見出し画像

山に住む妖怪と、登山の「デカさ」

登山についてうまく語ることができない。「あの登山どうだった?」と聴かれるとペラペラと喋ることはできる。山頂の景色。急登のしんどさ。ふと見えた岩肌の峻険さ。楽しかった会話。しかし、決定的に何か大切なものを語り損ねている気がする。
だいたい、山に行くと「もう二度と山に行くか」と思う。ひたすら続く長い登り。友人との会話も次第に途切れる。高鳴る鼓動。悲鳴を上げる膝。そしてようやく登頂。景色はガスって何も見えなかったりする。そして下山。下山が終わると「ようやく人里に降りることができた」。そして、次の山行を考えたりする。あれ?
「山には記憶を忘れ去らせる妖怪がある」という説を自分の中で考えていた。山に登った後にその記憶を一部消し、また山に呼ぶための妖怪だ。それはたぶん、下のような見た目をしている。

実在する(しない)妖怪「山おらび」

山に入った人が「ヤイヤイ」と叫ぶと、山おらびは山彦のように「ヤイヤイ」と叫び返してくる。遂にはその叫んだ人は死に至ってしまう。このとき、割れ鐘を叩くと死を避けることができるという。

wikipedia「山おらび」より

妖怪は妖怪で魅力的なのだが、最近思ったのが「登山というデカすぎる行為は人間の認識・言語の限界を超えているのでは?」という説だ。人間の言語で表現できる感情や体験は、せいぜい1時間くらいが原因で、7・8時間、ましてや数日単位の体験や感情を認識・言語化するのが難しいのでは、という考えになってきている。

上記の本は、人類において「道を見つける力」=WAYFIDING力がどのように進化してきたか(そして退化しているか)ということを様々な観点から検証・分析した本。内容が濃く非常に面白い。
この中で「経路(ルート)」と「音楽」の関連性について記述されている箇所がある。この部分を読むと、この「山のデカさ」についての話との類似性を思い出してしまう。

経路は、音楽のメロディと同じように、空間の中で展開されるのではなく、時間の経過とともに進むのです

『道をみつける力』より

音楽について人に説明するとき、結局のところ正確に伝えるためにはその音楽を聴かせるしかない。これと同じように、登山について語るにはその時間の経過=同じ体験をするしかない。7時間の体験を正しく伝えるには7時間の時間をかけて語るしか無い! 恐るべきことだ。そしてその語りがつたわることは決して無い。
これを原理的に伝えるのが無理ならば、やはり同じ体験をするしかない。山に行くしか無い。ここで、やはり「あの登山どうだった?」と聴かれたら、「それを知りたいだったら、登山に行こうよ」という登山を誘う妖怪が誕生することになるのである。登山は怖い。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?