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読書記録10:『贈与と交換の教育学』②

前回は本書で指摘される「発達としての教育」が、昨今の教育改革ならびに「理想の教育」そのものの姿であること、そして「発達としての教育」で埋め尽くされた学校とは、主体的に学び有用な者になる生徒と、それを支援する教員によって構成されたものとして現れることを整理しました。

『贈与と交換の教育学』は、こうした「発達としての教育」を精緻化することに終始してきた戦後教育学から抜け落ちた「生成としての教育」に着眼し、それを捉え直すことを通じて、「限界への教育学」へと至ろうとします。その際、「贈与(特に純粋贈与)」「体験」「蕩尽」「生の技法」といった概念を経由し、文学作品の力を借りつつ、既存の教育学ならざる教育学を構想しようとしています。

この本が用いる諸概念を、現場へと接続できるか、やってみます。まずは「贈与(純粋贈与)」から。
この言葉は書名のとおり「交換」と対になる。交換とは市場交換を代表例とします。金銭を媒介にした商品取引は市場交換の典型的な例であるわけですが、商品取引システムが世界を覆い尽くす前から、交換は社会の基本的なシステム(モースのいう「全体的社会事実」)であったわけです。

例えば、労働に対しては、成果物が得られる。より努力をした人には、より多くの成果物が与えられるべきだ、という感覚は、等価交換を是としたものです。こうした物質的側面だけでなく、「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いに対し、「悲しむ人がいるからだ」という道徳的主張も、交換の文脈で考えたものだ、と捉えられるといいます。なぜなら、殺害するという行為と交換され手に入るのは、「悲しみ」という損害であるため、損害を発生させてはならない、という道徳として捉えられるからです。

「ヒトラーのような人間がいたら殺して良いのか」とか「誰も悲しむ人がいない人を殺すのは良いのか」という天邪鬼な問いが発されたとき、交換の道徳を以てこれらを否定することは、至難の業です。殺害するという行為と交換されるのが無か利益の場合、行為は少なくとも否定されない、と主張しているわけですから。

この交換を是とした思考は非常にシンプルかつ強力です。資本主義社会が定着した今、現在の社会のあらゆる場面が交換の思考で捉えられており、現在の高校生たちも無自覚のうちに交換を内面化しています。
同じ成果が手に入るのなら、こちらが出すコストは無駄がない方が良い。最小のコストで最大の利益を手に入れたものが、交換においては勝者となるわけです。それゆえ、内田樹が『街場の教育論』などで指摘するように、学歴という商品を、最小のコストで手に入れたことを誇る表現(「全然勉強してなかったけど◯◯大合格した」)が、臆面もなく語られる事態が現れます。また、「◯◯なんて何の役に立つんですか」という言い草も生まれます。役に立たないことにコストを払うのは損だ、コスパが悪い、というわけです。

こうした学生の「ちょろまかし」に対して対抗する教員も、交換の論理に囚われています。例えば、教員の中には授業中の挙手回数や、提出物の達成度を数値化し、定期考査と合算して成績評価に反映する人が多くいます。彼らは、学生が自分の授業を「ちょろまかし」しないように、一定時間の努力を支払うことを求めているのです。教員がよく使う言い回しとして「提出物を出してはいる」があります。内容は全く目も当てられなくても、提出物を出すという程度には時間を使っていたことを評価する言葉です。

生徒と教員とがともに交換の論理に囚われていると書きましたが、むしろこれは暗黙のうちに、生徒と教員との間で交換に基づく秩序が形成されているといったほうが適切なのでしょう。生徒だけが交換の論理を主張しているのではなく、学習成績と努力を交換する秩序を、生徒と教員とが作り合っているわけです。

こうした「交換」と対になるのが「贈与」。見返りを求めず、相手にただ贈与するようなあり方です。これは、プレゼントを受け取ったら、場合によってはお返しをだいたい同じ程度のもので、後日行うといった義務的で制度的なもの(「贈与交換」として区別される)や、無限の贈与を「美談」として回収するようなものとは一線を画すものとして定義されています。一線を画す贈与は「一切の見返りを求めない贈与=純粋贈与」として規定されます。

純粋贈与は、受け止めきれないほどの贈与を、見返りなく行うことであり、究極的には死ぬことすらも贈与としてなされてしまう。これは規模的にも、また贈り主が死んでいるという点でも返済不能であり、交換という秩序を破壊する行為=逸脱であるわけです。そして、あまりにも度合いが強力であるために、美談としても回収しきれないインパクトを持ってしまう。

そして、この本の一番の凄みでもあるのですが、こんなバカでかい純粋贈与が、教育の起源だと言うのです。

先の記事で、「発達としての教育」としての捉え方は教育の学習化につながり、生徒が学び、教員は支援者としてみなされることを整理しました。共同体の中での交換のモデルだと、生徒は先人から学ぶことで、有用性を獲得できます。ここには閉じた秩序が存在します。
しかし、ひょんなことから共同体の外に出て、共同体の中にはなかった新しい世界を知った人間がいた時、状況が変わります。何かメンバー全員が知らない真実に舌を巻いた人は、おそらく共同体に戻って、「知ってるか!?実は◯◯らしいぜ!」と興奮気味に話し出すことでしょう。
これが、「学ぶ」とは根本的に異なる「教える」であるわけです

共同体という秩序の外側に、真理があるらしい。それは、共同体の秩序を破壊するようなことかもしれない。それでも「教えたい」という気持ちが生まれたときには、それは純粋贈与になりえます。同時に、秩序の破壊行為として、弾圧されることすらあるでしょう。
そのような弾圧によって教えていた人が死んだなら、「自分の命すらなげうって、真理を伝えようとした」人として、かえって彼の教えは切実なものに変化します。毒杯を飲んで死んだソクラテスや、十字架刑で殺されたイエスの教えが、その後の人々を駆動し続けていることが、その証左となるわけです。

本の中にはあまり出てこない表現ですが、この「真理」という言葉が彼らから教えられていることは、あらゆる教科の教員が、その教科を教えなければならないと切望していることの根拠であろうと思われます。つまり、教員とは「真理」を純粋贈与された者であり、その真理に魅了され痺れている存在です。こうした人々が「教える」という行為を通じて、子どもたちを時に共同体の外側に連れていき、共同体の維持者だけでなく破壊者=創造者すら生み出すことにつながっていく場が、学習化しきれない「教育の場」だと捉えられます。

「魅了され痺れている」「共同体の維持者と破壊者=創造者」など、まだまだ整理不足の言葉が出てきています。まだ次の記事に続きます。

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