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当麻の記憶#13 戦争と引き揚げの昔話

元小学校教員で現在、当麻小学校の裏に住居を構える樋口一也さん(昭和9年12月14日生)。樺太で生まれ、小学5年の時に北海道に引き揚げてきました。軍人で獣医だった一也さんのお父さんは樺太で養狐場(毛皮にするための狐を飼育する場所)に勤めており、お祭りの時は5銭もらえれば多い方のお小遣いを10銭もらっていたので、かなり裕福な生活だったのではないかと当時を振り返ります。

樺太にいた頃の写真。家族写真が豊富にあり、現地での生活が裕福だったことが想像できる


上敷香(かみしすか)という地で、父、母、妹、弟と5人で暮らしていた一也さん。終戦間際、お父さんは仕事のため単身札幌に赴いていたそうですが、終戦を迎えた日は偶然、馬を調達するため樺太に戻っていました。敗戦の情報が入り、身の危険を案じたのか、お父さんは「すぐに樺太を出る」と決断し、船が停泊する大泊(おおどまり)という地区まで向かいました。所持したのは衣服とリュックサックに詰めたお米だけ。全ての財産はそのまま置いてきました(この後、貴重なお米は大泊へ向かう汽車の中で盗まれてしまいます)。用意された汽車は貨物列車。多くの日本人が乗り込み2日間かけて大泊に向かいました。2日もの日数を要したのは爆撃されることを避けるため。日中はトンネルの中に車両ごと隠れ、夜、暗闇の中を走らせたそうです。大泊から日本へ向かうために樋口さん一家が乗り込んだのは「海防艦」と呼ばれる軍艦でした。この時出航した船は数隻あり、宗谷丸と呼ばれた貨客船と海防艦は稚内に向かうルートをとりました。同じ時に出航し留萌沖のルートを辿った3隻は潜水艦の攻撃を受け沈没。1700人以上が犠牲となった「三船殉難事件」として知られています。こちらの船には樋口さん一家が親しくしていた家族、友人なども乗船していたそうです。
機雷を避けながら命からがらの状態でようやく踏み入れた母国。しかし樺太とは180度真逆の過酷な生活が待っていました。札幌、函館を経て昭和20年の暮れ頃に旧軍用地だった開明地区に移住した樋口さん一家。引揚者には旭川師団が使用した三角屋根の兵舎が住居として与えられましたが、室内は寒く、敷く物も無いため松の葉を敷き、その上にむしろを掛け、布団が無いのでオーバーなどにくるまって厳しい北海道の冬を過ごしたそうです。軍用地だったため畑はなく、最初は農作物も作れない状態でした。石渡の入り口にでんぷん工場があり、そこから出る搾りかすをスコップで持ってきて、団子状にして食べていたそうです。当麻に来てから3人の弟を授かりましたが、栄養失調でみんな1歳になる前にその生涯を閉じました。過酷な生活は皆同じで、亡くなった人が戸板に乗せられていく姿を幾度となく目にしたそうです。


一也さんのお父さんは獣医を開業し、生計を立てるようになりました。当時は農耕や材木を運搬するために馬が多く使われていたことから、仕事は忙しかったそうですが、生活に困窮しているのは誰も同じで、お客さんから安定的な収入を得られず苦しい生活は変わらなかったそうです。「勉学だけは事欠かずに学ばせてやりたい」と大学まで通わせてくれたお父さん。亡くなってから遺留品整理のために書類箱を開けるとお金の借用証書がいっぱい出てきたそうです。当時の父の苦労を考えると感謝しか浮かばないと目に涙を浮かべていました。