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読書記録11:安田登『すごい論語』

ミシマ社の本が転がっていると手に取りたくなる。基本的に「論語」に良いイメージはなく、日本のそこかしこに転がる儒教道徳と、それが教育の世界に垂れ流しになっていることには苦々しい思いを持っています。

そういう思いが変わりうるのかと思って読んでみたのですが、「そもそもそういう話じゃなかった」でした。孔子すごい孔子えらい孔子にすがって生きていこう、ではなく孔子が生きて考え、それを誰かが文字にして残した営みから、原初の人間のありさまを読み取ろうという内容でした。

例えば「学」という文字。旧字体では「學」ですが、これが往時の金文だと

となり、「子どもが手により引き上げられる」ようになる。つまりは現在で言うところの「教える」になる。ということは、「学而時習之。不亦説乎。」(学びて時にこれを習う、またよろこばしからずや)の意味はだいぶ変わってくる
では「習」のもともとの意味は何か。ひな鳥が羽を動かして飛ぼうとする様子から来ており、これは現在の「習う」という語よりも「実習」という言葉が持つ意味合いに近い。ということは、先の「学而時習之。不亦説乎。」は、通例となっている「学んだことを時々復習する」といういかにも学校的な表現とは異なった意味になるわけです。

さらには「而」という、漢文では「置き字」(読まない)とされているものにも脚光が当たります。何かを文字に定着させるということ自体が霊的な意味を持っていた(それゆえ金文は青銅器等に刻まれた)時代に、意味のない文字が置かれただろうか、と。安田氏は、「而」に時間的経過を指す意味があったという解釈を加えます。

「学而時習之。不亦説乎。」とは、教わり、然るべきときが来たときに、自ら実践することに「よろこばしからずや」と述べたことになります。

しかしこの議論、昨今の教育談義そのものじゃないか。アクティブ・ラーニングの議論そのものじゃないか。何ならそれよりも綿密かもしれない。
孔子は学問に関して「詩」「樂」「禮」の語を用いて語るわけですが、そういった儀式的なものについて、教わりそして実践し、身体に定着していく時間的側面まで考慮していた、というのです。

「身体」という語にも、安田氏が能のシテであることもあって注意が払われていました。身体の「身」と「体」とが別の文字であるということは、別の意味を指していた、と。「体」を「からだ」=「殻」、「身」を「み」=「実」として、表層の肉体(からだ)と深層の心身(み)と見るパースペクティブです。

「からだ」と「み」がこのように孔子が厳密に区別したかどうかの学問的信憑性は若干あやしい(発音も日本語だし)。しかし、「身に付く」という慣用表現含めて、そういうふうに眺めると、学びと身体および時間について、見え方が拡張されるように感じます。

学びをアプリのダウンロードのように、学んだら即、何かが出来るようになることを期待する眼差しが現在は多い。努力して身に付く時間的なものをコストと捉え、最小効率で有用なスキルを獲得することを期待する声は大きい。それへの違和について、まさか論語にも捉えるヒントがあるとは。確かにすごい論語だった。

論語研究の本ではなく、割と自由に語っているがゆえの魅力のある本でした。「仁」を「ヒューマン2.0」とか言っちゃうくらいには自由でした。そういうところにツッコミを入れながら読むと楽しい本です。


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