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登山の「想像力」は、生き延びるための力である仮説

登山をする自分を想像する。

そこでの息づかい、見える風景。
感じる気温、ザックの重さ。
身体の疲労。

登山という行為の特異なところは、この想像力が研ぎ澄まされていくことであり、またそれは「なぜ登るのか」の本質なのでは、と思ってきた。という話を書きます。

超強烈な登山家、山野井靖史さんが登山のモチベーションについて以下のように語っていた。

 その巨大な壁に僕がひとりポツッといて、苦労しながら毎日少しずつ上がっている。赤いちょっと派手なウェアを着て、歯を食いしばってがんばって登ってる姿。そういう俯瞰のイメージが頭に浮かぶと、だんだん「あそこに行かなきゃいけないんだ」という思いに変わってくる。

<日本一のアルパインクライマーが語る(2)> 山野井泰史 「一人で登る理由、幻覚との対話」 - 登山 - Number Web - ナンバー

最初に読んだときは、山野井さんレベルの最強のクライマーでも「そこを登る姿」がモチベーションになるのか、とシンプルに驚いた。「そこを登る自分」を想像することをモチベーションにするのは、何というか、「俗っぽい」行為である気がしていた。もっと崇高なもののために登っていると思っていた。

ふと最近、YAMAPの記録より以下の写真を眺めていてふと気付いたことがあった。

高知県の大堂海岸というクライミングエリアでの写真だ。青い空をスパッと断ち切る白い大岩壁。そこを登る赤いシャツを着たクライマーが一人。

これを見る人によっては、「あー危ないことやってるねぇ」で終わるであろう。しかし、既に私はこの「大岩壁を登る自分」をイメージできるようになっている。そうすると、以下のように想像力が加速する。

岩壁に顔は向いている。ルートの半分くらいか? 左足をフットジャムし、右手は逆手でジャミングしているのだろう。花崗岩の岩肌だ。たぶん岩が手の甲に食い込み、痛いかも知れないが、きっちりと決まったジャミングで達上がるのは爽快さを感じるだろう。カムでプロテクションを取ろうとしてるかもしれない。息はゼイゼイと荒くなってくる。全身の疲労が訪れる。まだルートは永遠のように続く。とても苦しい。とても楽しい。甘美な瞬間だ。

登山やクライミングをやっていると、一枚の写真に対して「そこを登っている自分」という想像力の解像度が異常に上昇する。「下から眺める」自分ではなく「そこに居る自分」を想像できる。そして論理的ではなく、身体感覚として、五感を使ってそこに居ることができる。

登山の「デカさ」という特異性について以前にブログに書いた。

この「想像力」のあり方もまた、登山の特異な要素であろう。そしてこれこそが、登山の本質であり、また人生の本質なのかもしれない。

未来への手がかりは僅かだ。しかし「そこに居る」未来を想像すること。そこの息づかいを想像すること。それがもう少し長く生きるモチベーションになる。

お金を稼ぐ、楽しい思いをする、などよりももっと直接的で、身体的な「そこに居る自分を想像すること」「そしてそこに行かなければ」と強く願うこと。生きていくことは、そんなことを少しずつ紡いでいく行為なのでは。

登山の言語化しにくい「楽しさ」は、こういう「想像力」を徹底的に鍛えられるところにあるのかもしれない。楽しく登り、生きよう!


ちなみに、山野井さんは幾つか著作があり、どれも突き抜けており、そして本質を射貫く言葉で語られていて面白いです。

山野井さんを知らない方は、沢木耕太郎さんの書いたノンフィクションの以下がオススメ。マジで凍えます!


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