幸せって言葉を使うな

人が幸せを求め、または不幸を避けるために、多くのいざこざを起こし、または自死をすることを知ってきた。

が、幸せとは何か、が個人差があることだ、と言う人は少なくて、ただ「幸せを求めよう」「不幸を避けよう」とオススメすることが危険な気がしてきている。

幸せって、分かったような分からん言葉だ。ぼんやりして、具体的に何でもさせるし、何も指していない言葉。これが、結局のところ問題だ、ということが私にはわかった。人を扇動できる言葉ということ。

じゃあ、あなたの幸せは何か、その何かを求めれば、「あれれ、俺はこうなんだけど、お前のとは違うんだ」ってことになり、それは簡単に「よし戦争だ」「よし攻撃だ」とはなりにくいのではないか、と思ったのだ。

お腹が減った人が求めるのは食べ物じゃなくて満腹感だろう。食べ物を見ていても幸せになれないからだ。が、食べ物が好きな人は、見ているだけでも幸せって言う。肉汁の垂れたハンバーグを見ていて「幸せ」って言う人がいるからだ。でも、食べなければ満たされない人もいる。料理人であればハンバーグを作ることで幸せになる人もいる。それは理想の実現化に他ならないからだ。このように食べ物というキーワードですら、幸せに達する道がいくつも存在する。

というわけで、幸せ、とか不幸とか、漠然として、かつ、個人差のある抽象的な言葉を使うことをなくしたい。具体化という知的作業は苦手な人もいるだろう。だから、具体化には支援をしながら、みんなで具体化をしていけることが大切だと思う。

この成果が顕著に表れるのは「不幸」の具体化だと思う。漠然と未来に不安があっても不幸を感じるし、さっき告白したけど振られたときも不幸を感じる。目の前のハンバーグが食べられない場合も不幸を感じるだろう。不幸という言葉を使わなければ、代わりに具体的な言葉で表現できれば、どれだけの人を助けることができるだろうか、と感じた。

話がズレるが、教育やマスコミや世間や常識、それらはいつも私たちを洗脳し、扇動してくる。長年「資本主義ってそういうものなのでしょうがない」と言っていたら、どうやら地球人が生きていけない地球になってきたらしい。こんな地球は、あなたにとって「不幸」なのか、「幸せ」なのか、それはわからないけど、もしも具体的な表現に落とし込めるのなら、具体的に考えてみて欲しい。抽象度を下げて具体化していくことで自分の中から問題解決の答えは見つかっていくのかも知れないからだ。

個人の考えは、多く集めることで段々と真実へと近づいて行く。というのも、だいたいの場合、部分を集めたものが全体になるからだ。これが民主主義というものであって、そもそもを議論することなしに多数決を取ることは民主主義なんかじゃないんだ。

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