドルタイムに入るから、そこから」と山科・夫。
「そういうことですか……」
「ちょっと遠いけど西田さんが車出してくれるみたいだから、曽我さんと水沢さん乗せてもらって。金森さんは動画編集が思ったより手間取ってるからパスみたい」
「はあ。なるほど」
 知り合ったばかりの人の店に押しかけるなんて。ほら、面の皮が厚いやろうだ。博一は顔が熱くなった。
 当の本人、西田は涼しい顔で軽い冗談を飛ばしている。山科・妻と曽我さんが肩をゆすって笑っている。そのシーンを金森さんが撮る。広場は西田の独演会といった様相を呈していた。
 なんだか居心地が悪かった。自分もつい先日このグループに受け入れてもらった立場だということを棚に上げ、冷ややかな目で新参者の西田を見る。しかしどうにも勝てそうな相手ではなかった。なにを基準に勝敗が決するのかは明確じゃないのだが。
 アマゾンの日時指定便が届くと嘘をついて一番手で広場から去る。
 家に着くと、博一は狂ったように掃除を始めた。由梨の部屋にも勝手に入った。家じゅうの窓ガラスから汚れをぬぐいとり、キッチンの換気扇を新品と見紛うまで磨きあげた。それでもむしゃくしゃした気持ちは振り払えなかった。

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 山科夫妻のカフェに向かうため、翌日の昼過ぎに公園の入口で曽我さんと待ち合わせた。集合場所と時間は山科・妻がショートメッセージを送ってくれた。朝の散歩を博一が勝手にボイコットしたからだ。
 曽我さんは濃紺のジーンズにワンポイントの白いTシャツ姿だった。ヨガウエア以外の装いは初見で、どきっとさせられる。
 前日は話に花が咲き、皆で時間を忘れてお喋りしたのだという。おかげで曽我さんはヨガ教室の開始時間に遅れかけたそうだ。なんと業腹な話だろうか。
 五分ほど待って、二人が立つ側と反対の車線に車が停まった。運転席の窓が降りる。西田が顔を出した。
「すいませーん。あっち方面なので渡ってきてもらえますか」右手の人さし指で車の前方を示している。
 博一と曽我さん、そして二匹の犬が道路を横断して助手席側にまわり込んだ。
 車は黒のアルファードだった。ディーラーの展示車のように光沢がある。
スライドドアを開けてもらい、博一とケイティが後部座席に乗り込む。レオが行儀よく二列目シートの上に寝そべっていた。鋭い眼光のジャーマン・シェパードと視線が交わり、本能的に会釈してしまう。レオは西田に言われるでもなく三列目シートへ移動した。
「あ、曽我さんはこっちでいいんじゃない。シャンティ膝の上で」
 西田が助手席の背もたれを二度叩いた。
「そうですか? じゃあすいませんけど、私助手席座りますね」
「ええ、お気になさらず」
「水沢さん、後ろにレオいて申し訳ないですけど大丈夫ですか?」
「ああ、はい。こちらこそ乗せてもらってすいません。よろしくお願いします」
「お願いしまーす」シートベルトを締めながら曽我さんが歌うように言った。
「いいえ、とんでもないです。それじゃ行きますか」
 なめらかに車が発進する。なるほど高級車は静粛性が高いな、と革張りのシートを触りながら思った。
「西田さんのおうち、奥さんと二人なのにこんな大きな車に乗ってるんですね」
「そう言われれば、そうかも。でもほかのもありますよ」
「えー、二台持ちですか。都内に住んでてすごいですね」
「これと、小さいワーゲンが一台と、もうひとつSUVで三台」
「三台!」シャンティに窓の外を見せていた曽我さんが運転席に顔を向ける。
「まあ、奥さんの車もあるんでね」
「すごいなー。うちなんて私が成人したら親が車手放しちゃって、いまは家族全員で自転車移動」
「いいじゃないですか。健康で」西田がカーラジオのボリュームを下げる。
 車は、山科夫妻のカフェに向かって順調に進んでいる。
 運転席と助手席に座る二人の会話が途切れることはない。博一は窓の外を見る体を装っている。でも耳はダンボだ。隙さえあれば会話に入りたいが、いまのところそういった気配はない。しかし車の話題などはごめんだった。片やラグジュアリーカーを含む三台持ち、片やカーシェアでは曽我さんの前で格好がつかない。もっともエコ志向の由梨に言わせれば「時代はサステナブルにカーシェアリング」なのだとか。
「水沢さん、山科さんのカフェでコーヒー買ってるんですって?」ルームミラー越しに西田が喋りかけてくる。
「ええ、豆をね。奥さんが公園に持ってきてくれるので」
「いいなあ。僕も今日買って帰ろうかなあ」
「今週はオーガニックコーヒーですよ」
「あ、ますますいいなあ」
「二人とも、私よりよっぽど女子力高いみたい」曽我さんが笑っている。
「こんなおじさんがねえ。……あ、すいません」
「いえ。事実ですから」
「ところで水沢さんって何年生まれですか?」
「八十七年です。西田さんは?」
「八十六。じゃあ、ひとつ学年が違うのかな?」
「あ、僕早生まれなんで、そしたら一緒ですね」
 赤信号で車が停まる。エンジン音がすとんと消えた。いまどきの車は優秀だな、と関係のないことを思った。西田が後部座席を振り返って右手を差し出してきた。
「なんだ。同い年だったんですね。嬉しいなあ」
 同い年だからといって握手する意味はよく分からないが、博一も右手を差し出して応じた。相変わらず痛いほどに手を握られる。西田は手も大きい。信号が青に変わる。車が静かに発進した。
「なんか意外。水沢さんのほうが年上に見える。……あ、失礼でした?」
「ううん。それも事実だから」博一が言うと二人は黙った。
 いや西田。「そんなことないですよ」くらい言ってくれよ。ウインカー出している場合か。
 だがまぎれもなく曽我さんの言うとおりだ。顔の大きさだってツーサイズほど違う。
 西田はさぞかし、モテる人生を歩んできたんだろうなあ。
 四井物産に勤めていたということは、もれなく選ばれしエリートだろう。合コンで無敵だったはずだ。すぐに握手を求めてくるあたり、留学経験があり英語を話せるに違いない。家は高級住宅街にあって、車を三台所有している。マンションにしろ戸建てにしろ駐車スペースはどうなっているのか。左手首で主張しているのはスイス製のダイバーズウォッチだ。実家暮らしの後輩社員が、同じモデルを三十六回払いローンで買っていたので知っている。
悲観する必要などないのだが、運転席に座る同学年の男に照らし合わせると、自分が辿ってきた道のりが俄然色あせたもの思えてきた。曽我さんも西田と話すときは声がわずかに高いみたいだ。じつに面白くない。
 博一は一心不乱にケイティの頭を撫でてやった。
 アルファードが「NO SIDE cafe」に到着した。
 中古の一戸建を買ってリノベーションを施したという店の外壁には蔦がびっしりと絡まっている。住宅街の中に突然現れた魔女の館のようだ。
店の前にはすでに山科夫妻が待ち構えていた。西田が運転席の窓を降ろす。
「すいません、ちょっと遅れて」
「大丈夫ですよ。ようこそいらっしゃいました。駐車場、案内するんで僕についてきてください」山科・夫が店の裏手へ歩き出す。
「そしたらお二人は先に降りちゃってください」
 西田に言われ、博一と曽我さん、犬二匹が車から降りる。
 エプロンを着た山科・妻が「よく来てくれたねー」と犬たちの頭を撫でた。
 店内はカントリー調で統一されていた。博一はなんとなくプリンス・エドワード島にあるという、赤毛のアンが住む家を連想した。木材の温かみを感じる。山科夫妻の人柄を体現したような店だ。
「二人とも、アップルパイ好き?」と山科・妻。
「大好きです」曽我さんが飛び跳ねる。
「僕も好きです」
「ほんとお。そしたら美味しいの焼けたから、食後にみんなで食べようね」
 山科・妻がまず犬たちの水や食事を用意してくれた。
 駐車場から山科・夫と西田とレオがやってきて、ランチ会が始まった。提供された料理はどれも美味しかった。
 野菜はすべて地元の市内で収穫された無農薬のものだという。「NO SIDE cafe」がある市は面積の約七パーセントが農地になっており、地産地消を促進しているらしい。またキッチン内にある冗談みたいに大きなオーブンで焼いたチキンステーキも絶品だった。皮はぱりっと、肉はとろけるようにジューシー。味付けはシンプルに塩コショウのみで、博一はおおいに食欲がすすんだ。「いくらでも食べていいからね」と言われたクルミのパンを三回おかわりした。西田も男子高校生ほどにパンに食らいついていた。山科夫妻は人をもてなすことが好きなのか、嫌な顔ひとつせずにせっせと新しいパンを持ってきてくれた。曽我さんは無農薬野菜にかけられた山科・妻お手製のドレッシングをえらく気に入ったようで、レシピを教わりスマートフォンにメモしていた。
 そして食後になり、コーヒーとアップルパイが運ばれてくる。
「やだー、美味しそう。写真撮ってもいいですか?」曽我さんがスマートフォンを構えている。
「もちろん。自信作だからね」山科・妻が胸を拳で叩く。
 曽我さんは写真を二十枚ほど撮った。正面、俯瞰、やや俯瞰など角度を様々に変えた。アップルパイが載った皿を手に持って自撮りもした。撮れ高を皆で確認する。
 自撮り写真の曽我さんはいっそう可愛く見えた。若い女は自分がベストな写り方を熟知していると由梨が言っていた。曽我さんも例外ではなかった。
 写真を見ていた西田が、「あれ」と言って顔を上げた。
「山科さんラグビーやってらしたんですか?」
自撮り写真内で曽我さんの背後に写ってた、壁に飾ってあるラガーシャツを西田が指さす。カントリー調の店内では唯一浮いた存在だ。博一は入店したときから気づいていた。シャツには誰のものか分からないサインが記されている。
「うん。大学から始めてもっぱらベンチ要因だったけど。妻とは部活で出会ったんですよ」
「私は敏腕マネージャーね」と山科・妻。
「なるほど。素敵な出会いですね」
「西田さんは? そのタッパだとこっち?」山科・夫がバレーのスパイクを打つ真似をする。
「いえ、中高とバスケでした」
「そうなんですか」つい反応してしまう。
「水沢さんも?」西田が博一を見る。
「はい。僕はミニバスから高校まで」
「へえ。意外ですね」西田が伏し目でコーヒーを啜る。
 どういう意味だ? デカくないやつがバスケしちゃいけないのかよ? 
博一は身長百七十二センチメートルだ。でも人に聞かれたら百七十五と答える。
「いまでもやったりしてるんですか?」曽我さんが手首をスナップさせてバスケのシュートを模倣する。「ちなみに私も中学だけバスケ部」
「あなた運動神経良さそうだもんねー」山科・妻が曽我さんの腕に触れる。
「水沢さん、よかったら公園で軽くやりませんか」と西田。
「え、バスケですか?」
「ええ。大階段側の入口のところにリングあるでしょう」
「ありますね」
 大学時代、由梨やサークルの仲間とよく遊んだ場所だ。
「あそこでどうですか」
「うーん、いまさらできるかなあ……。もう十年はボールに触ってない気がするし」
「大丈夫ですよ。僕もそんなもんです」
「いいじゃない。楽しそうで」
 山科・夫がテーブル上の食器を片付けながら言う。
「犬の散歩で歩いて、ヨガして、バスケもして……。水沢さん、すっかり健康な休暇じゃない。コーヒーもオーガニックだし」
 山科・妻が口を開けて笑う。
「次の日曜日、どうでしょう」西田がぐいぐい話を進めようとする。この男は、秒単位で予定を立てないと気が済まないのだろうか。
「どうしようかなあ。なんか怪我したりしそうで」
「水沢さん大丈夫。ヨギーじゃないですか」
「ヨガしてれば大丈夫なの?」曽我さんに顔を向ける。
「……たぶん。体、柔らかくなってるはずだし」曽我さんがテーブルの足元にいる犬たちに「ねー」と単調な声を出した。
 なるほど、一理あるかもしれない。でもなあ……。あんまり動けなかったら格好悪いなあ。
 正直、バスケの腕にはそれなりに自信があった。中学時代は地元の市の選抜選手になったこともある。身長こそ高くないが昔は足だって速かった。体育祭のリレーはいつもアンカーだった。
 しかし大学を卒業してから運動など一切してこなかった。近ごろはおなかの周りにも肉が付き始めている。長い階段を登ると息が切れる。とうてい、若いころのように動けるとは思えない。
 さらにネックなのが西田の実力が未知数ということである。身長だけで考えれば県の選抜選手クラスだ。加圧トレーニングのジムにでも通っていそうな体だし、余裕の態度も真意をはかりかねる。
 どうしよう……。曽我さんにダサいところは見られたくない。でも逆にいいところをアピールできるチャンスかも。そう考えると、にわかにやる気が湧いてきた。
「よし、やりましょうか。ちょうど運動でもしなきゃと思ってたとこだし」
「わあ、嬉しいな。みなさん二人だとさみしいので見に来てくださいね」
「もちろん。応援行っちゃうんだから」山科・妻がファイティングポーズをとった。

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「西田さん高校はどちらだったんですか?」
 帰りの車中、探りを入れてみることにした。もしバスケの名門出身であれば、それ相応の対策を練らなければならない。
「埼玉の川越にある普通の公立高校でしたよ」
「川越、ですか」頭の中で強豪校リストを引っ張りだす。少なくとも、博一の時代にバスケで有名だった高校は川越にはない。セーフだ。
「水沢さんは?」
「横須賀にある私立高校でした。バスケはべつに強くなくて、ボウリング部が全国大会準優勝」
 余裕がでてきたので関係ないことまで言ってみる。
「あはは。ボウリング部なんてあるんですね」曽我さんがルームミラー越しに笑いかけてくる。目が合って嬉しい。
「ボウリングかあ。アメリカにいたころよくやったなあ……」西田が不穏なことを言う。
「アメリカ住んでたんですか? いいなあ。いつ?」曽我さんが運転席に顔を向ける。
「大学二年のとき交換留学でアリゾナに。砂漠の中にあるような大学だからやることなくて、ボウリングとバスケばっかり」
「アメリカでバスケ?」顔が引きつる。
「もちろん部活じゃないですよ。あっちの大学の部活はほら、NBAのドラフトで選ばれるような怪物ばっかりだし。でもルームメイトのアメリカ人たちとチーム組んで地域の大会とかよく出てました。あ、ちょっと窓開けますね」
 西田が運転席と後部座席の窓を降ろす。乱暴な風が車内に飛び込んできた。
 うそだろ。アメリカでバスケの大会出るようなやつってレベル違うんじゃない?
 曽我さんは西田のアメリカ時代の話を聞きたがった。「やっぱり三食ピザですか?」「アリゾナって砂漠あるんですか?」「ビヨンセ見ました?」
 博一は苛立ちが募った。なんだよ、まるで後出しじゃんけんみたいなことして。そんなのずるいじゃないか。早く言えよ。まさか、俺に恥かかせる目的?
 さすがにそれはないか。そんな必要を感じないし、そもそも勝ち負けで言えば西田の「勝ち」に決まっているのだ。自分なんて戦う相手とも思っていないだろう。
 どんどん気が重たくなってくる。
 でも、決まっちゃったものはやるしかないのか。とりあえず道具をそろえて、練習するか。日曜日まではまだ数日ある。後部座席でそっとため息をついた。

(5/5へ続く)

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