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レシピ小説「デスペラード」第7話【九条葱のサラダ】

第7話「九条葱のサラダ」

那覇の桜坂には桜の木はない。
戦後、通り沿いに六十本ほどの桜が植樹され、この地に桜坂という名前が付けられたのだが当の桜はあっという間に枯れてしまったそうだ。そして名前だけが残された。
桜の咲かない桜坂というところが私はなんとなく気に入っている。
あたしたちが桜さーと「アモーレ」のママが嗄れた声で言う。
そうだね、満開の桜だねと私は言う。
そうさーとママは満面の笑みを浮かべてグラスを空ける。
狂い咲き?と私が呟くとママは平手で思い切り私の肩を打つ。
私の隣りの席に座っている常連客たちが笑う。
奥のボックス席にシンジがいることにさっきから私は気づいている。どこかの店の女の子たちと舎弟らしき若い男を一人侍らせてシンジは中央に悠然と腰を下ろしている。薄暗い店内でもシンジの周りだけ光が射しているように見えるのは相変わらずだ。
シンジの連れの女の子たちは耳に障る高い笑い声が姦しい。会話はほとんどなく笑い声だけが聞こえる。もしかしたら彼らは言葉を介さずに笑い声のバリエーションだけでコミュニケーションを取る珍しい種族なのかもしれない。
私はなんとなくシンジたちの席に視線をやった。シンジの涼やかな瞳が私の視線を捉えて止まった。数秒間目が合って、それから私は視線を逸らせ、目の前のグラスを空けた。
お前ら、うるせえわとシンジが連れの女の子たちに言う声が聞こえた。一瞬、店の中がしんとした。他のお客さんに迷惑だわ、行くぞ。
そうしてシンジたちは会計を済ませ、「アモーレ」を出て行った。
出て行き際にシンジは私に軽く頭を下げた。私も頭を下げ返した。
相変わらずいい男だわーと高橋さんが溜息をつくように言う。
牧志の外れに住む高橋さんは週に三日「アモーレ」を手伝っている。カウンターの一番端で飲んでいるのが高橋さんの夫だ。おとーとみんなは呼んでいる。高橋さんが「アモーレ」に入る日は必ずおとーも店に来る。高橋さんは六十代でおとーは高橋さんよりも少し年上だ。
いつも仲がいいですねといつか高橋さんに言ったことがある。
他に誰もいないから二人で仲良くするしかないさーと高橋さんは言った。
高橋さんご夫婦には子供がない。欲しかったが出来なかった。二人は首里で長く中華屋を営んでいた。おとーが中華鍋を振るい、高橋さんが接客やレジを担当した。しかしある日、隣りの店舗からの出火で高橋さんの店は全焼した。二人はそれを期に店を閉めた。保険金と有り金を叩いて那覇にアパートを一棟買い、首里から移り住むことを決めた。アパートの一階のひと部屋で高橋さんたちが暮らし、他の部屋は賃貸に出した。二人は今、アパートの賃貸収入と年金とで生計を立てている。「アモーレ」のママが店に時々遊びに来る高橋さんの接客の腕を見込んでスカウトし、彼女は店を手伝うようになった。おとーは日々、アパートの設備の点検や玄関の掃除をしたり、趣味の釣りに出かけたりしながら、二人は寄り添うように共に暮らしている。
高橋さんご夫妻を見ていると自分にもパートナーがいたらと考えることがある。そして私はその考えをすぐに頭の中から追い払う。こんな私もこれまでの人生の中で何回か恋愛をした。好きになった相手と同棲をした経験も何度かある。しかし結局どの相手ともうまくは行かなかった。私にも相手の側にもうまく行かなかった原因はきっとある。人間には必ずエゴがある。エゴとエゴはぶつかる。一生を一人の誰かと添い遂げることはなかなか難しい。一人で寂しいと感じる時、二人で居て寂しいよりはまだましだと私は自分自身に言い聞かせる。
自分が同性に惹かれる種類の人間だと気づいた少年時代、私は一生一人で生きていかなければならないと考えた。この世の中に自分と同じような人間が存在するとは思えなかった。だから料理も裁縫も、大工仕事やテレビの配線も何でも自分一人で出来るようでなければならないと思った。そのことは今の私を少なからず助けている。
私はいつの頃からか家族や友人にも会社でも自分が同性愛者であることを隠さないようになった。那覇に移り住んでからもゲイであることを明らかにして生きている。秘密を持たずに生きる方が楽だった。
幼い日、私には自分がどう生きて行けばいいのかがわからなかった。童話にも教科書にも王子さまがお姫さまと一緒になるお話しか載ってはいなかった。王子さまが王子さまと一緒になる展開のストーリーなどひとつもなかった。教科書に出て来る偉人にも英雄にも同性愛者はいなかった。少なくともその誰かが同性愛者であったというような記述に行き当たることはなかった。
私が自分の性的指向を明らかにして生きることがまだ稚(おさな)い誰かの救いになればいいなと私は思う。誰かが自分は一人ではない、だって自分と同じあの人がいるからと思ってくれればいいなと思う。それがきっといつか私の生きた証になるような気がする。
 
「アモーレ」を出た私はぶらぶらと歩き、数分の距離にある「POP」へと向かう。
「POP」のある玉城ビルにはゲイバーが五軒ほどかたまって入っている。一階の入り口を入って階段の手前の一軒目が「POP」だ。
ドアを開けるとサトシが「いらっしゃい」と言う。
「POP」は元々、サトシの恋人のカジさんが切り盛りする店だった。カジさんはサトシよりも三十歳ほど年長で長い間、東京・渋谷の桜ヶ丘という場所で「POP」という同じ名前のゲイバーを営んでいた。渋谷駅周辺の再開発のためにカジさんの店のあった区域は立ち退きの対象となり、店を閉めたカジさんは那覇にやって来た。
カジさんは背が高く痩せぎすでグレイの髪を短めに整え、いつもギンガムチェックのエプロン姿でカウンターの向こうに立っていた。口は悪いが優しい人だった。カジさんの毒舌は彼の人としての美意識や潔癖さの表れだと私は感じていた。それは人を傷つけようとして吐く種類のものではなかった。
カジさんが歯切れのよい江戸弁で話してくれる古き昭和のゲイ・シーンのエピソードの数々が私は好きだった。毎晩、仕事終わりに駒沢公園や権田原のハッテン場へタクシーで乗りつけて徘徊した話。お店の従業員と四人で雑魚寝暮らしをしていた池尻の安アパートで起こったさまざまな椿事。
おもろ町のデイケア・サービスで介護士として働いていたサトシは老け専で、東京から来た洒脱なカジさんに惚れて毎日店に通うようになり、いつの頃からか二人はつき合い始めた。
二年前の春、カジさんは心不全でぽっくり亡くなった。LINEの返信がないのを心配したサトシがカジさんのアパートに行き、バスタブに浸かったまま気持ちよさそうな表情で既にこと切れているカジさんを発見した。
店の常連たちに助けられ、サトシはカジさんの葬儀や後始末を済ませ、「POP」を引き継いで営業するようになった。
カジさんの思い出の詰まったこの店を手放したくないとサトシは言った。カジさんの選んだグラスやコースター、壁のポスターやトイレに置かれた古い雑誌、そんなひとつひとつに囲まれて生きて行きたいのだと言いながらサトシは今でも時々泣く。
店を継いでしばらく経ったある日、私はサトシから料理を教えてほしいと頼まれた。正確にはサトシは、カジさんの出していたお通しの作り方を教えてほしいと言った。
流石に私にもカジさんの煮物やカレーの絶妙な味加減を再現することは出来ない。カジさんから作り方を教わった簡単な何品かのレシピをサトシに伝授した。
南高梅の梅干しの種を抜き、包丁で叩く。味醂と醤油を少しずつ足して味を調えながら丁寧に叩く。仕上げに刻んだ万能葱を加える。この梅叩きをカジさんは冷や奴に載せたり、素麺に載せて出したりしていた。
九条葱の出る季節にはカジさんはよくサラダを作ってくれた。九条葱を斜めに薄く切る。胡瓜を千六本に刻む。葱と胡瓜を併せ、顆粒の鶏ガラスープの素と胡椒で味つけをし、上から軽く太白胡麻油を回しかける。釜揚げしらすやほぐしたカニカマをトッピングすることもあった。
胡瓜は案外、苦手な人が多い。カジさんは常連客のそういった好みもよく把握しており、胡瓜を使ったお通しを作る時には他にもう一品、必ず別の何かを用意していた。カジさん自身は胡瓜が好きだった。青臭いところがいいのよ、夏の匂いが好きなのよと言っていた。
胡瓜を薄切りにし、焼いて細く切った油揚げと混ぜ、オイスターソースとマヨネーズで味つけをしたサラダも時々、出てきた。
そんなカジさんのお通しのいくつかを私は自分の店でも時々再現して作ることがある。シンプルで簡単だけれどどこかひと味珍しい。カジさんらしい料理だなと彼の飄々とした人柄や切れのいい口舌を私は懐かしく思い出す。

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