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社会的価値に対する抵抗

社会がいまこうだからこうしようという判断は基本的にやらない方がいい。たかがしれるので。(2024.4.3)

日々の仕事について社会的意義を語り出すとどうしても虚飾が張り付いてくるので、目の前の現実に反応できる状態こそを保持したい。(2023.9.27)

学校や社会に馴致した我々の選択は、すでに能動的な主体性を奪われた後の受動的選択でしかないのに、選択はそこに主体性があるよう錯覚させるようにはたらく。(2024.3.14)

悪事やタブーに片足つっこむことなく無難に大人になっていく人が多くなり、社会には表と裏があるということがわからない人が増えるというのは、つまり政治的センスを失うということであり、目の前にある戦争が見えないということであり、経営の土台にあるものが見えないということでもある。(2024.2.16)

ガイドラインを作ることで守られるべき部分が守られるという利点はあるが、一方でガイドラインを作ると個々の葛藤がなかったことにされるのだ。ガイドラインに従う人は「正しさ」に従っているだけで学んでいない。社会がガイドライン化されることで世界の隅々まで不毛地帯になっていく。(2024.2.10)

自身で逡巡することなしに自動的に悪や差別を避けられるような社会にしてはならないのに、そんなふうになってきてる。悪や差別に反対する人たちはそういう社会になることを積極的に推進しているが、良き社会の自動化はむしろ悪や差別をより醜悪に温存するという点で、むしろ悪に手を貸しているわけだ。(2023.10.13)

かつての子供の世界では喧嘩は重要な地位を占めていたが、今では喧嘩は忌むべきものとなり、加害/被害の枠組みでしか捉えられなくなった。大人の安心のために世間が漂白されたせいで、子供が社会や政治や善悪について身をもって知る機会は少なくなった。  (2023.9.27)

赤瀬川源平「一年生」より

子供が社会に最適化することを最大の目標とする教育の現場で個性の伸長を呼び掛ければ、空気を読みながら悪ふざけするような小悪党が誕生するのは当然の帰結。小悪党ばかりが跋扈している。(2023.10.2)

発達障害に対する理解が広がったことなどで、我が子を分析する親が増えたけど、分析しすぎて「わかったつもり」になる親、科学的根拠を盾に子供の偶然的な未来を否定する親が増えたのは、本当に大変なことだ。子供を分析しすぎて檻に押し込めたらダメです。
障害や逸脱なるものを精神医学が規定しようとするとき、それが社会管理の装置として機能し確立されていくこと、さらにその管理の技術が病院だけでなく広く社会一般に適用されていくことについては、常に警戒が必要。(2024.1.6)

社会的包摂は自己疎外とセットなので、その正しさにうっすら拒否反応が生じるのは当然の帰結。オードリーや星野源、有吉などが面白みのない普通の人に見えてきたとすれば、その「うっすら」がその原因だし、さらに彼ら自身が自己疎外の毒牙にかかった結果とも言える。(2024.1.5)

社会的包摂(インクルージョン)ってめちゃキリスト教くさい概念で、だから他宗教からすると違和感があって当然なんだけど、この感覚って(キリスト教くささに対する免疫がない)日本の人たちには分かりづらいんではないだろうか。(2023.9.10)

支援という言葉を使わずとも、その時々の相手の状況に合わせて助けたり値引きしたりできることをやってる個人事業主はいまも日本中に幾らでもいる。そこに短期的な打算や損得勘定はない。でもその類いの融通が、不確定性に晒されている私達に最低限必要な知恵であるという勘は働いているはず。この勘が鈍ってこういう話が通じなくなる社会はマズい。政府の言う「共助」の文脈では捉えられない話。(2023.8.15)

社会の差別構造に鋭く声を上げる割に、日常的な自身の差別的言動に無自覚な人は多い。家族や親子関係、既存のグループやコミュニティは差別構造の中で守られている面が大きいがこういう話は嫌がられる。(2023.10.4)

木内昇は急激に変わりゆく戦後社会を背景に、老いて上京した母(かつて憧れの存在だった母)のわびしい時代遅れの姿に苛立って怒りをぶつける短編「てのひら」を書いたが、「現代を生きている」自意識で生きる人は皆、親世代の価値観とその背後にある魂の気配を踏みつけて生きている。忘れたくないこと。
目上の人に対する敬意、という言い方はあまりに「ありきたり」だが、私にとってはこの意味でリアリティを持っている。(2024.3.30)


他人の人生の矛盾を責めるというのはとても残酷なこと。十代、二十代なんてとにかく社会との摩擦との折り合いをつけることに必死で、自分を正直に見るということができなくなる場合がある。そのせいで人生が捻じれた人を指さしてその醜さを嗤うなんて非道としか言いようがない。(2023.7.13)

「弱くても大丈夫」という声かけのほとんどは、弱いあなたを是認しているようで、その実は弱さを強いる社会規範に追随し、降参し、断念しているだけである。(2023.6.16)

自分の好きなようにやってきた人が、「社会のために」「誰々のために」のような大義で動くようになるのは発奮したようで実は調子を崩すきっかけになることがある。言い換えれば、「〇〇のために」という理由付けを求めるのは実は調子が悪いときであり、それが仇となって思うような結果が出ないことがある。(2024.4.4)

(親たちは)自分を否定した競争社会の価値観を捨てることができず、それを俯瞰して見ることさえできずに、そのせいで自分を否定したままに、うちの子だけは私と同じ思いをさせたくないと、わが子の教育に熱を上げる。 「受験後遺症の大人たち」(「世界」2024年2月号に寄稿)

大人は、子どもに自分の意志を持ち、夢を抱くことを求めます。しかしその正体は、彼らが社会の中で無難なオプション選択をすることを望んでいる程度のものなので、結果、多くの子どもが無難さ自体を目標とするようになります。しかも、そういう子が大人からは評価されやすい。大人たちがそうでない子の無限の可能性を見ないのは、自分の無難な人生が否定されるように感じるからでしょうか。(西日本新聞の連載「それがやさしさじゃ困る」第5回より)

中井久夫は著書の中で、児童のことを「よい子」と呼ぶようになったのは確か戦時中のことで、社会がそういう可愛げのある子どもであることを求める傾向は「全体主義への傾斜」とまで言っている。(2023.11.3)

現代の社会システムや思潮に対する批判・カウンターが人々の間で一定の支持を受ける場合、それに対する良し悪しを云々するよりも、その方向に現代人の欲望が向かっているというという視点を基にした観測から考えを紡ぐことが肝要。(2023.8.20)

高校生対話では今週公開になった連載のキューバの話(特にマリア・テレジア教授の話)を題材にして資本主義と社会主義についてみんなで話をした。日本でふつうに学生をしていては不可能に近い、社会をそして資本主義を相対化することを試みた時間。今日も盛り上がった。キューバに対する憧憬を異世界モノやシティポップブームと接続した子もいて刺激的だった。(2023.11.9)


宗教改革が司牧権力の否定ではなくその権力を別のしかたに置き換えたものであったように、革命や改革は既存権力の否定(反権力)ではなく、別の振る舞いを通して権力を行使する主体になり直すことと考える。旧態依然の社会規範(学校・企業など)に立ち向かう人たちが勘違いしないために必要な視点。(2024.1.8)

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