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探究ノート

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#探求と探究

とりとめないかもしれない話

今って、こうしてインターネットを通じて記録された言葉や画や音などから、その人を認識したりできるわけですよね。有名無名限らず。表に何を出すか表すかによる情報の領域には差があるけど。誰かにとってのこの人の人物像とゆうのがいくつか想像されて物語が進んでゆくような感じでひとり歩きもするわけで。 インターネットサークルのなかで、同じものを見ていても自分が見えているようには感じない思わない、なんなら真逆の思考で見ている人も同時にいくつか存在することを知ったりもします。同じものを見ても喜

これからの愉しい!を心から。

今年、どれだけの 残念/無念/喪失感 を体感したことか、と。 振り返るのは早いだろか。 しかし、この年 体感し、いまだ渦巻く無念を晴らす1つの方法として、 力強い/壮大な/痛快な/風刺作品(映画やドラマ)が生まれたら好いな と考える。 志しもって集結して、 想いを込めてパッケージして多くの人と共有すること。 想像して、創造して、未来まで残せるモノに希望をもって、その可能性にも期待して、、消したがる力 とは別のエネルギーが逞しくなればいいなと思っている。 今考え

今日は2020/6/11になりました

昨昨日から賑わったのは芸能人のスキャンダルでした。書くべき残すべきかはアレなんですけども、Twitterとかダラダラ呟いてしまいそうなので。ここで。前夜から何事で自粛なのかと錯綜し、やはりそうなのかとなんてこったなんてことしてくれてんだと。この手のものは反応したりしなかったりですが、いま、この時代ですよ。どれだけ少し前に似たような話題で世間がザワザワしたことか。どれだけ人々の心に (不) が蔓延する出来事だったか。当人同士のこととは言え、世間様に知られたらまたたく間に魔ですよ

初期記録:表現は希望

幸せな表現者が増えること。 幸せな表現者による表現が増えること。 自分のなかの、他人のなかの、感情や感覚を何かしら得て知って感じて養ったりしながら、心の豊かな人々と日々、分かち合い今時代を生きる。多くの方々と、この時(時代)を共にする喜びとする。表現は希望です。結構、真面目に願っています。 でも、表現分野、芸術分野。その大きな枠組みからコレ!とも選べず、ドコ!とも関わるでも混ざるでも積むでもなく、表現に拘って、ここ数年。拘るというか、探究探求しがいがあるテーマみたいだ。拘

思いつきメモ

今日は、おやすみで映画館いこうー!って昨日からタイムスケジュール組んでいたのだけど、朝起きても覚めず食べても覚めずシャワー浴びても覚めず、、昼寝してしまいました。 再び起きて、スッキリしています(笑) 時々ですが、寝ているときの方が考えている!と思うことがあります、ありませんか?寝たからスッキリして冴えてるんだろ?と思うかもしれませんが、寝ている時に考えていたことがまとまって、いいこと思いついた!みたいに起きてから無性に文字を打ちたくなるような感じです。でも、やっぱりあん

うらまない

ひらがなだとこんなにマヌケね。 うらまない 恨まない 恨むことはそのうち淘汰されると思ってるの 恨むことってのは、自分の中で生み起こし自分の時間を潰してまでココロを占領してそのことに集中できること。恨むとゆう鬼気としたナニモノかを我が身に住まわせて時を共にすること。 時代劇や古い物語では、仇討ち!とか、まだ子供の頃から誰かを憎んで憎んで憎んで殺すようなこと考える。そのことしか考えないようなそのことが自分の人生かのような。人を憎むココロなんて最初はなかったはずなのにね。誰

希望に変えるエネルギーを考える。

この年、コロナは関係なくなんかない思う。目に見えないコロナによって人々の生活・日常は動きが止まってしまった。心も同じだ。新しい生活様式とかゆってソレに慣れるようにみんな頑張ったもんね。感染者の死があんなに無情で型にはまったような最期だなんて、志村さんのことでわかってしまった。そんな最期ってあるかよ…ってなって。コロナだけじゃなくて今年、亡くなった方の為に集まれない。そうしてそのまま時を進めることに、これっておかしくない?ってどこかで何か、捻れてゆくような、ズレてゆくような感覚

例えばなんですけど、、

今がとても虚しいとして、自分のことや言動が全くもって無意味だと思う、思い込んでしまう、 それをしたところで、何も戻らないとか喜びを分かち合えないとか、共有する対相手を想像したりとゆうところで喪失感と向き合うことになる。 でも、その言動そのものが好い行いであるなら、 身近な問題を解決したり、社会や世界といった広くて大きな環境を変えられるような発展も有るかもしれない、ならば言動そのものは無意味ではないわけで、壁となる虚無を越えなければならない。 我らの見える景色が素敵にな

自由を求めるのは、

当たり前だと思っています。 それは自然なことでもあり、なんとなくでもあり、 何か誰かから教えられた訳でもなく、思っています。 あれ?でもなんで自由がいいんだっけ。 人類が自由を求めるのは、なんでだっけ? 実際、真面目に考えたことなかったかも・・・ なぜ?が先だって、 探ろうと決めたから始めた!というよりは いつのまにか、始まってしまうんですけど。 そう、だから日々のつぶやき達には、 その、研究過程が混在していて、 うまく、まとめられるようになったら書いてみよう そう思って

愛おしい辿ってきた時間

たとえばラジオ 無線通信:無線電話 送受信する機能・機械 音声送る:電波届く AM放送:FM放送 アナログ:デジタル BS/CS 1900年代~現在(Wikipedia 見ながら書いてます) 同じようにテレビの変遷、電話の変遷、、 時代だね~って感じで、いまは、聞く!見る!ことのチャンネルは多様化し、発信する人々もまた、芸能人とか限らずプロアマ関係なく多用に発するし、24時間365日、時間枠・時間軸も越えて、ヒトや組織の枠組みも超越して、これまでのいろんな境界線・誰か

わかっちゃったこと

わかっちゃった、 わかっちゃったよね。 今年2月以降はコロナ絡みで、政治!政治!が目立ってる感じがするのね。ずーっとヒトビトの日常と政治が並走している。今までも勿論そうだったかもしれないよ。 でも、何が違うかって、、エンタメ界やスポーツ界が落ち込んだことだ。エンタメもスポーツもヒトビトの日常にとても近く寄り添ってきたし、この同時代を共に時を過ごしてきたことは間違いないのだから。それはヒトビトの生活には欠かせないとゆうことだし、するほうも見るほうも、対相手があってこそ与え合

いろんなことが浮かんで

いろんなことが浮かんで思いついた!とメモしたり、忘れては浮かんで繰り返してるうちに、何度か残る言葉やテーマはいつかまとめて晒しても良いんじゃないかとゆう信号と思ってます。 ダレカノ ナニカ を見たり聞いたり(You Tubeとか)してると、思うままに発信しているなぁと、ワタシが思いつくことは何も意味がないのかもしれないなぁと、無駄にも思うけれど。。でも、みんな違うし!、個と個の集まりだから、自分以外は全てが参考案件、見本お手本。ふむふむってお勉強になるわぁって吸収して、なるべ

2020/7/31 死と向き合うこと

まえの記事にも似たようなこと書いてるけど、今年はほんとに世界中でこんなに死と向き合うことってあったかな?って。どこかで争いによってとかテロとか災害とかそうゆう該当するどこかの地域ではなくて、世界中コロナ感染による死者が多く、しかもずーっと続いてる感じで。でも、世界で同時間で進む中、起きてる事実だから、ちゃんと弔ってあげるタイミングもないといけないのだろうけど、そうしたタイミングもとくにはなくて、ご遺族に対してもお見舞とか国や世界でなにかしら検討するようなことも無いと浮かばれな

想いの記録

いま、2020年半ば過ぎて、今年はなんでこんなにも試練の年なのだろうか、個人的であることよりも世界的に、世界共通的に、様々なニュースの共有により、生きてくことの正にサバイバル時代だ。生きてくうえで必要なのか越えなければならない苦難なのか、それもわからない。どれだけの人が毎時毎分毎秒、願って祈っているのだろう。ものすごく沢山の神さまが地球体に犇めいて為す術なく茫然としているんじゃないかと思うくらいに、なにか良くなったことあったかな。 実際に我が身に起こる出来事ではなくても、世