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大自然と音と人と#2

音楽と向き合うこと

 ピアノは好きで始めたわけではない。
 厳しい作法、しきたり、コンクール出場…。発表会やコンクールで“女の子”として着飾らなくてはいけないこと、バレエやピアノといえば女の子がするものという当時の固定概念が嫌でしょうがなかった。しかし、ピアノそのものが嫌いというわけではなかった。
 大学は、北海道大学と武蔵野音楽大学に機会を得た。
 歴史・神話・伝説・民俗学・考古学・宇宙などが、自分としては好きで探求したかった世界かと思ったが、選んだのは音楽の道だった。
 在学中、とあることがきっかけで“自身の資質”が公のものとなった。母親にも…。親に、自身の存在を肯定してほしいがため続けてきたピアノだったからか、目標を失い、ピアノと向き合うことができなくなった。そんな時に同級生の何気ない一言が、ひろきさんの人生を大きく左右するきっかけになる。
―あなたの資質を自己表現の根源として生かしたら良い。芸術家であったら、むしろ手にしたいような境遇なのだから― 心の中で“お前に何がわかる”と思った。「資質をさらけ出してプラスに働くのは大きなバックアップがある一部の人だけですからね。それ以外の人はマイナスでしかない」。
 しかし、そこからまた音楽と向き合うようになる。なぜなら音楽がひろきさん自身を表現できる唯一の媒体だったから。歌うことも好きではなかった。声を発するのが嫌だった。それは自らの口から生まれる声が〝女声〟だったから。会話することすら苦手だった。相槌をうつだけだったという。「歌を歌い始めた時はドからソの五つの音階ぐらいしか出せなかったんですよ」
 1967年生まれのひろきさん。時代は彼にとって冷たかった。大学卒業したての頃、東京の大手音楽教室に講師として少しだけ勤めていたことがある。しかし教室の同僚から社員に自分の資質の噂を流され、「教育上良くない」とクビにされる状況に陥った。敦賀さんはその空気を察知して自主退職を選んだという。某芸能事務所に所属したこともある。しかし女性として売り出されそうになり逃げ出した。
 生きていくため東京都特別区職員となった。首都圏にこだわったのは大勢の中で自分の存在が紛れるから。公務員にこだわったのは採用が試験制度による男女平等の扱いだったから。在職期間16年となった。本来の“器”に戻るため、2004年に施行された性同一性障害特例法(GID特例法※2018年にWHOが性同一性障害を「精神疾患」の分類から除外している)、ガイドラインに沿って、5年間で6度のオペを経て38歳で男性戸籍を得た。公務員時代は自費でミュージカルを主宰していた。その理由は音楽という自己表現を続けることもあったが、自身の心のバランスを保つためでもあった。自分という存在と向き合っていたこの頃に生み出していた曲は今の音と全く違い、混沌としていたという。ミュージシャンのインタビュー記事で「昔から音楽が好きで…」とか「こういうミュージシャンに憧れて…」という内容を必ず目にする。しかし、ひろきさんにとっての音楽とは、自身の存在への肯定を導く一つの方法だったのかもしれない。

ピアノへの思い

 ここまでのひろきさんの言葉からは、ピアノはあくまで表現の道具という印象を受ける。しかし、自身が発信するユーチューブ動画では、道具であるはずのピアノへの多大な愛情を感じる。
 “ピアノありき”という大学生活を送っていたが、長くグランドピアノを手放した時期もあった。公務員時代、ピアノ無しで音楽活動を続けるひろきさんを見かねて同僚が、亡くなった画家である夫のアトリエにあったグランドピアノを譲ってくれた。狭い六畳一間の部屋を埋める程大きなピアノだったという。年老いたピアノ。しかし恩人の夫の大事な場所で大事にされてきた大切な物。移住する先々、引っ越しが大変でも必ず共に過ごした。しかしそのピアノも当麻に移住した頃から弦が切れたりピンが緩んだりすることが頻繁に起きるようになった。自ら調整しながら何とか使っていたが、とうとう中身をそっくり取り替えるか本体を入れ替えるかの選択を迫られる時が来てしまった。
 そんな時、ひろきさんを支援する会の会員がグランドピアノを寄贈してくれた。ピアノについては素人だが、内緒で中古のグランドピアノを探し回ってくれたらしい。グランドピアノといっても1968年製の小さなピアノ。これまでのピアノよりもさらに年老いていたが、その人の気持ちが嬉しかった。「色んな人に支えられ、ここまで続けられています」とひろきさんは話す。
 ピアノ入れ替えの日。運送業者が新しいピアノの搬入準備をする横で、搬出されるピアノをきれいに磨き、「これまでありがとう」と語りかけるひろきさん。別れの時、古いピアノを載せたトラックをずっと追いかけ、見えなくなるまで見送っていた姿が映っていた。
 「ピアノをやらせてもらったおかげでいろんな人とつながることができました。僕にとって音楽は命の共振共鳴そのもので