『手負いの蛇』 〜 もののけがたりを振り返る其の三〜
「手負蛇」は、
これも江戸時代の書物である『絵本百物語』から題材を採りました。
もちろん水木先生の関わっておられた妖怪図鑑にも記述がありました。
原本には手負の蛇は執念深い、くらいのことしか書かれていないのですが、
時代劇好き故の妄想で色々とお話を膨らませ、とても気に入っている一本です。
私の書くおばけの話は、怪談というわりに怖くない、とはよく言われてましたが、これもまた然り。
最初は「お師匠さん」「師匠」と書いておりましたが、実際に常磐津をされてる方にお会いする機会があり、「私たちはおしょさんと呼びます」と教えていただき、反映させていただきました。
初演で山本紗由さんに読んでいただいたのが2008年だったでしょうか。
2024年8月4日にまた、同じく紗由さんがご自身の独奏会の演し物としてヴァイオリンの演奏も付けての上演をしてもらえる、という機会に恵まれました。(これを書いているのはその上演から二十日後くらいです)
残念ながら現地で鑑賞することはできなかったのですが、ご厚意により、記録用に撮られた映像を後日拝見させてただきました。
当日の上演では、言い回しなどの細かな点がほんのちょっぴりアレンジされており、人間としても演者としても成長された同じ人物に、今度は音楽も付けた新たな形で読んでいただけるというのは、大変光栄かつ興味深い、得難い体験でした。
本当にありがとう。
むしろ今夏上演していただいたバージョンのほうがいろいろスッキリしていてよかったかもしれないくらいですが、こちらも(ほぼ)初演時のまま掲載しようと思います。
※ ※ ※ ※
『手負いの蛇』
狐や狸に限らず、
身近に暮らす生き物に関わる不思議なお話というのは、
昔から数多くございます。
中でも、蛇というのは、
古くから何かと神秘的ないわくの多い生き物です。
時には神様の使いとして、縁起の良いものともされますが、
反対に、その奇妙な姿のせいで、
忌み嫌われることも少なくありません。
皆さんの中にも蛇の苦手な方はおいででしょう。
ただ、無闇といじめるのだけは
お止しになられた方がよいかと思います。
お気をつけください。
蛇は大変執念深いものだと申しますから。
昔むかしの話。
その年の三月、数え十三になったおみつは、
長屋住まいの父親の元を離れ、奉公に出る事にした。
家のことは誰がするのさ、
と、年若い義理の母は渋るには渋ったが、
とうとう一度も引き止めなかった。
身ひとつで家を出てゆくおみつの姿に
ああ、気の毒にね、
今までよく持ったものだね、
などと噂してきた近所の衆は、しかし、
誰も言葉をかけることはおろか、
目を合わせることもなかった。
井戸端の女たちに、
おみつは、わざと大きな声で、
どうもお世話になりました、
と言ってお辞儀をした。
飛び込むように訪ねた口入れ屋の紹介で、
おみつは、三十路を少し過ぎた、
常磐津師匠のおまきという女の家へ
住み込みの女中として、奉公する事になった。
しゃんとして粋なおまきは、
生来の美しさもあって、何をしても目立ったが、
派手に見える外見に似合わぬ、
裏表の無い温かい人柄で、
おみつはすっかり安心した。
暦の上では春だけれども、
水はつめたく、
吐く息は白い。
飯をつくったり、洗い物をしたり、
こまごまとした家の中の事も、
積み重なれば楽ではないが、
長屋住まいの頃は、
日がな一日鏡を見てばかりの義理の母と、
働かない父親、
そして腹違いの三人の弟たち、
合わせて五人もの面倒を見ていたのだから、
自分と合わせてもたった二人のことなど、
楽なもんです。
そう笑って応える
おみつの気性や働きぶりを
おまきの方でも気に入った様子だった。
ひと月も働くと、
近所に顔見知りも出来、
やがて聞きたくないようなことも
色々と耳に入って来るようになる。
近所の衆の噂するところでは、
おまきの家では、
内弟子もとらず、
おみつのような住み込み女中も
ここに越して来てからの一年の間に、
もう三人も変わっているのだという。
おまきが女中をいじめるから、
みんな居着かずに出て行ってしまうんだ。
少なくともおみつはこれまで、
一度もいじめられた覚えは無かった。
そりゃあ、おみっちゃん、あんたがのんびりやさんだから、
いじめられても気がつかないのさ。
そんなふうに言う者もあったが、
気っ風もよく芸も達者なおまきは、
通いの弟子たちにも慕われているのだ。
すると今度は、
お弟子さんったって、どうせ男衆ばかりだろう。
色仕掛けで引き止めているに決まってるさ。
などと言う。
弟子はほとんど若い娘ばかりである。
おみつが知る限り、おまきの身持ちは固かった。
おまきの前身についても、あれやこれやと詮索されていた。
いわく、盗人の女房で、島送りにされた亭主の帰りを待っているのだ。とか、
いわく、さるお武家様のご息女がお家騒動で放逐されたのだ。とか。
もちろん、どれもこれも根も葉も無い。
要するに、独り住まいの器量良しの女には、
周りは色々詮索したくなるということなのだろう。
しかし、そうした噂を、
おまきは、まるで気にしている様子はなく、
また、それが近所の衆には気に入らないように見えた。
長屋住まいのころにもそういう噂好きのひとがいたっけ。
そう思って、おみつはあまり相手にしなかった。
ただ、ひとつ、
ひとつだけ、奇妙なことと言えば、
おまきの寝間に、蚊帳が吊られていることだった。
おまきほどきっちりと気配りの利く女が、
夏が終わり、秋が過ぎて、冬になっても、
一年中、蚊帳を吊って寝ているのだ。
もちろん不思議には思ったが、
わけは教えてくれなかったし、
おみつも聞かなかった。
やがて何事もなく三月あまりが過ぎ、
季節はまもなく梅雨時を迎えようかという、
ある晩の事。
夕飯の片付けが終わる頃合いに、
おまきはいつものように、
ご苦労さん、
もう先にやすんでいいよ、
と、おみつに声をかけた。
部屋へ下がったおみつは、
いつもならば布団に入るとすぐに眠りに落ちるのだが、
この晩は蒸し暑く、なかなか寝付かれなかった。
窓辺でゆっくりうちわを揺らしながら、
虫や蛙の声に耳を傾けたまま、
おみつはやがて、こくり、こくり、と舟を漕ぎ始め、
そのまま眠ってしまった。
そして。
真夜中近くであっただろうか。
おみつは、
聞こえて来る物音に、ハッと目を覚ました。
それまで聞こえていた小さな生き物たちの声は、
ぴたり、と止んでいる。
じっと耳を澄ますと、
物音は、おまきの寝間から聞こえて来るようだった。
まさか、泥棒かしら。
心配になったおみつは、
灯りも持たずに、
そうっ、と、様子を見に行った。
月明かりが青く差し込んでいた。
寝間の障子は三分ばかり開け放たれ、
その向う、
夜の藍色と、蚊帳の緑とに染まった薄暗闇のその奥で、
おまきは、ひどくうなされていた。
そっと、一歩足を踏み入れたとき、
おみつは、ふと、
足元に蠢くものの気配に気づいた。
何かがいる。
細長い紐のような何かが、
蚊帳の外を、ごそり、ごそり、と這い回っている。
薄暗がりにじっと目を凝らすと、
不思議にはっきりと見えたそれは、
両手を拡げたほどの長さの、一匹の大きな蛇である。
一体どこから入って来たものか、
おみつの腕ほども太さのある、
その鮮やかな緑色の鱗に覆われた身体はしかし、
ところどころ肉が裂け、白い骨が剥き出しになっている。
大儀そうに、鎌首をもたげ、
蛇が、ちろり、ちろりと、
薄紅色の舌を、炎のように閃かせながら、
ごそり、ごそり、
ぼろぼろに傷ついたその身で、
蛇は更に、ゆっくりと、
うなされているおまきの居る蚊帳の周りを巡り終えると、
開け放たれた障子の隙間から、
ずるり、ずるり、
すぐ側で見ていたおみつなど居らぬもののように、
身を引きずって、いずこへともなく、去って行った。
見てはいけないものを見たようで、
怖くなったおみつは、息を殺してそうっと自分の部屋へ戻り、
蒸し暑い陽気も忘れて布団に潜り込んだ。
翌朝はとても良く晴れていた。
おみつは、いつものようにかまどに火を起こし、朝餉の支度をし、
井戸の水を汲んで水瓶を満たす。
さあ、洗い物でも始めようか、というところで、
おまきに呼ばれた。
ゆうべ、見たんだろう。
とぼけなくたっていいよ。
あの蛇のことさ。
煙管をくわえたおまきが、
ぷかあり、と煙を吐いてそう問い質すまで、
おみつは昨夜の妖しい光景のことは
頭の奥にすっかり仕舞い込んで、
悪い夢か何かのように思っていた。
別にあんたに害はないから、ずっと黙っているつもりだったが、
見ちまったものは仕方が無いから、教えてあげるよ。
そう言って、
ふたたび形の良い唇に煙管をくわえ、
ぷかあり、と煙を吐き出すと、
おまきは、静かに話し始めた。
あたしがまだあんたくらいの頃の話だけどね。
あたしの生まれた田舎じゃ、
年頃もてんでバラバラの女の子と男の子が、
まぜこぜになって野っ原をかけずり回ってた。
大きな蛙や蛇なんかがそこここにいて、
よく捕まえて遊んだものだったよ。
もう名前も顔もすっかり忘れちまったが、
ひとり、意地の悪い男の子がいてね。
あるとき、青大将とかいうのかね。
綺麗な緑色をした、大きな蛇を捕まえた。
捕まえてどうしたか?
ふふ。と、短く笑って、おまきは、
そりゃあ、いじめたのさ。
と答えた。
棒でつついて、地面に縫い付け、
うなぎみたいに半身を裂いて、
引きずって駆け回ったあとに、
今度は放り投げて。
どれだけ痛めつけてもまだ動くもんだから、
こいつ、なかなかしぶといぞ、なんて、
いじめるほうでもむきになってた。
あの子の顔がずうっと笑っていたのだけは、よぉく覚えてる。
でも、
散々いじめぬいたら、
あの子も飽きちゃったみたいでね。
蛇はそのまま放ったらかし…。
蛇のほうではたまったものじゃないね。
ぼろきれのようになった蛇は、
かなり弱っていたけれど、
それでも死ななかった。
ずるり、ずるりと、重たそうにその身を引きずって、
子供達から遠ざかろうとしてた。
「かわいそうに」
見ていたあたしが思わずそう呟いた時だった。
ついと鎌首をもたげたその蛇が、
振り返って、ぎらぎら光る目で、
あたしの方を確かに見たんだ…。
じろり、とこっちを見たあとで、
幾度か、紅い舌を火のように閃かせて…。
それから、あれはまた向きを変えて、
苦しそうに、ずるり、ずるりと這いながら、草むらに姿を消した。
その晩からさ。
その晩から、ずうっと、今日まで、
毎晩のようにあれはあたしのところにやってくるんだ。
いいや、おんなじ蛇に違いない。
蛇というのは、皮を脱ぎ捨てて何度も生き返るほど、
命の力が強いそうじゃないか。
ましてや手負いの蛇はことのほか執念深いものだと聞くよ。
それにね、
わかるんだよ。
あの目を見れば。
恨めしいのか、それとも憐れんで欲しいのか。
なまじ情けをかけたばっかりに、
こうして未だにやってくるのだろうかね。
何をされるってわけでもないが、
寝てる間に、足元になんか来られたら、
流石に気味が悪くてね。
あたしは、だから、
冬でも蚊帳を吊って寝てるのさ。
おまきはそう言って、口からふわりと煙を吐くと、
煙草盆に煙管をトン、とはたいた。
でも…、
おみつは尋ねた。
おしょさんは見ていただけで、
蛇をいじめはしなかったんでしょう?
いじめていた子のところじゃなくて、
どうして、おしょさんのところに来るんですか?
さあねえ…。
子供ってのは残酷なこともするが、
それでも、無邪気なものだからね。
止めさせるでもなく、
憐れむだけでなんにもしないほうが、
かえって恨めしいものなのかねえ。
一体、どうすりゃいいんだろうねえ…。
ふふ、と、少し笑っておまきは、
居住まいを正すと、
ともかくおみつ、
あんなものを見ちまっちゃ、うちにいるのも気味が悪かろう。
あたしが口をきいてあげるから、よそへ奉公するといい。
もううちへはこなくていいよ。
と、言った。
返事も聞かずにおまきは、
半ば強引に口入れ屋に話を付け、
ほとんど身ひとつでやって来たおみつは、
半日後には、また身ひとつで、
いや、今度はおまきの古着を少しばかり譲り受けて、
隣町の小間物屋に奉公することになった。
店を営む老夫婦には子が無く、
まるで娘が出来たようだ、と、
とてもあたたかく迎えられたおみつは、
なんだかくすぐったいような思いだった。
それから三月もたった頃。
おまきが姿を消した。
理由は誰も知らなかった。
居なくなっただけで、死んだとは限らないのに、
相変わらず噂好きの近所の衆は、
空き家になった家には、
おまきの幽霊が出る、とまで噂していた。
おみつは、
商売の用を装って隣町に行き、
おまきの家を訪ねた。
鍵の壊れた裏木戸から、こっそり庭に入ると、
雨戸はすっかり閉ざされていた。
持ち上げるようにして少し力を込めると、
ごとん、と音がして雨戸が動いた。
うっすらと埃が積もり始め、
がらん、として静まり返った家の中には、
家財道具らしきものはもう何も無かったのだが、
なぜか、あの蚊帳だけは、おまきの寝間に吊られたままだった。
差し込んで来る黄昏時の陽射しを背に、
薄暗い部屋に置き去りにされた空っぽの蚊帳を見ていたら、
もしかしたら、おしょさんは本当に死んでしまったのかしら、
と、そんな気もしてきた。
そんなら、ここには、ほんとうに、おしょさんのおばけも出るのかしら。
がさり、と、
庭の植え込みから物音がした。
幽霊だろうか。
いや、あの蛇かもしれない。
怖くなんかない。
別に怖くは無い。
ただ、なんだか、可哀想なだけだ。
おしょさんも、あの蛇も。
だけど可哀想だな、なんて思ったら、
今度はあたしのところへ来るのかな。
そうやって、ずうっと、ずうっと、
この世をさまようのかな。
それこそなんだか、可哀想な気がして、
おみつは、そっと手を合わせ、
そして、小さく、なぁむ、とつぶやいた。
了
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