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怪異を訪ねる【緑風荘】その七 完結編

 朝六時半。深夜に眠りに就いたが、目覚めは早かった。睡眠時間は四時間ほどになってしまったが、思いの外、目覚めは良くスッキリした感覚だ。そもそも、私は自宅以外の寝場所では寝付きが悪い。これまでの経験上、ビジネスホテルや旅館に泊まり、どれだけ楽しいその日を過ごして疲れ果てていても、何故か熟睡できずに朝まで薄っすらと記憶があるのだ。だからこそ、内容がわからない変な夢を見てしまうことも多い。夢を見るときは眠りが浅いレム睡眠のときだと言われるが、旅先ではだいたいそのような寝苦しさを感じている。

寝起きに撮影したベッド
早朝の室内

 ベッドから起き上がり、用を足して顔を洗う。鏡を見ても、映っているのはいつもの寝ぼけた様子の自分だけであった。変化はなく清々しい朝だ。ホッとして座敷に腰を下ろしてお茶を啜る。まだ時間が早いからか、部屋も廊下も静かに感じられた。亀麿様の気配を感じることもない。私は朝食なしの夕食付きの宿泊プランで予約したので、まったりと部屋で持参したパンを食べながら、残り少なくなってきた緑風荘での貴重な時間を過ごすことにした。朝の槐の間はどうなっているのだろう。気になった私は、七時になって槐の間の様子を見に行った。

朝七時の槐の間

 近くの朝食会場から宿泊客の賑やかな話し声が聞こえる。そのためなのか、槐の間には誰も居ない。穏やかな空気が流れていた。写真と動画の撮影を試みる。しかし、何かを感じることもなく、オーブが写ることもなかった。もう変化はなさそうに思えた。

 チェックアウトは九時半。それまでまだ時間がある。地元の人たちにとってはいつもと変わらない朝であっても、遠方から遥々やって来た私にとっては、地域の朝の気温や初々しい自然が放つ香りを感じたいものである。散歩に出掛けてみよう。そう思い立ち、フロントに一旦、鍵を預けに行った。

「おはようございます」

 元気な挨拶を交わしてくれたのは、フロントで作業中だった当主・五日市さん。館内にはお土産コーナーがあり、実は、昨晩に夕食を終えた後、私は旅の記念に一足早く、お土産を数点購入しており、その時にもフロントのレジでお会計をして頂いた。外に散歩に行くので、鍵を一旦、預かってもらい、下駄箱で靴を履き替えて外に出た。

 マスクを外して深呼吸を意識しながら、ゆっくりと土地を踏みしめる。マスク越しには感じられなかった土地の匂いが、こんなにも美味しいのかと実感した。土地勘がなくあまり遠くに行っても危険なので、旅館のホームページに記載された、旅館の玄関から数分離れた小高い丘にある金田一温泉薬師神社へ向かった。神社の由来を以下にホームページから引用する。

”開湯されて間もない頃、毎日湯治に通ってくる類まれな容姿端麗な気高い女性がおりました。
雨の日も風の日も同じ時刻に現れたので村の人は一体その女性はどこから現れてどこに帰るのか、その正体を探しましたが分かりませんでした。

しかし、ある夜、湯元の主人の枕元にその女性が現れて
「しばらく湯治に通ったが私はこの世のものではない。直ちに社を建てて湯の神として祀ってくれ」と言いました。
このお告げにより裏の小山に社を建て、薬師如来を祀ったのが金田一温泉薬師神社のいわれです。”

 実際に登って参拝すると、座敷わらしだけでなく、この地域には他にも不思議な伝承が根付いているということが身に沁みた。丘の上から見下ろす自然豊かな早朝の景色は格別であり、しばらく耽っていた。

祠へ続く道
階段を登った先にある薬師神社
丘から望む景色。手前の柵が緑風荘

 三十分ほど散歩を楽しんだ後、宿に戻り、槐の間へ行ってみた。床の間の障子を開けた向かい側の空間には、宿泊客が自由にメッセージを残せるノートがある。旅の記録として、宿への感謝と体験談について、私も一筆、書かせて頂いた。そして、亀麿神社へ向かう。

 朝の亀麿神社は境内が澄み渡っており、遥かに望む町の景色も活力が湧き立っていた。宿を離れる前の最後に、僅か二日間であったが、こうして貴重な体験ができたことへの感謝を伝えて手を合わせた。

早朝の亀麿神社

 そして部屋へ戻る。何となくだが、もう不思議なことは起こらないだろうと思った。自分の中での検証のピークは過ぎたという感覚がしたので、部屋で寛ぎ、荷物を纏めて旅を回想してみた。
 部屋に向かって亀麿様にお世話になった挨拶をする。ふと思えば、亀麿様が出やすいと言い伝えられている槐の間よりも、私が泊まった部屋の方が、これまで記したような不思議な体験に多く遭遇できた。あくまでこれは「私の場合」であり、他の宿泊客は定評通り槐の間で怪異に遭遇した人もいるだろう。

 九時を過ぎた。宿から少し離れたバスの停留所からは、二戸駅前へのバスが運行している。九時半には停留所へ着かなければその後の予定が間に合わない為、そろそろ部屋を出る。お世話になった不思議な空間を可能な限り整理整頓して、せめてもの、僅かな感謝を従業員の皆様に態度で伝える。そして最後にもう一度、気配はないが亀麿様への感謝を呟き、名残惜しいが部屋を後にした。
 フロントに向かう前に、最後に槐の間を見に行き、ここでも感謝を伝えた。次にこの空間に足を踏み入れることは、いつになるのだろう。二度とないかもしれないと思い、じっくりと肌で空気を感じ取った。

槐の間の右側。置き物や宿泊客から贈られた絵が飾られている

 フロントに着くと、五日市さんの姿があり、お元気な表情で再びご挨拶をしてくださった。とうとう部屋の鍵を返す。最後にお別れの挨拶をしてお会計を済ませた。実は、前日のチェックインの際に、御朱印帳を預けており、チェックアウトの際に返していただけるシステムなので、有難く達筆で書かれた素敵な御朱印を戴けた。旅館で御朱印帳を預けるとはどういう意味があるのかと疑問に思われた方もいるかもしれない。しかし、思い出して頂きたい。緑風荘には亀麿神社がある。その他の神社と同様に、こちらにも御朱印はある。ご興味のある方は是非、チェックインの際に忘れず御朱印帳を預けると、一筆書いて、翌朝に戴くことができる。ちなみに私はこの日が御朱印蒐集のデビュー日であった。

御朱印帳という文字も書いて頂いた。用意したのは亀柄の御朱印帳
「座敷わらし」と書かれている

 記念すべき最初の御朱印を緑風荘で戴けて、幸先の良いスタートを切ることができた。
 最後に、槐の間に一晩、お供えしていた私が描いた座敷わらしの絵を、お邪魔でなければ貰ってくださいと五日市さんにお願いすると、決して上手くないであろう絵にも関わらず、嫌な顔一つせず、引き取ってくださった。完全に私の自己満足だ。破棄して頂いても構わない。そんな気持ちで、改めて感謝を伝えて、フロントを後にした。

朝陽を浴びた玄関

 靴を履き替えて玄関を出る。扉に向き直って、しばらく立ち止まる。昨日の夕方に到着した時には感じられなかった朝の陽気を背負い、再び、敷地の入り口まで伸びた石畳をゆっくりと進んで行く。
 外に出ると、神社も併設されていることも考慮して、お世話になった建物に向かって一礼してみた。

「次に来ることはもうないかもしれない。あったとしても、かなり先になるはず。人生、何があるかわかりませんが、どうにか出世して帰ってきます」

 そんなことを考えて、また新しい怪異を訪ねる旅が始まった。

                    終わり

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