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読書記録14:『バタイユからの社会学』

バタイユの思想に足を突っ込みたくなっていて、ひとまず目についたので図書館で借りたのがこの本でした。

バタイユの示す諸概念のうち、教育においてまず注目に値するのは「有用性」に対する対概念としての「至高性」です。生きていくうえでの有用かどうかの判断の世界から離れて、自己・他者・世界と直接対峙し、至高に十全に存在する出来事として、至高性は現れる。その時、深いコミュニケーションへと開かれていく。
この本のメインテーマは、こうした概念をデュルケームの理論の再構築を通じて、社会学理論へとまとめていくことにあります。

非常に難解なバタイユの思想に関する入門として読みやすいだけでなく、それをただ思想の解説としてでなく、社会学への応用という点で整理されており、足がかりとして助かる一冊でした。

しかし重要なのは第6章「剝き出しの生と交流ー難病ALSの剝奪体験をめぐる詳察』でした。読み進めた最終章で、突然エッセイが現れたのです。
筆者のお父さんが指定難病のALSに侵され、「ただ生きるだけの人生に意味はあるのか」と問う。困難な生活に家族が壮絶に寄り添いながら、それでも生きていてほしいと願う。確実に進行する病気を前に、「現在が最良の状態である」と気付き、共に生きることにただ集中する。
そんな日々が、突然の事故で終わる。そのことが、次のように総括される。

父は難病を患った自分の生をそれ自体で生きるに値するものとは考えていなかった。生に価値があるから生きたのではなかった。共に生きるなかで生の価値が示されたのである。ALSを患った父にとって、生きることは共に生きること以外ではありえなかった。父はその現実を受け容れ、死を覚悟し、持てるすべてを「共に生きること」に賭けた。私たちもできる限りのものを注いだ。医療関係者や保険制度の支えもあった。結集した力は、有用性の世界に余白を作り、「ただ生きていること」が肯定される場を可能にした。そこに訪れた穏やかな一日はやはり奇蹟的な時間であったと思う。

『バタイユからの社会学』p267

難解な理論を丁寧に扱ってきた学術書の最後に突然差し挟まれた体験のエピソードは、筆者がそこまで述べてきたバタイユの理論を具体で支持するという機能的な水準を遥かに超えて、法外な体験そのものとして立ち現れる。共同体の外において体験した至高性を、こうして思わず書いてしまうところに、圧倒的な蕩尽の世界がある(矢野智司ならこういう姿勢を「最初の先生」と呼ぶのだろうか)。

何気なく読んでみていたら、突然去来したこの体験に胸を打たれたのでした。分析的な記述ではなく、ただこの体験を書き残しておこうと思ったのです。

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