全部ある当麻町

北海道大雪山の麓にある当麻町です。人口6,000人弱の小さな町には、小さな幸せがたくさ…

全部ある当麻町

北海道大雪山の麓にある当麻町です。人口6,000人弱の小さな町には、小さな幸せがたくさん!「当麻町の“当たり前にある”幸せを、皆さんに届けたい!」そんな思いから公式noteを開設しました。

最近の記事

温かな“秘境”

先日、役場に町民さんからお電話でとある相談があり、その方のご自宅に訪問しました。 電話で完結する内容だったのですが、高齢で耳も遠いことから、電話では伝わりづらいと考え直接お邪魔することにしました。 この方は当麻鐘乳洞がある「開明」という地区に住んでいます。山間部にあるのですが、この方の自宅はさらに奥地、家もほとんどない場所にあります。当麻町にはこういう場所が数か所あり、私は勝手に「当麻の秘境」と呼んでいます。 笑顔で迎えてくれた80歳を超える老夫婦。用事も完結し、お暇しよう

    • おしどり夫婦

      招き入れられた空間にはフィルムカメラが所狭しと並び、床には今でも現役だというビンテージ感漂うミシンが数台鎮座している。壁に掛けられた振り子時計の雰囲気も相まって、昭和生まれの自分にとってはどことなく懐かしさを感じる。家主である夫が他界してから7年間、夫にとって特別だったこの空間をそのまま残す奥さんは、ゆっくりと夫の話を始めた。         樺太からの引き揚げ者だった夫の家族は、湧別に移り住み、そこで夫は馬具職人の道を目指した。始めは見習いのため給料は支給されなかったそうだ

      • 大自然と音と人と#3

        敢えて痛みを  ユーチューブチャンネル「珍獣ヒロの当麻秘境「音むげん工房」だより」は2年前、コロナ禍の中で立ち上げた。不定期だが、DIYのリフォームや田舎暮らしの動画を発信している。その中の1本をぜひ紹介したい。  場所は苫前の海岸。海のさざ波音やカモメの鳴き声の中、はしゃぐひろきさん。その隣で妻のあきさんは静かに気功を行っている。あきさんにフォーカスを当てた動画だ。この中であきさんが大腸がんを患い大手術を受けたことを明かしている。  2019年春に大腸がんステージ4と分か

        • 大自然と音と人と#2

          音楽と向き合うこと  ピアノは好きで始めたわけではない。  厳しい作法、しきたり、コンクール出場…。発表会やコンクールで“女の子”として着飾らなくてはいけないこと、バレエやピアノといえば女の子がするものという当時の固定概念が嫌でしょうがなかった。しかし、ピアノそのものが嫌いというわけではなかった。  大学は、北海道大学と武蔵野音楽大学に機会を得た。  歴史・神話・伝説・民俗学・考古学・宇宙などが、自分としては好きで探求したかった世界かと思ったが、選んだのは音楽の道だった。

        温かな“秘境”

          大自然と音と人と#1

          プロローグ ―2月上旬、とあるご縁があって、親近者だけで行われた「ミニコンサート兼新年会」に参加させていただいた。  演奏するのは緑郷の山奥から音楽活動を発信する「敦賀ひろき」さん。ひろきさんは住居の一室に置かれた小さなグランドピアノでオリジナルの曲を数曲披露した。中には歌入りの曲もある。実体験から生まれたという曲はピアノ伴奏と歌声だけというシンプルな構成ながら、目を閉じるとその情景が手に取るように浮かんでくる。  宅内でのコンサートが終わると、ひろきさんは「皆さんでこの素

          大自然と音と人と#1

          山とともに ~リウカが紡ぐ優しい時間(後編)

           子どもが生まれたことをきっかけに、自然が多く、安全安心な食材が食べれる場所に住みたいと考えるようになった瞳さん。この頃、すでに篤志さんはウエブデザイナーの仕事に就いており、札幌を拠点にした仕事を請け負っていたことから、恵庭や小樽銭函など“札幌通勤圏”での住居を探し始めた。「あまりピンとこなかったところにちょうど、上川町での仕事を請け負ったんです。ちょっと行ってみようかと上川町、東川町を見たんですが、何か整いすぎていて…、イメージに合わないと思っていたところに、友人が“当麻町

          山とともに ~リウカが紡ぐ優しい時間(後編)

          山とともに ~リウカが紡ぐ優しい時間(前編)

          “自分らしさとは何だろう?”あらためてそのことを考えさせられた今回の取材だった。  水本篤志さんは“髭モジャ”で、一種独特な雰囲気を醸し出している。それに対して奥さんの瞳さんはオーガニックな装いだが、顔立ちがシュッとしていて端整。どこか都会的な雰囲気がある。お二人とも発する言葉が柔らかく、“聞き上手”で、取材に伺ったこちらの方がたくさんの話を聞いてもらってしまった。  3歳の息子さんと猫3匹という家族構成の水本さん。住宅は当麻山スキー場を愛別方面に通り過ぎ、ちょうど当麻山の裏

          山とともに ~リウカが紡ぐ優しい時間(前編)

          山とともに ~自家製の家とパンと~(後編)

           林さんの住宅の入り口には「Kigi」と書かれた看板がかかっている。紗弥子さんが自宅で営むパン屋だ。ちなみに“キギ”と読むが、林さんの苗字を構成する二つの「木」から命名されている。  大学生の頃、スノーボードがしたくて居候していたニセコで天然酵母のパンに出会い、パンが好きになった。それからは旅先で必ずパン屋を訪れ、いつか自分でパンを作りたいと思うようになった。2年間パン屋に勤め、上富良野在住中も富良野マルシェでパンを作っていたという。  翼さんの住宅設計図には元々、コンクリ

          山とともに ~自家製の家とパンと~(後編)

          山とともに ~自家製の家とパンと~(前編)

           “やるなら今しかねぇ…”  長渕剛さんの曲のワンフレーズだが、ドラマ「北の国から」で主人公 黒板五郎役の故 田中邦衛さんが口ずさんだことから一躍有名になったセリフだ。  富良野市を舞台にした倉本聰監督の「北の国から」は道外のファンも多く、このドラマに感化され北海道に移住したという声も良く耳にする。北星3区の小高い山の中に住居を構える林さん一家もドラマの影響を受け11年前、北海道当麻町に移住した。大黒柱の翼(たすく)さん、妻の紗弥子さん、小学生のお子さん2人、そして1歳になる

          山とともに ~自家製の家とパンと~(前編)

          当麻の記憶#10 中央地区の記憶その2

          当麻川と牛朱別川に囲まれた中州状の地形で、どこに行くにも橋を渡る必要があったため“中島”と呼ばれていた中央4区。「昔は郵便物が“当麻町中島”で届いていたんですよ」と話すのは、88年間この地区に住む中村護さん(昭和9年2月16日生)。  小学生の時に戦中、戦後と移り替わる時代を経験した中村さんは、学校生活も大きく変貌したと振り返ります。戦時中の学校生活は勉強と作業が半々だったといいます。中村さんが記憶しているのは出兵し人手が足りない家庭やお年寄りの家庭の農作業の手伝いや、暗渠用

          当麻の記憶#10 中央地区の記憶その2

          開駅100年 伊香牛駅の記憶を辿る

           明治22年から24年にかけて開削工事が行われた北見道路(現在の国道39号線)。この道路沿いに広がる伊香牛地区は道路の開通とともに徐々に開拓の鍬が降ろされていきました。明治37年には細野亀多六氏(嘉永4年~大正10 年)が伊香牛の永山兵村財産地を買収。これを皮切りに現在の伊香牛3区に宮城県から小作人が入植し細野農場を開拓していきます。ここから国道沿いにはさまざまな業種が開業、さらに「伊香牛地区に鉄道が通る」という噂から伊香牛市街地区は発展していったと郷土史「礎」(当麻町郷土史

          開駅100年 伊香牛駅の記憶を辿る

          開駅100年 当麻駅の記憶を辿る

           当麻駅前にある「まさ屋旅館」は大正13年開業。今年開駅100年を迎えた当麻駅とほぼ同じ時期に開業し、ともに歴史を刻んできました。現在の建物は2代目ですが、開業当時の看板や鬼飾りなどから100年の歩みを垣間見ることができます。現在、娘さんと2人で旅館を営む廣瀬一布さん(昭和17年6月21日生)は3代目。初代、2代目とこれまでは女性が旅館を取り仕切ってきました。  祖父は職人を雇い“柾(まさ)屋(屋根葺き工。柾葺き屋根から来る名称のようです)”を経営していました。これが旅館の

          開駅100年 当麻駅の記憶を辿る

          生業(なりわい)を楽しむ。

           生きるために必要な「生業」というのは人生の大半を占めている。例えば会社勤めは定年まで40年以上、自営業だともっと年数が長く、家事に関しては生涯ずっと付き合わなければならない。一日の生活の中でも生業が占める割合がほとんどで他は食事、睡眠だけという人もいるのではないだろうか。“好きなことに費やせる時間がもっとあれば良いのに…”と願う人は多くいるはずであり、もしも生業が趣味の一部ならどんなに幸せなことかといつも思う。  中央4区にお住まいの広富美恵子さんは、夫、息子さん夫婦と4人

          生業(なりわい)を楽しむ。

          当麻の記憶#9 中央地区の記憶その1

           当麻町中央7区には「当麻0丁目」というバス停が存在します。“0丁目”という表記は全国的にも珍しく、テレビなどでも取り上げられたことも。な ぜそういう表記になったのか特に残されていませんが、以前、広報企画でこの地区にお住まいの方にお話を聞き調べていく中で、国道39号線と1丁目の間にできた1番町道路の角にバス停を設置したが、すでに1丁目、2丁目…と表記されたバス停がつながっていたため、これより若い数字が無く0丁目になったのでは?という結論を見出しました。この地域に住む菅野光仁さ

          当麻の記憶#9 中央地区の記憶その1

          当麻の記憶#8 伊香牛地区の記憶

           当麻に屯田兵が入植したのは明治26年。しかし入植前から開拓が始まっていたのが当麻町と愛別町の間に位置する「伊香牛地区」です。なぜかと言うと伊香牛には水路の要である渡船場・駅逓があったため。この地区の名前はアイヌ語で“イイカウシ(越す所)”と呼ばれていたことが由来です。 この地区に生まれた白鳥富雄さん(昭和7年11月5日生)。当麻駅とともに今年開駅100年を迎える伊香牛駅があるこの地区は昔は非常ににぎわっていたと話します。終戦頃にはパチンコ屋、居酒屋、呉服屋、お菓子屋、床屋

          当麻の記憶#8 伊香牛地区の記憶

          西瓜糖の目

           みなさんは「西瓜糖」を食べたことがありますか?西瓜糖は西瓜の果汁を煮詰めたものです。シロップとしてヨーグルトなどにかけたり、砂糖の代わりにお料理に使ったり、さまざまな用途に使うことができます。  昨年の夏、町内で西瓜の苗をいただき、そこから育った未熟な西瓜で西瓜糖づくりを行いました。小玉西瓜1玉からほんの少し、琥珀色の西瓜糖が出来上がりました。味は胡瓜の香りがする薄い蜂蜜といった感じです。  私がなぜ西瓜糖に興味を持ったかというと、アメリカの作家リチャード・ブローティガンの