覚めない


   
 昨日、夜、夢を見た。

眠ってしまった覚えはない。九月に入り、気持ちのいい風が吹いていたから、クーラーを付けずに窓を開けた夜だった。寝床に入って、息を吐き、窓辺を見た。それから、あぁ、そこに今年買えなかった風鈴があればなと思った記憶がある。透明なガラスに、青いペイント。か細くても耳に通る音がキラキラと鳴る小さめのものが理想。
 去年持っていたものだ。綺麗な風鈴だった。イベントで使って、家に持って帰って、自分のものになるはずだったのに、割れた。物自体がないということより、音がもう聞けないことが切なくて、今年は買えずじまいだ。チリンと頭の中で風鈴が鳴った。その数分、窓をただ何もせず見ていた。数秒、だったかもしれないが。そのあと、目を瞑った。眠ろうとしたわけではなく、ただその空気に酔いしれていたわけだ。しかもさらに気取って仕舞えば、窓の外で鈴虫が鳴いていたからだ。ずっとこのままでいいと思うほどに、心地よかった。そしてまだ私は起きていた。普段であれば眠っているところだが、まだ記憶は続いている。
 そのあとは確か、悦に浸りすぎてついに歌まで歌い出した。それも歌、と言えるほどの代物ではなく、ただ声を出したようなものだった。言葉なく、鼻の奥からツーっと、音程を変えて繋げた。作曲とはこういうことかと思ったが、紡がれたものはあまりに凡庸だったのでやめた。目を開けて、歌をいくつか思い浮かべて、静かな声でそれを歌った。やはりプロの唄はちがうものだと思った。私は少し笑ってしまっていたかもしれない。  
 うろ覚えの何曲かをなにも考えないで歌っていた。そういえばその間、腕で撫でたシーツが気持ちよくて、そのシワの大雑把な襞を感じながら腕やら足やらを動かしていた。とととと、と腕を襞の凸凹が撫でる。そうこうしていると歌が尽きた。考えれば出てきそうだが、わざわざ考えるのは嫌だった。
 もうすでにここは夢の中だと、そのあたりで気づいた。読む人は初めから分かっていた人もいるかもしれないがこのままもう少し付き合っていただこう。何故なら私もそうしたからだ。分かったところで目を覚まさなければこの幸せな夢は続くから。そうした。
 すーっと、風が抜けた。窓に目をやると真っ暗な背景に夜の明かりが気持ちばかり灯っていた。まだ目覚めなくて良いのか。嬉しくて大きく息を吸い込んだ。匂いがした。別に甘くもなければ酸っぱくもない。でもその一瞬で消える匂いが手放せず、また大きく息を吸い込む。もう一度、もう一度。それでも匂いは消えていく。手を天井にゆっくり伸ばしてみたが匂いを掴めるはずはない。歌も、思いつかない。まだ続けられると思った夢は、もう終わりに近かったのか。上げた手の行き場がなくて、両手とも強く握りしめた。ゆっくり、手を下ろして、目を覆った。
 そして私は目を覚ました。目を開いて、見えたのは同じ天井。右を見ても左を見ても、同じ部屋で同じような時間。本当に夢だったのかと息を吸い込んだら、カップラーメンの匂いがした。体を起こして見ると、カップの中で麺が膨張している。そうか、うたた寝していた。
 明日は仕事。ゆっくりベッドから立ち上がって膨張して増えに増えたラーメンをすすった。携帯が点灯した。大方検討がつく誰かからの、検討がつく何かしらのメッセージ。こんな時間だ、返さなくても罪にはならない。ラーメンは膨張していても特に変わらず、いつものラーメンのまま。大丈夫よ、一度もあなたに期待したことはない。食べ終わって風呂に入って歯を磨く。歯を磨きながら風鈴の音と、外の明かりと、気持ちのいい風と、歌と、匂いを、
思い出していた。至って特別なことはないものばかりだった。ただ、幸せだった。
「眠い」
 さっきのメッセージに返事をして、いつものベッドに入って天井を見て、泣きそうになった。そして私は今度こそ眠った。

2019/10/15
 
 
 


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