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ローカル文献より「兵主坊と猿の生肝」(椎葉村の昔語り)【河童文献調査考察】

このシリーズ【河童文献調査考察】では、原文から引用し、客観的考察と個人的感想、内容に応じて話題を広げていく。
* * *
今回は宮崎県椎葉村の郷土書籍『平家の里 椎葉村の昔語り(上巻 昔ばなしの部)』より寄稿する。同著では椎葉の里山に伝わる99のお話を、口語から書き起こした上で詳しく解説している。
また、椎葉村といえば明治42年、柳田國男が「後狩詞記」を著した、民俗学の聖地である。

兵主坊ひょうずぼうと猿の生肝いきぎも

[語り手]那須英一(松尾・水越 昭和5年4月1日生)
昔あるとけぇ、一匹の猿がおったげな。その猿が川に出て、水浴びをしよったそうな。そこに兵主坊河童が出て来て、「おい、お猿どん。竜宮城はよか所ぞ。俺がその、お前を竜宮世界に連れて行くわい」ち言うた。
それでその猿は、兵主坊に誘われて、竜宮世界に行くことにした。それで兵主坊の後をつけて川を泳いで、山を下った。そして広い海ぃ出た。それから、兵主坊と海の中にすみこうで潜っていって、竜宮世界にた。
竜宮城に着くと、兵主坊は猿を門の前に立たせておいて、「ちょっと待っちょけ」ち言うて、待たせておいて、自分だけ竜宮城の中へ入って行た。それで猿は、門の辺りを見て廻った。「良か所じゃなぁ」ちて思うてキョロキョロしておったところが、その時ぃ、貝殻坊が出て来て、「お前は、どうして、ここに来たとか? 今、この竜宮城の乙姫さまが、猿の生き肝をば食わんと治らんような重い病気にかかっちょる。お前は、今日にも殺されて、生き肝をば取られるわい」。
驚いた猿は、「これは困ったことじゃ」ちて思って泣きよった。そこに兵主坊が出て来た。そして「お猿どん、どうして泣くか?」。
それで猿の言うことには、「俺の生き肝にぃ、虫が付いておったから、水浴びしておった山の、あの河原の岩の上に、虫干ししておいたとじゃが、早う戻って、生き肝を取って直さにゃ、からすとんびかが、うち食うたなりゃ、おりゃあ死ぬる。早う戻ってみらにゃあ!」ちて言うた。
驚いた兵主坊は、猿をば急がせて、もとの山の水浴びしていた河原まで戻ってみた。そして、「おい、お猿どん。どの岩に干してあるか?」。
兵主坊は、猿の見付けんうちぃ生き肝をば拾うわにゃあいかんと、一生懸命に探しよった。そしたりゃ、その兵主坊の首をば猿がつこうで、「生き肝をば、腹から出したり入れたり出来るものか。貝殻坊が言うて聞かせたが、俺をだまして海に連れて行て、俺の生き肝をば竜宮城の乙姫さまに食わそうと、連れて行たじゃろうが。この馬鹿兵主坊!」ちて言うて、力まかせに兵主坊をば、岩に投げつけた。
それまでは、兵主坊の頭は、実はくぼっては、おらんかったそうじゃ。が、怒った猿に投げられて、兵主坊の頭は岩にあたって、それからというものは、今のように窪んでしもうたちゅう、と申す。かっちり。

山中耕作ほか「30 兵主坊と猿の生肝」P138-139
『平家の里 椎葉村の昔語り(上巻 昔ばなしの部)』鉱脈社2017年

騙し合い説話の王道「猿の生き肝譚」

大変興味深いことにこの類話は世に点在する。
古代インドの「パンチャタントラ(カリラとダミナの物語)」や、日本の「注好選」、「今昔物語集(巻第五・天竺部)」、「沙石集」などに類話がみられる。
・アイヌ人、ビルマ(ミャンマー)のシャン人、中国のチベット人、ベトナム、朝鮮など東アジアに伝わる。
・ユダヤ人、ハンガリーやラトビア、プエルトリコのスペイン系住民の間にも知られているという。(※1)

猿を騙そうとするポジションが、鰐、クラゲ、カメ、ウサギ、エビ、カニなど様々な動物に替えられる。猿蟹合戦のようにチームを組む場合もある。
猿に警告(または情報漏洩)するポジションは貝、クラゲ、タコ、などで、最後には情報漏洩の罰が下る(骨が抜かれるなど)。
カメが登場する場合は、猿からの反撃またはミッション失敗の罰的な意味で甲羅が割れる顛末が多い。

ブッダとデーヴァダッタの因縁

ブッダの前生物語集である「ジャータカ」では、鰐(デーヴァダッタの前世)と猿(ブッダの前生)の物語として綴られている。
愚かで無知な鰐と、知恵があり賢い猿の話であり、今生のデーヴァダッタとブッダの関係を示唆するものである。
この「ジャータカ」を源として、漢訳仏典を通し、日本の説話集に取り入れられ並行あるいは派生していったであろうことは既に多くの研究者から指摘されている。
各説話集の中のどこに収録されたか、締めくくりで何を書き添えるかなどによって、編纂者が伝えたいメッセージは微妙に異なると考えることができるという。(※2)

動物たちの葛藤…正義とは?

日本において派生した「猿の生肝譚」は、山間陸地に生息する動物と海にすむ生物の交渉・交流を通じて、競争や戦争とは別途の、内的な闘い(葛藤)の姿を語るものでもある。(※3)
騙す側に「主人の病気を治したい」という大義がある。一方で、警告する者(過失漏洩や故意的裏切りの場合もある)の行いは猿から見ればである。知恵を使い生き延びるために猿が執行する暴力は正当性がある。
最終的には多くの者が傷つき、病気で肝を必要としていた主人はおそらく助からない。
どうすればよかったのだろうか?騙して命をとることは罪か?真実を伝えることは罰すべきことなのか?海王族の命と猿の命、どちらが大切か?
この生肝譚シリーズは、じつは壮大な倫理の授業なのである。ジャスティス。

海カッパ登場の驚き

今回の「兵主坊と猿の生肝」の話に戻る。
さすが椎葉村!今回の説話では、兵主坊(カッパ)が騙す役。ありそうでなかった、王道説話と王道妖怪の融合である。
例にもれず猿が勝利するのだが、問題はそこではない。
山奥の秘境・椎葉村に伝わる話なのに、河童が海の竜宮城の使者となっている!
椎葉村は、九州のど真ん中・険しい山中。沿岸から80㎞近く離れており、暮らしの中に海が関係することはほぼない。耳川沿いにぐねぐねと下って下って、やっと日向市に出ることができる。
そんな椎葉村で「竜宮城」と「カッパ」が結びついたのは何故だろうか。

平家落人伝説(壇ノ浦の戦い)

宮崎県椎葉村は、壇ノ浦の合戦に敗れた平家の武士たちが落ちのびた里として有名である。平清盛の末裔・鶴富姫を含む平一門がひっそりと過ごしていた。追ってきた那須大八郎宗久がうっかり情を移してしまうほどに、素朴で、美しい郷。
このような落人伝説は日本各地にあるが、主戦場では幼い命が波の下に消えた。壇ノ浦の戦いのクライマックス、安徳天皇(八歳)と神器をかかえて「海の下にも都がありますからね」と入水する二位尼(清盛の妻であり、安徳天皇の祖母)。その覚悟には恐れ入るが、現代ならばヤフコメ大炎上である。三種の神器のうち宝剣はいまも見つかっていない。なんてことしてくれる・・・。
安徳天皇の実母・建礼門院も入水したが救命され、生き延びてしまう。「平家物語」では、のちに建礼門院が明石でうとうとしているとき、安徳天皇や二位尼たちが立派な姿であらわれて、「ここは竜宮城です」と語る夢をみたのだという。権威も家族も失った彼女の胸の痛みが伝わってくる。
このエピソードがもとになって、下関の赤間神宮は竜宮城を模しているという。

海を臨む赤間神社の門

考察:竜宮城への思い

平家落人と竜宮城には、精神的に密接な関係があることがわかった。
生き延びた者にとって、亡くなった皇子らが海の都で幸せに暮らしているのを想像することが、せめてもの救いだった。
(そうでなければ、「耳なし芳一」の怪談のように怨霊となってしまうのである。)
椎葉の鶴富姫一行も、親族同門の悲痛な最期を知って平常心ではいられなかっただろう。
この経緯から、山奥の椎葉村に「竜宮城」という言葉が強く残ったのではないか。さらに落人たちによる、今昔物語集や沙石集由来の高度な教養が混じり、地元の「兵主坊」を登場させることで、ユニークで親しみやすい説話が形成されたと考察する。

※1 小島 瓔礼「日本大百科全書(ニッポニカ)」より。
※2 (参考)本田義央「説話集編纂者の説話理解 猿の生肝の説話を題材として」
※3 世界大百科事典 第2版
※参考 赤間神社HP(http://www.tiki.ne.jp/~akama-jingu/

個人的感想

本稿を執筆するのに二か月近くかかってしまった。河童が登場する説話を紹介するだけのはずが、ブッダに始まり平家物語にまで足を突っ込むことになるとは。
「竜宮城」というキーワードから、当初は「ニライカナイ」をはじめとする沖縄・奄美群島に伝わる他界異界信仰について調べた。柳田国男の「海上の道」は非常に興味深かった。
一方で、どうしてもぬぐえない違和感。椎葉なのに海?宮崎のカッパなのに海に主人がいる?(通常宮崎の河童は川と山を行き来する)
これらの点について再考し、今回の「平家落人の思い」に至った。
また、大分県中津市耶馬溪には、平家落人の怨霊が化けたとされるカッパを鎮める伝統的祭りがあり、これも大変興味深い。
九州では、球磨川へ渡来した移民ルーツのほかに、平家落人ルーツも混ざり合うのだ。とにもかくにも、身元をはっきりと明かせない彼らのことを、人として扱うことは避けつつ共存していたのだろう。

おわりに(定型文)

私、戸高石瀬(とだかせきらい)のライフワークは、全国各地の河童伝承を収集することである。既に数多の民俗学研究者によりしゃぶりつくされた「河童」という怪異。現代においては一般化されたイメージが定着した上で、忘れ去られようとしている。
これまでのローカルな活動(ZINE等)では、文字数の関係で原文を引用掲載できなかった。しかし本音では、原文を正確に蓄積し、考察し、いつでも参照できるようにしたかったのだ。
ローカルな文献をあさっていると、これら膨大な量の書籍を個人所有するには限界がある。そこでNOTE活用に至った。
今後も活動を広げていく。

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