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「言葉とはただの箱である。」 では 「言霊は?」

サザンオールスターズの「愛の言霊」は、J-pop史上でも名曲の一つなのは皆様もご存知だと思う。

僕の音楽の趣味は、主にJazzやHip-Hopなどのブラックミュージックが殆どで、その他はクラシックや60年代のロックが好きだ。
日本とアメリカのポップスなどは街などで聴くだけで十分という感じで、基本的に自分から進んで掘ったりはしない。僕はあまり広いジャンルを聴けるタイプではないというのが最近顕著に分かってきて、本当に胸に刺さる音楽を探すのは年々難しくなってきている。手当たり次第いい音楽を探すという行為は僕はあまり得意ではない。多くの音楽ファンもそうだと思うが、音楽は出会い方というのもやはり楽しみの一つだと思うからだ。SNSの発達などにより、出会い系サイトが勢いを強める現代の恋愛では出会い方はかなりつまらなそうに思えるのだが、音楽の出会い方もなんとなくyoutubeで出会うみたいな感じになってきているのでなんか似たような感じである。

僕は5人兄弟の末っ子で、家は大家族である。それぞれの部屋で音楽がそれぞれ鳴っていてうちの家族の人達はそれぞれよく好き勝手にトイレの中や風呂の中などで各々の好きな曲を歌っていた。

親父はエルヴィス狂のロック好きで、母親と、爺ちゃん婆ちゃん達は演歌好き、長男は90年代のロック、長女はavex系、次男は、Hip-Hopやレゲエ、三男は、ミスチルや洋楽のポップスという具合だ、私は小学2年生の頃には家族全員の音楽の趣味を全てを吸収した。そしてそれぞれのジャンルの素晴らしさを本当によく理解し、全てが一番に思えてならかった。そして面白いのは、大人になった今(まだ20代)では、そんな吸収力は無いことで、恐ろしいほど好みが出来上がってしまい、その好みというクソどうでもいい知識が私の想像力や吸収力を奪っていったに違いないと思う。大人としての音楽の向き合い方とかいう言葉は雑誌などでジャズ好きの叔父様方のセリフであったりするが、その姿勢で音楽を聴く心地良さは一体どの程度のものなのか僕は甚だ疑問に思うことがある。

小学生の僕は知識や経験ではなく、とてつもない好奇心や感性で音楽を丸ごと楽しんでいたので洋楽で歌詞がわからないものでも、これはこういう恋愛の心理描写だと、歌っている人の感情の揺れを細かく想像し、不思議なのは大人になってから知ったあの洋楽の歌詞はあの時聴いていたあの感情にピッタリ当てはまるのであるから、やはり子供の吸収力は最強であると経験を踏まえて言わせもらいたいのである。大人の聞き方というものは一体何なのか、僕は今後知れるだろうか。

この間観たAmazonプライムの「岡本太郎」のドキュメンタリーはとても面白かった。メインスポンサーが「PARCO」で、さすがのクオリテイーであった。
そのドキュメンタリーの後半で、岡本太郎が東洋美術と西洋美術について論じているシーンが面白く、その際のひと言に「西洋美術を学ぶ際に知識や経験などを論ずることが多いが、私は美術的センスは知識や経験では鍛えられない故に年齢は関係ない。」とかそんなことを話していた。確かに岡本太郎の作品のエネルギーは感覚にストレートに響くから素晴らしい。知識というものはちゃちなものだと思う瞬間がやはりある、でも岡本太郎の作品はあらゆる美術評論に裏付けされた哲学的なところも垣間見えるのでやはり偉大だ。そういえば岡本太郎は先ほどの言葉の全く逆のことも述べていたのを今思い出した。確か「アーティストは評論が出来なきゃ駄目だ。」なんてことも言ってもいた。あー面白い。

このアーティストのたまにある矛盾した言動について僕は大賛成派なのである。ジャズでいえばマイルス・デイヴィスなども同じような態度で、自伝を読んだ時は衝撃的であった。一生の人生で何回生まれ変わってるんだこの人は。でも常にマイルスだから偉大だ。この天才達のアンヴィヴァレンスや矛盾はそのまま作品に落とされていてそれが途轍もない深みを持つことってすごく多いと思う。人としての深い到達点に行くのに矛盾は避けられないと私は思うことがある。人は基本的に矛盾に耐えられない存在だ。そして面白いのは、天才達だって私生活を見ると矛盾に耐えられてないのがよく分かる。でもここまで深みが違うのは、しっかり矛盾していながらも矛盾そのものも含めて丸ごと人生を味わっているようなところが偉大な人達には多いと思う。
それに比べて昨今のTwitterの一方通行的な正義感と比較してやはり人の感情面に関していえば劣化しているようにしか思えない。(決してそうでない人でTwitterを利用してる人がいるのは承知している)コンセプチュアルアートが流行るのは真面目で正義感の強い人達が増えたからだと思う。基本的にコンセプトの結果を人は早く知りたがるがそれは突発的な楽しみで、その楽しみに持続可能性はない(サスティナブルって言葉にしてしまったらもうなんか損した気持ちになる)、そんなことばかりしていては人間の感情は萎えるに決まっている。
正義感や真面目もしっかり考えれば絶対に大いなる矛盾に衝突するはずで、哲学書とかを読む羽目になると思うのが僕の常識なのだが、人によっては自分の常識を押し付けるなとかなんとか言うのかな。それに反して、「申し訳ない」と謙虚に折れるイケメンも増えているに違いない。

言葉は箱だ。これは古代から常識であり、だから哲学という学問が存在する。何も入ってないから自分で言葉の中身を詰めていくしかないのである。例えば、「愛」とは? これについて自分なりの答えを作りそれに一生を費やせる。どんなクズも悪人も人殺しも人妻も聖母もギャルも哲人も芸術家も学者もこの世の人間達はこの言葉に翻弄されるしかないのである。ただの箱が故にである。人の言葉に翻弄される人間は大抵、自分で中身を詰めようとしない人間だ。だから無数の中身を見て翻弄される。中身なんて人によって全然違うに決まっているからだ。だから正義とかお前はクズだとか、たった140文字以内で述べられては困るのである。殆ど全てに理解し難い意味が隠されているのであるから。

サザンオールスターズの「愛の言霊」は今年の夏も「愛という箱」を揺らし踊らせるファンキーチューンであることは、僕が小学生の頃から未だに変わりはない。「言葉」じゃなくて「言霊」って何だろう…。ガキながらにそう思ったのを思い出す。

もうこれは日本が誇る哲学アニメ「攻殻機動隊」のような話をしているのかもしれない。

「愛の言霊はあるかもしれない、私のゴーストがそう囁いている。」なんてさ。

エッセイスト 秋野 藤吾



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