人類はどこに行くのか 1
人類はどこに行くのか、どこに向かっているのだろうか。
人類の誕生から多くの文明が現れては消え、また現れ、現在地球には80億近い人が存在していると言われている。このことは人類が繁栄している事を示すのだろうか。これからも人口は増え続けることが予想されており、一体人類はどこまで増え続けるのか、そしてそれは繁栄を意味し、豊かで充実した人生を人々が送れることを意味するのだろうか。(一部に頭打ちになったり僅かに減少すると予測するものもあるが、地球上に人が溢れている現状はそれほど変わらないだろう。)
最初に前提となるいくつかを明確にしておくべきだろう。
まず関連が避けられないものに、宗教的なもの、神の存在がある。数多くの宗教団体が現在でも存在し、それぞれに信じられている神がいるようであり、この点を明確にしておきたい。
ここでは、神とは、個々の人の心の中に存在する架空のもので、実在はしないもの とする。
信者にとっては許しがたいと思われるかも知れないが、結果に対して因果関係を見い出せないものであり、神の実在を信じている人たちと議論をすることを目的とはしておらず、これを受け入れてもらえない人には、不愉快な思いをさせてしまうかもしれない。もちろん個々の人が信じていることを否定するものではなく、必ずしもその人たちの宗教的な行事や行為に対しても否定するものではない。ここでは、”人は神によって作られたものでもなく、神のために存在しているものでもない” ことを前提にしている。この前提を配慮して読んでいただきたい。
人類の進化について考えてみたい。ここでは分子生物学に至るような高度なものではなく、一般的な素養の範疇で捉えられる事で考えてみる。人類と他の生物の最も大きな違いはなんであろうか。いろいろ考えはあるだろうが、最も重要なことの一つに、高度な言語(数字・数式や記号も含め)を発達させたことにあると考えられる。その言語が記述・記録できるようになり、後まで残されることで継承がより容易となり重要性を増した。
生物は、遺伝子によって個々の生命の設計図を継承していくが、遺伝子は生きている間に取得した経験や知見などは継承できない。生物の進化は、変化した遺伝子(突然変異が主だといわれている)が、結果として環境に適したものだけを選び・生き残ることによる。多くの命が生まれても、その中で僅かに生き残るものだけが、環境への適性を持っていることになり繁栄できるが、できないものは死に絶え滅亡するだけである。
これが自然の摂理であり、数多く生まれ、ほとんど全てが絶滅し、わずかなもの・適応したものだけが生き残る。このような淘汰を経て進化をしてきた。
また遺伝子は経験によって書き換えられることはない。人間以外は新たに生まれても前の世代と変わらず、同じことを遺伝子によって繰り返していくだけに過ぎない。しかし人間は、高度に発達させた脳によって言語が使える。これによって経験をしなくても、他の人や過去から学び考えることで、遺伝子による進化のように生命を犠牲にしなくても、経験や知見を継承することができる。
これによって人類そのものが突然変異で進化をしなくても、文化文明を発展させることができた。言語による知見と経験の継承、それに基づく思考、これこそが人に与えられた他の生物に対する優位点であり、後付けで遺伝子を追加変更していることに匹敵するとも言えるだろう。本能だけに振り回される動物とは違い、論理的に考え物事を深く考察できることが、他の生物と差別化できる重要な要素である。
この知識・知見の継承や思考・考察によって、人類は多くの困難を乗り越えてきた。多くの病気も克服してきた。昨今では、コロナウイルスに対しても、免疫の仕組みを応用しワクチンによって抗体を事前に作ることで重症化を防いできた。世界中でおよそ6-7百万人の死者が出ているようだが、世界人口の0.1%以下に抑えることができている。過去のペストでは2億人以上・天然痘やスペイン風邪ではそれぞれ5,000万人前後の死者数があったと言われており、その当時の世界人口に対する比率を鑑みれば、遺伝子が持つ免疫機能だけに依存する体制しか取れていなかったら、もっと多くの死者が出て悲惨な状況であっただろう。
食料の確保に対しても、狩りをしていた時には運任せに近いものであったが、家畜の飼育や農作物を作るようになり、自然災害を乗り越え、冷害や干ばつを乗り越え、多くの品種改良を試みて、手に入れたい作物などを計画的に大量に生産できるようになった。これも経験や知見を次世代に継承することができたからで、継承できなければいつまでも同じことを繰り返して自然に振り回されていたであろう。
生活や仕事においても、個々に求められることが細分化され専門化するとともに、その高度化が求められるようになり、これもまた技術・知見の継承が可能となった人類は、相応の適応ができているように思われる。それを追い求める人間の本能は遺伝子によるものだとしても、より優位な立場・位置を得ようとする競争心によって、新たな製品が次々と生み出され提供され続けており、生活水準の向上・より豊かな生活に向かっているように思われる。
これらによって、今や地球上には人が溢れている。ここでこれほど多くの人が生存することによって生じた負の面を考えてみたい。地球規模で考える前に、あえて人口が減っている日本の現状を振り返ってみることで、いくつかの課題が見えてくる。
日本の経済力・国内総生産GDPは、世界第3位に落ち、少子高齢化が進み、正規の社員となれるものは実質半分程度に留まり、所得水準は伸びずに優秀な人材は外資に流れ、物価も低迷したままで、円の価値はどんどん落ちている。人口は少しずつ減り始めているが、その一方で平均寿命は伸びており、これが高齢化を加速させる一方、生産可能な労働人口は減少の一途をたどり、国の借金は1200兆円を超え、国民一人あたりの借金は1,000万円以上にもなっている。人は年をとれば生産活動は衰え、また子育てを終えれば必要とされる支出も減ってくるのは当然である。少子高齢化による弊害をそのままにして、過去の規模だけを求まる経済のあり方から脱却できなければ破綻するのは目に見えている。
その一方で国土が狭いこともあり、農作物などを国内でまかなう食料自給率は、減少の一途である。しかし食物が十分に自給できず輸入に依存しているのもかかわらず、放棄されている農地は年々増え、今や耕作されている農地はピーク時に比べ30%以上減少していると言われている。農業の担い手が高齢化したり後継者がいないためであるが、そもそも農業では、生活が成り立たなくなるような仕組みになっており、競争による淘汰が働かない上、既得権にしがみつく構図から抜け出せておらず、その是正も見えていない。
年金や医療保険の仕組みが、自己負担がほとんどなく他人のお金を当てにしているため、高齢者が増えれば増えるほど、若者のお金が奪われている現実を直視する必要がある。年をとれば体のどこかがおかしくなってくるのは避けられず、病気やけがなどの治療や介護などの費用を、自己負担ではなく若者に求めれば、高齢者の増加と若者の減少が掛け合わさって破綻に向かうのは当然である。医療従事者にしてみれば患者の費用負担を考慮する必要はなく、過度な治療や化学物質の薬を大量に与えることで高額のお金がもらえ、それがいいことだと言われ、自らの収入に直結すれば抜け出せないのは当たり前である。
この日本の構図は、少子高齢化とともに起きているものであるが、地球全体で見た場合、人口が増えている国や平均年齢が低い発展途上国でも、ある点では先送りされるがいずれ加速され、近い将来同様のことがあてはまることになるだろう。そのときは、膨れ上がった人口を基にして少子高齢化や制度の悪癖が出てくるため、より一層深刻な状況となるであろう。
その2に続く
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