【コラム】第七回 死因と幽霊
幽霊は人の命を取るのだろうか。「呪い殺された」との体験談は稀に耳にすることがあるが、当事者がこの世を去っているため、多くの場合は家族や友人、知人の想像で話が進むので、推測の域を出ない。しかしながら、祟られている兆候を感じさせるような相談を受けたり、本人のメモが残っていた場合は、死因のきっかけとしてその可能性は高まる。それゆえに、残された周囲の人たちは「ひょっとして・・・わあ、怖い!」と感じる。
今回は、人間の生き死にと、この世ならざるモノとの関連性について考えてみたい。
今更ではあるが、日本における古い怪異報告は、真偽は問わず古典を遡ればいくつも確認できる。例えば、『今昔物語集』である。なかでも巻の二七は怪異譚の記述で溢れており興味深い。そのうちの一話を取り上げてみよう。武石彰夫訳『今昔物語集 本朝世俗篇(下)全現代語訳』(二〇一六 講談社学術文庫)より、「冷泉院の東洞院の僧都殿の霊の語、第四」を要約して引用する。
”かつて、冷泉院小路の南に、僧都殿という大きな屋敷があった。しかし、不気味な様子で、そこに住む者は誰もいなかった。
敷地の隅には背の高い大きな榎の木が聳えており、夕暮れ時になると、その木に向かって赤い単衣が飛来して梢に登ってゆき、人々はその光景を見て怖がった。
そこで、地元で警護にあたっていた腕自慢のある男が、単衣を射落としてみようと企んだ。物陰に隠れて夕暮れ時を待っていると、いつものように赤い単衣が飛んできた。狙いを定めて矢を放つと、見事に単衣の真ん中に刺さった。ところが、単衣は相変わらず梢に向かって飛んでゆき消えていった。命中した地面を確認すると、そこには夥しい血が流れていた。
男は一連の出来事を仲間に話した。恐ろしさのあまり、皆は震え上がったが、その夜、寝込んだ男は死んでしまった。
勇ましいところを見せようとして死んでしまったものだと仲間たちは語り伝えた。”
以上が大まかな話の流れである。この話では、体験者が死亡している。このように、怪談には当事者が怪異に巻き込まれた結果、命を落とす話が存在する。しかし、現代では、その割合は少ないように思うが、実際のところ、どうだろうか。
数多の怪談師の話や、私が聞かせていただいた話の傾向を分析すると、怪異に遭遇してから恐怖の絶頂を迎えたところで気絶した、というパターンが多い。気がついたら怪異は去っていたという「オチ」の話である。現代に現れる霊は、せいぜい気絶をさせるぐらいの攻撃しか加えてこないということだろうか。
そこで、巷に溢れる事件、事故を想像していただきたい。例えば、どこかで交通事故があったとする。運転手は死亡しており、証言を取ることはできない。そのような状況であれば、まずは運転手が基礎疾患を抱えていなかったかなどの捜査をするだろう。何もなければ、単純にアクセルとブレーキを踏み間違えた、不注意によるもの、といった原因で片付けられそうである。私はここに幽霊による影響を考慮したい。
当然だが、原因不明の事故をすべて怪異による事故と決めつけることは暴論だ。割合としても少ないのではないか。しかし、運転手が事故を起こす前に、何らかの怪異に巻き込まれていたら?そう考えると、世に出ていない怪談がそれなりの数は存在すると思ってしまう。怪談の聴きすぎと言われればそれまでだ。ただし、事故が起こる直前に、不審な人影が車の中に見えたとか、バイクの後ろに別の誰かが乗っていたなどの話は怪談にはよくあるパターンだろう。そんな報告がテレビのニュースで流れることはまずない。いつどこで誰がどんな事故を起こしたか、その事実さえ伝われば、報道ベースではそれで良い。
もう少し、この思考を広げてみよう。ショック死についても言及する。突然死などにも同じことが言えるが、亡くなった人はその直前に何を見たのか、感じたのか。体調の急変と言われればそれまでだが、この世で起きているショック死などは、故人の記憶を追体験できないことから原因の解明は不可能だ。
"夜になると、いつも通りに夫は寝床に就いたが、朝を迎えるとなかなか起床しない。不審に思った妻が様子を見に行くと、夫の息は途絶えていた。"
この場合、故人の年齢や基礎疾患の有無、老衰、などが真っ先に考慮されるが、生前に良からぬ怪異に悩まされていたなどの前触れがあれば、以前にコラムで書いた「夢での怪異」(【コラム】第三回 夢での怪異について)を検討すべき事例ともいえる。
怪異に遭遇したが、気がついたら朝を迎えていた、数時間経っていた、などの話は、体験者が生きているからこそ報告されるものだ。「近頃の幽霊は、命までは取らなくなった」と思っていても、そう考えると、「現代に生きる幽霊」(おかしな表現だが)も、案外、手強いのではないだろうか。
無念や怨念の強さの集積は、現代よりも、時代が古いほうが強いのだろう。現代で凄惨な事件が起きたとして、もちろん、故人や遺族は加害者に対して一定の恨みを抱く。そこに時代による差異はない。しかし、量刑の重さはさておき、社会は長い歴史を経て、犯罪者を裁き、罰するというシステムを勝ち取り構築した。現代では仇討ちは法的に認められていないが、気持ちのうえでは仕返しをしてやりたいと思うのは当然だろう。かつては無法地帯であり、人間が刀を振り回す時代もあった。
しかし、それでは埒が明かない。だから故人や遺族に代わって、司法が裁きを下す。それが社会秩序を保つと同時に、わずかではあるが故人や遺族の無念を晴らすことにも繋がるからだ。このシステムが確立して以降の時代とその前とでは、「自分の受けた仕打ちを誰かに知らせたい」、「加害者に仕返しをしたい」との念は、やはり度合いとしては異なるのではないだろうか。
あくまで、幽霊が存在するという前提で話をしているわけだが、加えて、現代では供養の方法も多岐に渡っていることから、幽霊による怨念が表出しにくい時代なのかもしれない。「仕返しは司法にお任せします」「立派に供養していただいたので、とっとと成仏します」と思う幽霊もいるかもしれない。
こんな調子では、加害者に社会的制裁を加えてくれなかった殺伐とした時代を生きた幽霊たちよりは、現代を生きる幽霊は命を取るほどの気合の入ったモノではないのかもしれない。
とはいえ、現代でもあまりに凄惨な事件が起こると、後に誰かが体験した怪談の背景には「とある事件」が関係しているのではないかと考察されることがよくある。その場合は、やはり怨念や悲しみの気持ちを現代でも汲み取らずにはいられない。
上記のような、目に見えない、記録に残せない話や事件、事故があるのかもしれないことを考慮すると、決して「気絶させる程度」の幽霊だけでなく、まだまだ強い攻撃を仕掛けたり、メッセージを届けたいと思う幽霊は現代でも存在するのかもしれない。
「死人に口無し」とは、実は恐ろしい言葉だと心底思う今日この頃である。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?