心の貧しい人たちへ。
退屈は創造性の土台だ。
私は英国国教会に飽きもせず毎週通っており、毎週聖書の話を聞いている。色々な聖職者の語るメッセージを聞いてきた。興味のあるものもあればつまらないものもある。英語が聞き取れないことも多々ある。と言うより、私が聞き取れない英語を喋りやがる人のほうが多い。
そうすると私はそうそう聴くことを諦め、自分で説教メッセージを考えはじめる。(牧師さんたち、ごめんなさい。)
それで、せっかく考えるのだから、たまにはnoteに記録しておくのも良いかと思ってこの記事を書いている。興味のある方はお付き合い下さい。
聖書箇所はこちら。
あなたの貧しさはなんでしょう。
またその貧しさとはなんでしょう。
欠乏でしょうか、それとも
欲望でしょうか。
人間には食べ物の貧しさ、安全や経済的貧しさ、人間関係や愛情関係の貧しさ、承認されることへの貧しさ、または人生における成長と自己実現の貧しさなどがある。
それは命に関わるような貧しさでもあり、健康的な貧しさでもある。
これは心理学者のマズローの5段階欲求を貧しさに変えて言ってみたのだが、人間は低層の欲求(生理的欲求)が満たされなければより高度の欲求(自己実現の欲求)には進めないと言われている。
あなたがもし今、健康的に満たされていて、経済的に満たされていて、愛情のある人間関係に満たされていて、自他ともに承認されていて、自己実現に向かっている。自分には何も貧しさがないというのなら、残念ながら、あなたは不幸で他に手に入れるものはなにもない。まあ、目を閉じて少し眠るといい。
この聖書箇所で語られているメッセージはよく知られており、人々の貧しさに寄り添うイエスの愛が示されていると言われている。
しかし、例えば私があなたに「今飢えている人々は、幸いである、あなたがたは満たされる。」といったからといって、誰がそれを信じるだろうか。
こんなことは、事実と確信以上の信頼を持っていなければのうのうと人々に説くことはできない。だからここはイエス自身の神である性質と信仰がよく現わされている箇所だとも私は思う。
さて、貧しさには不安感が付きまとうものである。人によっては怒りとなって現れるかもしれない。
これらの不快な感情を、得体のしれない神という存在にすっかり委ねてしまうことは、果たして安全と言えるのだろうか?
無責任ではないだろうか?
問題から目を背けることにはならないのだろうか?
現実には、祈ったからと言って突然現状が変わるような奇跡が起きることは稀であろうし、仮にそこに物質的支援や救世主のような人が現れたとしても、それが持続するとは限らない。
だから父が言っているのはそういうことではない。あなたのその貧しさにもかかわらず、あなたは神に愛されているということを教えているのだ。
彼はあなたの貧しさを憐れんでいる。貧しいあなたを愛している。なぜなら私たちの豊かさは天にあり、天を見上げるものは地上にはないその豊かさに満たされるからだ。
私達がそれを信じて信頼するなら幸いだ。
主の御心にかなうことは、主が養われるのだから。
一つ、私の経験を上げてこの話を終わりにする。
数年前、私は教会である女性とお金の話をしていた。お金がなくなったらどうするか。すぐに考えたことは、自分の子どもたちに今までのように良い食事を与えてあげられないかもしれない、ということだった。
そんな不安がかすかに頭をよぎった時、突然どこからか鋭いインスピレーションが私にこう言った。
"I will feed them."
(私が彼らを食べさせよう)
「私」と言うのは主のことで、それは私にとって、主の言葉であった。まさに不安を一拭する根本的な解決だった。それは食べるものに限らない意味を含んでいた。そして食べるものよりも重要なことへの意味も含まれていた。私はそれを信じた。そして主を信じる力を得たのだった。
さて、私たちの貧しさはなんでしょう?
もしその貧しさから開放されるのなら、何を望みますか?
どうかあなたがたが幸いでありますように。
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