レシピ小説「デスペラード」第12話(最終話)
最終話「デスペラード」
めでたいことじゃないですかと「ニューオーダー」のママは言った。
いやいやと私は返した。
いいと思いますよー。
いやいやいや、二十歳以上も歳が違うんだよ。
歳なんて関係ないですよ。こーちゃん、最近なんかちょっと明るくなった。落ち着いた。
そうかな。
うん、私にはそう見えますとママはすっぱりと言い切る。
まいったね。
またー、うれしいんじゃないですか、そんなこと言って。
いやいやいや。
青天の霹靂とはこのことだと私は感じる。しかし、ママの言う通り、胸の奥にずっと忘れかけていた脈打つような感覚が蘇っていることも否めない。しょっちゅう胸がどきどきして、気がつくといろいろなことに上の空な私がいる。いい歳をして自分は何をしているのだろうと思う。
こーちゃんはゲイだったわけかー?とトシが訊く。
そうみたいだよと私は答える。
ずっと隠してたんかー。
そうだね。
つらかったろうなー。
そうだろね。
今まで男とつき合ったこととかあんのかな。
あるらしいよ。
そかー。
うん。
ならよかったなー。
なんで?
ずっと一人でずっと隠して生きてたとしたら可哀想すぎるさー。
そうか。
うん。
そうだね。
そうさー。
こーちゃんがあんなふうに荒れていたのは口に出せない真実をひとり胸に抱え続けていたからなのかもしれない。こーちゃんはグレたり突っ張ったりして崩れ落ちそうな自我をなんとか保とうと躍起になっていたのかもしれない。こーちゃんの骨張った筋肉質の体を抱きしめるたびに何かが軋む音が聞こえるような気がする。こーちゃんを守ってあげたいと私は思う。雨の日も雪の日も晴れる日も私はいつもこーちゃんを包む厚く温かい毛布のようでありたいと願う。
こーちゃんとのつき合いがいつまで続くものなのか私にはわからない。多分誰にもそれはわからない。永遠に続くものではないということだけが私にはよくわかっている。年齢から考えても私が先に逝く日が来るだろう。もしかするとこーちゃんはシンジのように誰かに刺されて命を落とすような運命を迎えるかもしれない。私たちのどちらかが死ぬまで交際がずっと必ず続くとも限らない。互いの気持ちが行き違い、喧嘩別れをする日がすぐにやって来るような気もする。
未来はまったく見えないけれど、それでも今、自分は幸せだと私は感じる。
恋愛は交通事故みたいなもんだからとそういえばカジさんがよく言っていた。出会い頭にぶつかる事故みたいなものだから。期待しても簡単に起きるものではないし、起きてしまった時にはもう避けようがないものよ。
朝の市場を回っていると「中村」の若が買い物をしていた。私は一瞬怯んで、身を隠す場所がないかと思わず辺りを見回した。
こーちゃんが私のアパートで暮らすようになってから若の顔を見るのは今日が初めてだった。
私とこーちゃんの噂は既に街を駆け巡っている。若の耳に入っていないと考える方が不自然だろう。私たちの噂を耳にして若はきっと気分を害しているに違いない。怒っているに違いない。だからと言って私はこの街で若や和子ママや華ちゃんを一生避け続け、暮らして行くわけにもいかない。
おはようございますと私は自分から先に若に声をかけた。若は私に視線を当てると手にした買い物籠をゆっくりと地面に下ろした。殴られる前にせめて謝罪しようと反射的に思い、私は「申し訳ありません」と言って若に頭を下げた。
顔を上げると若が厳しい表情で私を見つめていた。それから若は自分の両腕を真っ直ぐに伸ばすと体の脇に寄せ、私に向かって深く腰を折ってお辞儀をした。
浩二をよろしくお願いしますと若は怒鳴るように叫んだ。そしてそのままずっと顔を上げない。永遠に思える時間が過ぎ、やっと顔を上げた若の目に溢れる涙が見えた。それに誘われてつい私も少し涙した。
ありがとうございますと私はなんとか言った。
若は足早にこちらに歩いて来て私の肩を強く掴んだ。
こーちゃんを本当によろしくお願いしますと若はもう一度、今度は低い囁くような声で私の耳元に繰り返した。
私たちはそれから抱き合ってしばらく共に泣いた。
市場の店のおじさんの一人が拍手を始めた。拍手はどんどん広がり、私たちの周りで大きくなった。
私は若の肩に顔を埋めて嗚咽を堪えた。若の肩も震えていた。
それから少ししてこーちゃんはガールズバーを辞めて「デスペラード」を手伝うようになった。注文を取ったり、酒を作ったり、私が作った料理をテーブルに運ぶのがこーちゃんの役目になった。
なんかいいねえと「アモーレ」のママがこーちゃんの作ったハイボールを飲みながら言う。
なんと返していいのかあぐねて黙っているとママは、なんかいいさーともう一度繰り返す。
こーちゃんを見ると笑っている。私もなんとなく笑顔になる。
もう最近この店、暑くて暑くてとぐっちゃんが言う。
んなわけねえだろとこーちゃんが言う。
いや、暑いわ、確かに暑いとママが笑う。
なんか面白くないさーとトシが言う。なんでみんな幸せになって俺だけ一人なのよ。
俺だって一人だよとぐっちゃんが言う。
ぐっちゃんはいいさー、辻のソープ行ってりゃいいじゃん。
お前だってなんかやたらと男とやりまくってんじゃんかよ。
人聞きの悪いこと言うなー。
ほんとのことじゃねーか。
まあまあまあと私は二人に割って入る。喧嘩を止めてとこーちゃんが低く口ずさむ。
あーあ、ほんとに面白くないわーとぐっちゃんが仏頂面になって言う。
そうして私が浮かれている間に朝子さんの病状は急速に悪くなって行ったと後から聞いた。
十二月の初めに急性肺炎を起こして緊急搬送された朝子さんは二度と病院から戻っては来なかった。
朝子さんのお母さんから私に連絡が入ったのは初七日が終わった後だった。
朝子も私もずっと昔にもう覚悟はしていましたからとお母さんはiPhoneの向こうで私に言った。それでもやっぱりつらいものですね、もう何も手がつかなくて。
お悔やみ申し上げますと私は言った。
「デスペラード」の今後については私に一任するとお母さんは言った。朝子は続けてほしいと願っていましたけれど、無理をしてまで続けて頂くことはありません、あなたにもあなたの人生があるでしょうとお母さんは言った。朝子さんとそっくりな声の柔らかな響きの奥にしっかりと通った芯のようなものが感じられた。ああこれが朝子さんを作った何かなのだと私は思った。
私は不動産屋へ行き、「デスペラード」のリースの引き継ぎについて相談した。
契約書を私名義に作り直してそのままリースを継続して貰うことはむしろ有り難いとオーナーは言ってきた。
こーちゃんの妹の華ちゃんが最近、突飛なことを言い始めた。華ちゃんは、私の精子を使ってもう一人赤ん坊を生むと言っている。こーちゃんと私にその赤ん坊を二人で育てろと言う。
よくない?生まれて来る赤ちゃんはこーちゃんとマスターの血の繋がった子供なんだし、中村の子供でもあるし、みんなで助け合って面倒を見ればいいさー、おかーもすごく張り切ってる。
中村の人たちは、生まれてくる子供の存在や私との絆によってこーちゃんが生来の脆さや不安定さを乗り越えて落ち着く将来を願っているような気がする。おそらく皆がこーちゃんにシンジのような未来が訪れることを怖れている。
もう少しゆっくりと考えましょうと私は彼らに言っている。私には自分の遺伝子をこの世に残すことへの躊躇いがある。私の抱える業や闇をその子に受け継がせるわけにはいかない。
自分の年齢的なことも考える。生まれて来る子供が成人する頃には私は七十歳を疾うに越しているだろう。あるいはもうこの世に存在しないかもしれない。新しい命を無責任にこの世に送り出すことは憚られた。
それでもこーちゃんが心からそれを望むのであれば、その気持ちに添いたいという思いは私の中にある。こーちゃんの幸せは私の幸せだ。長い間、私はそんな感情を誰かに対して抱くことなく生きてきた。ずっと一人ぼっちで私は人生を生きてきた。
クリスマスが近づいて来たが、ヨーロッパからの暖気の影響で人々はまだ半袖で街を歩いている。
若は毎日、クリスマス用に販売するローストビーフを焼き続けている。
華ちゃんの息子ははいはいをするようになった。シンジに益々似てきたからきっと将来は二枚目になるさーと和子ママは自慢げに言っている。
ぐっちゃんやトシは相変わらずだ。毎晩のようにうちの店に現れてはくだらない話で盛り上がっている。
「ニューオーダー」のママは最近、妻子ある男とつき合っているともっぱらの噂だ。お相手はママよりも背が低く頭の禿げかかった普通のおじさんだという。ママは茶色い髪を暗い色に染め変えてヒールの高い靴を履かなくなった。
「アモーレ」は年内いっぱいで店を閉めるらしい。ママのお母さんの認知症が進んでいるのだという。もうくたびれたさ−とママは煙草を燻らせながらいつもぼやいている。
杉山くんからクリスマスカードが届いた。この頃、退職後の身の振り方についていろいろと考え始めたと律儀な文字で書かれていた。
こーちゃんと私の関係は今のところまだ続いている。時々喧嘩もするけれど大抵次の日までには仲直りする。子供を作る件についての結論はまだ出ていないが、こーちゃんに面影の似た赤ん坊を見てみたいと私は少しずつ思うようになって来ている。
そして今宵も街には夜の帳が降りようとしている。
私はさっきからアイスピックで角氷を割っている。割ったらもう一度冷凍庫に入れ、氷を締めておく。
エプロンを腰下にきゅっと結んだこーちゃんが体を屈めて店前の照明と看板に灯を入れる。
周囲の店々の明かりが次第に点って行き、桜坂に夜の賑わいがやって来る。
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