問屋

高校教員もしている。

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最近の記事

「探す」

日々、ものすごい数の検索をしている。何か特定のものを探すこともあるけれど、多くは「何かはわからないけど相応しいものを探す」水準の検索が多い。興味深いニュースも、面白い動画も、買いたい品物も、何かよさそうなものをしきりに探している。 一見すると同じ検索も、よく見ると2種類の構え方に分かれているように見える。 1つは、「何かは分からないが、自分に合うものが必ずある」と信じている場合であり、もう1つは「自分にそのまま合うものはないかもしれない」と構えている場合である。 前者の検索

    • 読書記録15:『文字禍』

      中島敦『山月記』を読んで「俺も実は虎なのかもしれない」と考えることは、人生における必修科目の1つであり通過儀礼であると思っています。 ですが、どうやら現行の学習指導要領においてはそもそも「文学国語」が必修科目ではないため、「その声は、我が友、李徴子ではないか?」というあのセリフを目にせずに成人していく高校生が一定数現れるようなのです。 由々しき事態です。 あの漢文に由来する硬質で豊饒な語彙を思わず読みたくなりながら、そのわりに「虎になっちゃった」というファンタジーさと若気

      • 読書記録14:『バタイユからの社会学』

        バタイユの思想に足を突っ込みたくなっていて、ひとまず目についたので図書館で借りたのがこの本でした。 バタイユの示す諸概念のうち、教育においてまず注目に値するのは「有用性」に対する対概念としての「至高性」です。生きていくうえでの有用かどうかの判断の世界から離れて、自己・他者・世界と直接対峙し、至高に十全に存在する出来事として、至高性は現れる。その時、深いコミュニケーションへと開かれていく。 この本のメインテーマは、こうした概念をデュルケームの理論の再構築を通じて、社会学理論へ

        • 読書記録13:『何が教育思想と呼ばれるのか』

          1か月弱、更新していませんでした。公私ともに慌ただしくて読書の時間を取れずにいました。日常の忙しさに苦しくなっていた折、適当に手に取って開いた本の、意味が分からんほどの言語世界がかえって日常を寸断してくれる感覚に心強さを覚えて、とりあえず通読だけはしてみたのでした。 『何が教育思想と呼ばれるのかー共存在と超越性』という書名から既にとっつきにくさがあるのですが、教育思想を論じつつ、頻繁に根拠として参照されているのが神学・キリスト教概念(およびそこから照らし直された哲学)である

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          読書記録12:『ケーキの切れない非行少年たち』

          進路志望を「法務技官」と掲げる生徒の受験の相談を受け、こちらの予習として読んでみました。 『ケーキの切れない非行少年たち』および続編に当たる『どうしても頑張れない人たち』の2冊の新書。非常に読みやすい新書だったので2冊一気に読めました。 実践の現場から見えた知見を扱っているため、徹頭徹尾支援のあり方に焦点化していくわけですが、1作めが少年たち側に主眼を置き、2冊めが支援者側に主眼を置いた本であるという点は特徴的。そのため、2冊で1つの内容として成立しているともいえます。 対

          読書記録12:『ケーキの切れない非行少年たち』

          読書記録11:安田登『すごい論語』

          ミシマ社の本が転がっていると手に取りたくなる。基本的に「論語」に良いイメージはなく、日本のそこかしこに転がる儒教道徳と、それが教育の世界に垂れ流しになっていることには苦々しい思いを持っています。 そういう思いが変わりうるのかと思って読んでみたのですが、「そもそもそういう話じゃなかった」でした。孔子すごい孔子えらい孔子にすがって生きていこう、ではなく孔子が生きて考え、それを誰かが文字にして残した営みから、原初の人間のありさまを読み取ろうという内容でした。 例えば「学」という

          読書記録11:安田登『すごい論語』

          読書記録10:『贈与と交換の教育学』③

          前回②は、共同体の再生産としての「学び」の場としての教育を凌駕し破壊する、「純粋贈与としての教えること」という点についてまとめていました。これが「贈与と交換の教育学」の骨頂たる視点であったわけです。 前回の整理が「教える側」に着目し、それを贈与と捉えるものであったのに対し、今回はこれを学ぶ側、つまり子ども側からとらえ返してみます。 教えることによって、教わった者は安住していた共同体から連れ出され、外の世界の「真理」を味わうという体験をする。そうして、味わった後で元の共同体に

          読書記録10:『贈与と交換の教育学』③

          読書記録10:『贈与と交換の教育学』②

          前回は本書で指摘される「発達としての教育」が、昨今の教育改革ならびに「理想の教育」そのものの姿であること、そして「発達としての教育」で埋め尽くされた学校とは、主体的に学び有用な者になる生徒と、それを支援する教員によって構成されたものとして現れることを整理しました。 『贈与と交換の教育学』は、こうした「発達としての教育」を精緻化することに終始してきた戦後教育学から抜け落ちた「生成としての教育」に着眼し、それを捉え直すことを通じて、「限界への教育学」へと至ろうとします。その際、

          読書記録10:『贈与と交換の教育学』②

          読書記録10:『贈与と交換の教育学』①

          このnoteのように、考えたことや読書した記録を文にまとめていきたいと考えるようになったのは、考え読んだことを「自家籠中のものとしたい」からでした。そうした気持ちが特に沸き起こったのが、2022年に、この本に出会ってしまったことがきっかけでした。 この衝撃的な一冊を、2年経って改めて読み直し、考える起点にしようと思うのです。この一冊からは、あらゆる教育論の一面性を暴露し、全く別の教育を構成しうる可能性を感じてなりません。その割に、改めて読んでも、実は主張は極めてシンプルです

          読書記録10:『贈与と交換の教育学』①

          2024 国公立大「国語」並べ読み

           私は「大学入試(一般選抜)の国語の現代文の問題を並べて読む」というアホな趣味を持っております。これまで数回、ある年の国公立大学の国語の現代文の文章をとりあえず読み、バラバラに出されたように見える入試問題の背景に通底する「時代の問題意識」を読み解こうとしてきた過去があります。  入試問題とは、無限とも言うべき数存在する書物から恣意的に選ばれ、この春に大学生になろうとする18歳以上の人々に、「これを読め」と課されるものです。  総合型選抜の割合が増加し、学部学科独自の課題文が

          2024 国公立大「国語」並べ読み

          読書記録9:「お味噌知る」

          年度末と年度初めはそりゃあもう慌ただしい時期でして、ちょっと別の世界に逃れたくなるものなのです。しばらく書くことも読むこともできていなかった。久しぶりに走ったら筋肉痛になるように、久しぶりに読んだら読書痛になるかのような気持ちになります。そのためまずは軽く読み軽く書く。 読んだのは土井善晴先生と娘さんとの共著。土井先生が日々主張する「料理をして食べるという行動がもうそれだけでええんですよ」という主旨の言葉に日々共感しています。 この前旅行に行き、その後春休みの歓送迎会シー

          読書記録9:「お味噌知る」

          木管五重奏「闇鍋」演奏会

          を、聴いてきました。普段一緒に吹奏楽やってる仲間と高校の後輩に当たる方が共演している、自分から見ても不思議な集団。 自分たちも「普段世界が違うのに意気投合した」とのことなので、パラレルワールドのアンサンブルなんだな。 とか思ってたら昨日のオオサカシオンで数年ぶりに顔を合わせた高校の後輩に当たる方と2日連続で邂逅。そんなことある? 演奏会は2部制、前半で正統派をまず2曲、後半で木管五重奏を布教しつつ裾野を広げ、そして挑戦曲。 にしてもソリストが5人存在する演奏でした。それ

          木管五重奏「闇鍋」演奏会

          Osaka Shion Wind Orchestra 第153回定期演奏会

          に、珍しく行ってきたのでした。春休みの微妙な頃合い、身体の疲れが比較的マシな時期に、ちょっと文化的生活をしようと思ったのでした。オール宮川彬良プログラム。 アキラさんの明るく親しみやすい側面を3割、大衆演劇のような情念の描写7割といったプログラムで、自然と観客が巻き込まれていったのが印象的でした。劇団ひまわりミュージカルラボラトリーへの拍手はみんなで子どもたちを見守るような印象。 いわば祭のような雰囲気を感じていました。 米良美一さんの低音の声を民謡歌手的に多用することで

          Osaka Shion Wind Orchestra 第153回定期演奏会

          教育を身体の観点から見直したらどういうことになるんだろう、という思いつきだけ出てきた。これを語るだけの言葉を持ってないのだけど、考えたらなんか大変なことになる予感がする。身体を消去する学校、それに対する過適応としての不登校と、身体消去の完成としてのオンライン学校。

          教育を身体の観点から見直したらどういうことになるんだろう、という思いつきだけ出てきた。これを語るだけの言葉を持ってないのだけど、考えたらなんか大変なことになる予感がする。身体を消去する学校、それに対する過適応としての不登校と、身体消去の完成としてのオンライン学校。

          読書記録8:『煙か土か食い物』

          今年に入ってお硬い本と実用的なものばかり読んで偉ぶったことばかり書いてたら、気づけば必要な本ばかり求めて必要なことばかり考えて世界そのものを楽しめなくなってしまっていることに気づきました。そんなことを同僚にボソッと言った結果、こう返ってきた。 「舞城王太郎を読め!!!」 「舞城王太郎を読め!!!!!!!!!!!」 もちろん読んだことが無い。最近は小説っても高橋源一郎とか真山仁とか山崎豊子とかとにかく社会の実相に肉薄しまくるものか、宮澤賢治とかとにかく哲学に寄るようなものし

          読書記録8:『煙か土か食い物』

          伝達と損失

           音楽をデータで扱う時に、「無損失」の圧縮ファイルにすることがあります。イヤホンを選ぶときにも、「無損失」がいいとかなんとか。圧縮されて音情報が消えてしまわないので、音質がいい、らしいです。今となっては古いレコードも、高音質のままで聴けるのでファンが絶えない、とかなんとか。  無損失の音源ファイルはデータ量が重い。誰かに送ったり即座に聴いたりするときには、損失ありのmp3あたりで十分満足。ちゃんとスピーカーを通したりすると、そのざらつきに初めて気づきます。  「無損失」と

          伝達と損失