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読書記録13:『何が教育思想と呼ばれるのか』

1か月弱、更新していませんでした。公私ともに慌ただしくて読書の時間を取れずにいました。日常の忙しさに苦しくなっていた折、適当に手に取って開いた本の、意味が分からんほどの言語世界がかえって日常を寸断してくれる感覚に心強さを覚えて、とりあえず通読だけはしてみたのでした。

『何が教育思想と呼ばれるのかー共存在と超越性』という書名から既にとっつきにくさがあるのですが、教育思想を論じつつ、頻繁に根拠として参照されているのが神学・キリスト教概念(およびそこから照らし直された哲学)であるという一層の難しさ。さらに、教育へと議論が着地する際には、バウマンやルーマンの社会学を援用するという横断性。碩学の思考らしい厄介で含蓄に富むものでした。

それでいて、実務に携わる私としても非常にアクチュアルな問題意識をもって読めるものでした。主にそれは、ガート・ビースタの教育思想が深まるという点において。

話題とするのは「主体的」という言葉です。
会議の中で「PDCAサイクル」などという製造業の言葉が飛び交いながら、「生徒がもっと主体的にならないといけない」という「ご指摘」が飛んでくることがあります。それを受けて、ホームルーム指導や学校行事やらを見直していくことになります。

別の話。授業評価の話の中で、同じ教科を担当する先生から「生徒の主体性を評価するためにノートを集めないのか」と言われました。私はなぜノートを集めたら主体性が評価できることになるのだろう、と考えているため、ろくな会話にならなかったのですが。

これらにみられる「主体的/主体性」は、「能動的/能動性」さらには「行動的/行動性」と置き換えても成り立ちそうです。
その一方で、子どもが「主体的」になるためには、教員は「支援者」の立場になるべきだという論も多くあります。ここでいう「主体的」は「自主的」と置き換えても成り立ちます。

こうした「自主的で行動的な主体性」という捉え方は、新自由主義的な教育改革の中で「人材育成」の観点から重視され続けている考え方そのものです。

さて、ようやく本書から得た視座に触れます。象徴的な一文がありました。

生の重層性は、人が生きることが実在論的・機能論的位相と存在論的位相の重なり合いであることである。

『何が教育思想と呼ばれるのか』

本書は、先の「人材育成」的な教育観が「機能論的位相」にあることを指摘したうえで、それでは捉え切れていないものを「存在論的位相」という位置づけで示します。
機能論的位相においては、先の主体性は「何が有用なのか」とと自ら考え行動し、世界をよりよい機能を持つものに作り替えていく姿勢として現れます。ところが、これは「主体性」というイメージに反して、現在の社会制度への適合という側面を持ち、教育が手段化していくことに帰着します。

存在論的位相とは、「何有用なのか」と問い直し、あらゆる制度がよりよく生きていくこととどうつながるのか、などと考えていく姿勢として現れます。ここにおける主体性は、現状の社会的現実から離れ、よりよく生きることに立ち返ったり、新たな捉え方を生み出したりする「脱制度化」の側面として現れます。

ガート・ビースタは教育の3類型を「有能化」「社会化」「主体化」ととらえ、「主体化」を重視する教育学を「中断の教育学」と呼んでいます。これがどうして「中断」なのかがよくわからなかったのですが、上記の整理をすると見やすくなる。
一般に用いられる主体性が「有能化」「社会化」(つまり制度化)であるのに対し、ビースタは現状の社会的現実を「中断する」教育が「主体化」であると捉えるわけです。
ビースタは「出来の教育学」という言い方もしていますが、「中断」したうえで、子どもがよりよく生きることを問い、問うことによって他者の前に主体性をもって「出来する」ことを指示しているとすると、これまた整理がしやすくなります。アーレントのいう「現れ」とも関係します。

よりよく生きることを問うことには、他者との「交感」を経由すると本書は述べます。先生や生徒を、有用な知識や技術を伝えてくれる存在あるいは競い合う存在としてではなく、「まったくの他者」として出会い、自分の内なる声に耳を澄ませ、その他者の声に耳を澄ませ、互いに独自の存在として応答しあうこと、さらにはあらゆる他者と十全にかかわる生成的な体験が、「主体化」に必要だという方向の論が述べられます。

『贈与と交換の教育学』、『目的への抵抗』など、目的合理性から逸脱した「過剰」なものへの着目が、やはりここからの教育を考えるうえで重要だと思えてなりません。
いよいよバタイユの思想に潜り込んでみるときかもしれない。

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