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恋人に「好き」って言ってない気がする

推しへの「好き」と、恋人への「好き」の違いについて考えた時。
まず思い浮かんだのが、言語化の頻度でした。

推しに対する「好き」は、日頃から様々な場面で発信しています。
日記で、旧Twitterで、なんなら恋人との会話の中でも。
(好きなジャンルが被っているのです)

話題の入り口は数あれど、最終的に「好き」とか「大好き」とか「そういうところがほんと好き!」へと到達するのは、一貫しています。
愛でて発信してまた愛しさを募らせる。
そんな好循環が、見事に日常へと溶け込んでいる。

推しを通じて過ぎる時間と、心の充足や高揚が引き換えになっている事実も、幸せな等価交換だと思います。


それで言うと。
恋人に対しては、言葉で「好き」を伝えていない気がする。
推しを比較対象に持ってくるのもなんですが、あの子のこういうところが好きだと手を変え品を変え語る様を、聞いてもらうばかり。

恋人のことは好きです。
どんなふうに好きかを考えると脳裏に過ぎるのが、かつて米津玄師さんが『Lemon』で歌った「切り分けた果実の片方」というフレーズ。

「自分の人生においてそう呼べる存在がいるとしたら、それはこの人のことかもしれない」
初めて聴いた時から変わらず、そんなことを勝手に思っています。


ただ、そうやって思っているだけでは伝わらないのも確か。
いや言葉で十全に伝えられると信じきれるほど、自分の言語化力を過信してはいないけど。

それでも一緒に過ごす時間や、何気なく触れた時の温かさや向かい合って言葉を交わす事といった「言語化以外の要素」に、頼りっぱなしで今に至っている、ような気がする。


「愛でて発信してまた愛しさを募らせる」
推しに対してこういう再生可能エネルギーめいたスタンスでいられるのは、推しへの「好き」が一方通行、かつ自己完結型だからです。
自分の中に湧き上がった情熱を、自分で言語化するだけでいい。

恋人への「好き」は双方向性だと思う。
いや違う、思ってきました。
でも実際は多分、前述した「言語化以外の要素」という手段があるから、言葉にせずとも大丈夫だと考える節があったのかもしれない。

手の届かない、そして認知されたいという欲求もない推しに対する「好き」を自己完結型と称しておきながら。
距離感が全く違う恋人への感情表現に対しても、自己完結っぷりを発揮していた。

結局のところそういう事なのでは。
と、書きながら思い至って今に至ります。

横着と呼ぶほどではないにしても。
何というか「間違ってはいないけど正しくもない」という感覚。
「言語化以外の手段」も変わらず大事にしながら、言語化することも蔑ろにせずにいたいものです。


ここまで読んでくれたあなたも、大切な人への気持ちを言葉にしてみるってのはどうですか。
年がら年中やってるよ、という人には賛辞の拍手を送ります。ぜひともそのままでいてください。



◆ ◆ ◆

本記事は『マンダラチャートと抽選アプリで遊んでみた』というタイトルより生まれたお題にそって書きました。

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