こころの通訳者
娘は幼いころから、弟の忠実な通訳者だ。
息子はどちらかというと感覚派で、ものごとの説明や云いたいことが擬音語の連続になる。オマエは長嶋茂雄かっ、とツッコミを入れたくなるほどだ。
「あそこをさ、ばあーって行くとさ、こっちがぼわっとなるじゃん?」
「???」
「だ、か、ら、さ! ばあって行ったとこだよ。こっち側がぼわってなるじゃん!」
「いや、だから、どこで何が。」
といった具合である。
そういった、ぼわっ、ばあっ、などというものを娘が、
「坂の下のコンビニを真っ直ぐ行って、左に景色が広がるところのコト?」
などと通訳してくれちゃうのだ。
どうしてそんなコトがわかるのか。兎にも角にも、弟のイメージを共有できるのにちがいない。姉という強力な理解者に甘え、この擬音語連続ジェスチャー男はいたって強気である。まったく修正を加えようとしない。
「そうそうサスガだね、お姉ちゃん。フツー分かるでしょ? オレはそうやって、さっきから云ってるし!」
いやいやいや、云ってないから。
幼児のころから、娘の話を
「~ってコトだよね。」
「~って云いたいのかな?」
と気持ちを汲むようにして聴いてきた。
恐らくはそれが、そのまま娘の会話のスキルになっているのだと思う。息子にもおなじように接してきたハズなんですけど。
彼女の友人たちは、話を聴いてほしかったり気持ちを汲んでほしいときには、どうやら娘にアプローチしているようである。娘は人の話を評価しない。裁かない。否定しない。話している本人のこころの音に共鳴しながら聴いているだけなのだ。そして、少しからかってみたりして相手のこころをくすぐる。それがどうも、絶妙なんだろう。
こころの声の忠実な通訳者。
もちろん、みずからのこころの声にも忠実だ。
やりたいことをすぐに行動に移し、こころに共鳴しないことには決して妥協しない。彼女の人生には、やりたくもないことを成績のためだとか学歴のためだとかキャリアのためだとかに使う時間はないのである。
しっかりとした良心と勇気と共感力、そしてこころの声に裏打ちされた行動力。
それは、競争に勝つことこそ唯一の善だと云って、世界を壊してしまったぼくたちまでの世代とちがい、傷ついた地球と壊された社会を、皆が共に生きる開かれた時代へと導かねばならない、これからの若者に求められる力なのだろう。
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