性なる恋愛:すみなれたからだで
いつの間にか性と恋愛を分けて考える事が難しくなってきました。
性というのはもちろん性別の事でもありますし、性の行いも指しますし。
というわけで、注意です。
今回はかなりセンシティブな記事になります。
あくまでも私的見解であるという点を十分にご理解いただき、閲覧いただければと思います。
テレビなんかを見ていると「初恋はいつですか」みたいな質問が取り上げられたりするのを見かける事がありますよね。
もちろん私は著名人ではないので公の場でそのような問に回答する事はないのですが、この問いについて自問自答をした事はあります。
私の初恋はいつだったのでしょうか?
私は初恋で誰を愛したのでしょうか?
まず思い浮かぶのは保育園のころ、同い年の女の子を好きだったという記憶があります。
あまりにも遠い過去なので記憶の輪郭は朧気でありますが、大きくなったら結婚しようねとか、そんなことを恥ずかしげもなく話していたことだけは何となく覚えています。
ただ、この時の気持ちを私が今持つ恋愛という価値観で語る事ができるのかと問われると難しい。
そもそも恋愛というものを何かも知らない、何故女性と男性がペアになるべきなのかもわからない。
そもそも女性とは何なのかもわからないし、好いているあの子に女性的兆候は表れていない。
自身の性的嗜好も確認されていないので、これを恋愛的感情と言っていいものなのかはよくわかりませんね。
同じような経験は小学生の時にもありました。
ここで保育園時代と大きく変わったのは、制服や更衣室の登場により、目に見える形で私達の前に男女のイマジネーションが現れたという事です。
女の子と一緒にいること、一緒に遊ぶことを周りの男子に見られることが少し恥ずかしい。
そういう罪悪感に近いような感情が発生したのがこの時期です。
そんな時代に私は三年間続けて同じクラスだった女の子を好きになりました。
漠然と男女の違いを感じるようにはなった少年期ですが、より重要な変化は、恋愛をするには他者からの承認が必要であると感じるようになったことではないでしょうか。
私は異性に対して恋をしたわけですが、それを支えた重大なファクターはやはりあの罪悪感だったと思います。
私たちは小学校に入ると同時に男女という性で分けられて、それぞれに好ましい制服を着る事で、一目で他者から張られたレッテルが判別できるようにされました。
だからこそ私たちは誰と一緒にいるべきかを何となく誰かに決められた気になってしまい、そのラベリングへの反逆が罪悪感を産む。
逆説的な言い方ですが、その罪悪感は他者から罪を認められることによって成立すると考えると恋愛には他者からの承認が必要だったのだと思うのです。
この承認のプロセスは現在の恋愛観にも少なからず影響を与えているのではないかと思います。
もちろん、当時は恋愛と言っても交際するとかそういう種類のものではなかったです。
そもそも当時の私は制服を着せられた彼女たちのことしか知らないわけでして、その奥にある彼女らの身体的特徴等に関しては全くの無知で、もっと言えばそれらを知るすべすら持たなかったわけですから。
女性の身体の輪郭を捉えるようになったのは中学生や高校生の頃でしょう。
誰に教えられたか、もはや私たちの間には他者から着せられた制服以外の差異に気が付くようになりました。
それは身体能力の問題であったり、体型の問題であったり、とにかく身体に関わる物でした。
同時に異性間に起こる現象についてもなまじ知識が加わって、その身体の奥にある鉱脈を知りたくなるわけです。
それに対して、その鉱脈の一部に辿り着くのが私の場合大学生になってからでした。
女性と交際するという行為はより深いところに到達し、その女性を女性として裸にし、それを眺め、拝み、触れる。
そういう経験の先に恋愛の別のフェーズに向かうようになった気がします。
そういうわけで、私はそれぞれの年代で全く別種な恋愛観を持っていたわけなので、この恋愛の定義云々によって私の初恋は大きく変わる事になります。
こういう風に考えると、さらに色々な問が派生しますよね。
異性を異性とみるまでの恋愛は恋愛ではなかったのか?
異性の身体を意識する恋愛は純粋な恋といえるのだろうか?
私は人ではなく異性を愛しているのか?
身体を取り除いた恋愛は存続可能か?
すみなれたからだで
最近の私のお気に入りの作家が窪美澄さんです。
性やエロスをむき出しの文体で描くリアリズム的なスタイルが特徴的な女性作家。
以前から気になっていたのですが、そういうスタイルゆえに少し敬遠していたのですが、
そんな彼女との出会いになった作品が河出文庫から出版された短編集である「すみなれたからだで」です。
『すみなれたからだで』を含む9編が纏められた本作。
それぞれでは全く違った恋や愛、そして性の形が描かれています。
『すみなれたからだで』では満足な不満足に陥った主婦の性を、
『銀紙色のアンタレス』では性の輪郭に気付き始めた男子高校生の叶わぬ一夏の恋を、
『夜と粥』では同性愛という繊細なテーマを、
そして『バイタルサイン』『朧月夜のスーヴェニア』では不道徳な性行為を、
それぞれ全く異なった視点から性というテーマを通してその先の人々の生を細やかな筆致で描写しています。
彼女の小説の面白い点は、作品によって完全に登場人物が変わる点です。
いや、当たり前なことだと思う方は多いでしょうが。
文章というのは自分の知っていること、得た経験、見た景色以外について書くのは難しいわけでして、
どれだけ排除しようとしても、主観性というのを完全に捨て去る事はできませんし、その主観性の残り香は必ず作品について周ります。
だからこそ作家は自身の作品たちに違った魂を宿すために、それらの痕跡を描写の技術を持って隠そうとするわけですが、
窪美澄さんの作品はまるでそれぞれの作品を別の人が書いているようにすら感じるのです。
『父を山に捨てに行く』ではとある女性の視点から話しが描かれているのですが、彼女は元夫の事を「子どもの父親」という風に呼称しています。
こういう視点は普通の男ではまず持ちえない着眼点ですよね。
対して『銀紙色のアンタレス』では幼馴染との身体的な差異に気付く年代を男性視点から描写しているのです。
朝日よりずいぶんでかくなってしまった自分の体のことが少し怖いような気もしていた。
そういう意味では、この作品は出来る限り多彩な角度から性と生を捉えた作品のように見受けられます。
登場人物一人ひとりの性を媒介した生きるという行為。
もちろん、性を描かない恋愛を書く事は不可能ではないでしょう。
しかし、それを知ったしまった人間の描く性が不在の恋愛からはあまりにも不自然な香りがすると思うのです。
まるで煙草の匂いを消すためにふりすぎた香水のような香りが。
窪美澄さんはあえてその煙草臭を敢えてむき出しにした作家なのではないかと思います。
自己の主観性をテーマとして扱う事で絶妙なバランスで保たれた文体。
性とは時に他者に対して暴力的で、時には自己に対して刃を向け、しかし甘美で、青春の酸味と大人の苦みも内包して、
だからこそ、性を通る時の感じ方はその日その日できっと違う。
通った先にある恋や愛や生の終点もきっと違う。
だからこそ性は至高のドキュメンタルであり、同時に最大のエンターテイメント足り得るのです。
もう私は当分は恋や愛どころか人生から性を切り離し得ないのでしょう。
ですが、それはそれでいいじゃないかとも思えてしまう。
私がこれからする恋が純粋な恋かなんてわからないし、身体を介在しない恋が可能かなんて知る由もない。
でも、きっと私は恋の対象が何を眺め、どんなベクトルから性に向かうのか、それを知り受け入れたいと思う。
彼女と私は性を媒介した時に、そのテーマのどの終着点で落ち合えるのか、それだけ分かれば後の問題はどうでもいい気すらするのです。
私は性を知ってしまったのだから、もはや隠す方が不自然なのです。
それではまた今度・・・。
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