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レシピ小説「デスペラード」第1話【枝豆のペペロンチーノ】

「あらすじ」
〜那覇の片隅でテキーラ・バー「デスペラード」を経営する私。店を訪れる客や近隣の店の人々の人生や交情、私の提供する料理や酒のあれこれ〜

第1話「枝豆のペペロンチーノ」

「デスペラード」は那覇・牧志の片隅にあるテキーラ・バーである。
十五坪の店内にはカウンターが七席と四人掛けのテーブルが二つある。元々はスペインバルだったこの店を古くからの知人である女性から私は借り受けている。
朝子さんは東京で長くグラフィック・デザイナーとして働いた後、那覇へと移り住みスペインバルを開いた。若い頃にスペイン各地を放浪した朝子さんはその地で学んだスペイン料理とワインの知識を多くの人たちと共有したいという思いでこの店を開くことを決めた。その前年、左胸に乳癌が発見されて乳房切除の手術を受けた後でのことだった。
デスペラードとは自暴自棄という意味の英語「desperate」から派生した言葉でその語感からスペイン語のように思われがちだけれど歴とした英語である。同名のイーグルズの歌が有名だが古い時代のアメリカ西部の無法者を指す言葉なのだという。日本では大概、「ならず者」といったふうに訳される。
朝子さんの亡くなったボーイフレンドはかつて東京の下町で「アウトローズ」という名前のバーを営んでいた。彼は夜明けの街角でやくざ者の喧嘩の仲裁に入り、ガードレールに頭を打ちつけられ、命を落とした。
恋人を亡くし、自身も癌を患い、沖縄へと渡って新しい生活を始める時、朝子さんはおそらく「アウトローズ」というバーの名前にインスパイアされて「デスペラード」という店名を選んだのではないかと私は思う。そしてきっと、外語大を出て英語も堪能である朝子さんの頭の中では「デスペラード」の元となっている単語「desperate」の持つ「絶望」の意味合いもそこに込められていたはずだ。
昨秋の初め、朝子さんの癌は再発した。
 
私は五年前、三十年間勤めた広告代理店をリタイアした。
勤務先が満五十歳以上の社員を対象に早期退職制度の導入を発表した時、私はどこか冷笑的な気持ちでその報せを受け止めた。定年まで勤め上げるよりも若干、退職金を割増しで支払うというその制度は、バブル期に大量採用した社員たちを整理するための方策だった。
少しばかりの上乗せ金があったところでたかが知れている。生涯報酬としては定年まで勤めた方が高い金額を手にすることが出来るのは自明だった。年金も定年まで勤め上げなければ満額支給はされない。
会社からのそのオファーを受ける社員はほとんどいないだろうというのが社内の大方の見方だった。
終身雇用を信じて入った会社に三十年後、いきなりリストラされても困るというのが多くの社員たちの率直な反応だった。
しかし、何週間か熟考した後で私はその制度への応募を決めた。
代理店で営業職として働いた三十年の間、私は部下や同僚であっても取引先であっても仕事の上で不利益を生むと判断した人間を容赦なく切り捨てて生きて来た。私のことを殺したいほどに憎み、恨んでいる人がおそらくこの世の中に何人かはいるだろうという自覚が私にはある。そのことについて私は悔やんでいない。食うか食われるか、勝つか負けるか、そういう容赦のない世界で私は仕事をし、生きて来た。自分の行く先を阻む誰かを蹴落とさなければ、自分が足を踏み外す以外ないシヴィアな現実の中で私は働いて、飯を食って来た。
自分の手は汚れていると私は思う。手だけではない。全身が穢れに満ちていると感じられることがある。そんなふうにして生きて来ざるを得なかった自らを不甲斐なくも思う。
ゲイである私はずっと一人で生きて来た。恋愛はいくつか経験したけれど、この先もおそらく自分は一生一人の人生だろうといつか悟った。私には親兄弟も既にない。いつでも死ねる気楽さがあった。出来る限り何も残さずに自分の生を終わらせたい、すっぱりとこの世から消え去ってしまいたいと私は折々に考える。
 
私が会社を辞めた翌年、朝子さんは三度目の抗癌治療で疲弊し、私に「デスペラード」を預かってくれないかと言って来た。自分はいつかきっと戻ってくる。その日まで愛着のある店舗を他人の手には渡したくないのだと朝子さんは言った。
私はその申し出を受けた。リタイア生活に入ったとは言っても私が早期退職で受け取った割増し退職金は早晩尽きる。第二の人生の柱となる何かを早めに見つけ出す必要があった。昔から沖縄の温暖な風土やのんびりとした空気に惹かれた。若い頃から料理や酒が好きで仕事のない週末は友人たちを自宅に誘い、手料理をあれこれと振る舞った。足繁く通ったさまざまな飲食店のシェフやスタッフが好奇心旺盛な私を面白がってレシピや秘訣をいろいろと伝授してくれた。私が退職する際、店をオープンしたら遊びに行くよと知人たちがなぜか口々に言った。けれど私の頭の中にはその時、飲食の世界へと踏み出す考えはまったくなかった。
森本薫の戯曲の中の「人の一生というものは思いもかけない方向に動いて行くように見えて、そこに案外自然な道があるものです」という科白が頭に浮かぶ。
「デスペラード」をスペインバルとしてそのままのかたちで引き継ぐのが難しければ、軽食も出すバーのようなかたちでどうだろうかと朝子さんは私に言った。
そうして店を預かることが朝子さんの力になるのであればという思いも私の背中を押した。人々を踏みにじって生きて来た自分自身の贖罪を命が尽きてしまう前に果たさなければならないという気持ちが心のどこかにひっそりとずっとあった。
 
毎朝八時に私は大きな北欧製のショッピングカートを引いて牧志の公設市場へと向かう。
「デスペラード」はあくまでバーであり料理を専門に供する店ではないので酒以外の食材は業者と契約せず私自身が市場を回って買い求めることにしている。毎日、市場に足を運ぶのは私の楽しみでもある。
市場を一巡し、馴染みの商店のスタッフと会話を交わし、予算と相談しながら目についた食材を吟味して購入する。定番メニュー用の材料の他、なるべく旬のもの、季節を感じさせる食材を仕入れようと意識している。常連の客たちの顔を思い浮かべ、喜んで貰えるような素材があればそれも特別に買い込む。仕入れ値に基づき、料理の価格の設定や週の予想売り上げを考えながら買い出しを済ませる。
店に戻り、食材を整理して冷蔵庫や冷凍庫へと仕訳して仕舞い、店内の掃除を始める。椅子をテーブルの上に上げ、掃除機をかけ、床をモップで拭く。トイレも掃除し、便器の隅まで磨き上げる。洗面台や鏡も忘れずに磨く。
一連の作業が終わると、キッチンに置いた小さなスツールに腰かけ、ゆっくりと加熱式煙草を吸う。
水仕事の飛沫を吸っては乾く繰り返しで分厚く膨らんだノートに食材の在庫を書き出し、本日のお薦め料理のアイディアを書き留める。下拵えを済ませ、開店前になったら、確定メニューを黒板にチョークで清書することにしている。
それから銀行へと出かけ、前日の売り上げを入金し、お釣り用の小銭や紙幣を用意する。
 
番号札を手に銀行のロビーの椅子に座っていると「マスター」と声をかけられる。
桜坂の女装ミックスバー「ニューオーダー」のママだった。ほぼ素っぴんに近い今朝のママは長い茶色の髪を引っつめにして、薄い水色のつなぎの作業服を着ている。足下からはごつい安全靴が覗いている。
ママと私は挨拶を交わし、短い時間に互いの店と街の情報を交換し合う。
ママは昼間、父親から引き継いだビル清掃会社のオーナー兼清掃スタッフとして働いている。
性別適合手術やホルモン投与を受けていないママはその長身も相俟って、メイクをしていない今の姿の方が世の中に馴染んで見える。
体を変えて人生を狂わせてしまった人たちをたくさん見て来たのだとママは以前、話してくれたことがある。体を変える選択を否定するつもりは毛頭ない。その選択が必要だと考える人ならばむしろ応援する。しかし自分にはそれはきっと向いていないとママは言う。
角張った顎の線や広い肩幅、ヒールを履くと百八十センチを超える体躯のママは毎晩、入念なメイクを施し、ロングドレスに身を包んで店に立つ。
完璧な女性じゃなくていいんですとママは言っていた。女性の体と心を持って生まれてきたって完璧な女性なんていない。私は私なりの女性でいいんです。
ほぼ男言葉を貫き、しなを作ることもあまりしないママだけれどとてもやり手で、質のいい客や幅広い街の人脈を掌握している。
ママの人柄の潔さや言動の端々に伺える人としての矜恃が皆の信頼を勝ち得ている所以なのではないかと私は考える。
コロナによる自粛営業中に自治体から交付された補助金を漫然と受け取るだけではなく、店や設備の改修をしたり、保存の利く酒類や什器などを仕入れてストックしておくなど、経費をコンスタントに計上し、翌年の青色申告に備えるという知恵を私に授けてくれたのもママだった。
私と同じように一人営業で日々の売り上げがそれほど多くない飲食店の中に、給付補助金によって例年に比べ、むしろ収入が増えたというところがちらほらあったけれど、喜んでいたのも束の間、年が明けると続々と届く住民税や国保、そして所得税の請求額の上昇にショックを受ける店主が何人も出ることになった。ママのアドバイスのお陰で経費を予め積み上げておいた私は助かった。
夜の街で生きるようになってから私は、会社員をしていた頃よりも自分は周りの人たちと助け合い支え合い、生かされていると感じることが多くなった。
仕入れの情報や経営のヒント、行政や警察への対応、店や人の評判などのさまざまを街の店主やスタッフたちは折に触れ交換し合い、コロナや不況の中、なんとか踏ん張って生きている。
私は出来る限り、自分の店の営業終わりに元気が残っていれば、もっと遅くまでオープンしている近隣の店を訪れるようにしている。知り合いのママやマスターの誕生日や店の周年には花を贈り、店を訪れてシャンパンを開ける。そんなやり取りを面倒に感じることもあるけれど、そうやって折々に他店にお金を落とすのは重要なことだと考えているし、他の店のスタッフや常連客たちとの交流の中で大切な何かに気づくこともあれば、得がたい情報に出会うこともある。互いの店を助け合い、訪ね合う中で回って行く経済や人の流れが夜の街には確かにある。
 
桜坂に宵が訪れると私は店の前の照明のスイッチを入れ、看板に明かりを灯す。
今夜のお通しは枝豆のペペロンチーノだ。
東京の会社員時代、よく通っていた神楽坂の小さなイタリアン・レストランの店主、木下さんから教わった一品だ。
冷凍の塩茹で枝豆を沸騰した湯に入れ、再び沸騰して来たらすぐに笊(ざる)に空ける。フライパンにオリーブオイルを多めに敷いて薄切りの大蒜と鷹の爪を弱火でじっくりと炒め、香りと辛みをオイルに移す。いい匂いがして来たら水気を切った枝豆を加え、フライパンをかき混ぜてオイルを枝豆に馴染ませる。それだけで出来上がる簡単なこの料理は、冷めても味の変化が少なく、私の店の定番のお通しのひとつとなっている。塩茹で枝豆を使うので味つけは不要だし、オイルでコーティングされた枝豆は時間が経っても普通の枝豆のように萎びたり変色したりしない。冷凍の枝豆は通年、スーパーやコンビニで手に入るので季節に左右されずに店で出せるところも気に入っている。
木下さんはミラノで写真を学び、長く写真家として働いたが、イタリアワインや料理好きが嵩じて自分で店を開くことになった。目の下の弛みが岸信介に似た彼は口が悪く、いつも客の会話に割り込み、反論し、しばしば相手を怒らせた。口に咥えたゴロワーズを燻らせながら料理をし、手酌でワインを飲んだ。勘定の時、大手企業に勤める常連客が領収書を所望すると金額を明らかに上乗せして請求し、時々、諍いを起こした。
それでも木下さんの作るカポナータや鴨のステーキは絶品で、ワインのセレクションも気が利いていたので、常連たちは文句を言いながら彼の店に通った。
その木下さんも今はもう亡い。肺癌を患って七十代の半ば過ぎに店を畳み、下落合の小さなアパートで一人死んで行った。体調を心配した客たちがメールを送るたびいつも高飛車で説教口調の文章が返ってくるため、次第に誰からも疎遠となり、遺体が発見された時には死後数週間が経過していた。内縁の妻を先に亡くして身寄りのなかった彼の遺体の処分は行政が担当した。
私は彼の最期まで一度も見舞いに行かなかった。

第2話:https://note.com/toh_yabuki/n/n53203ee768aa
第3話:https://note.com/toh_yabuki/n/nc0ce35a62827
第4話:https://note.com/toh_yabuki/n/n0d2315e235f6
第5話:https://note.com/toh_yabuki/n/n6d6a6eca76c4
第6話:https://note.com/toh_yabuki/n/n1892b69e51e9
第7話:https://note.com/toh_yabuki/n/n9311c8806f3e
第8話:https://note.com/toh_yabuki/n/nb1cbcb80d499
第9話:https://note.com/toh_yabuki/n/n35e58e3dfd84
第10話:https://note.com/toh_yabuki/n/nbd07694a0065
第11話:https://note.com/toh_yabuki/n/n627a24bb247f
最終話:https://note.com/toh_yabuki/n/nfdc6bf3dd87e


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