鳥羽和久
随想(エッセイ)記事をこちらにまとめました。
鳥羽和久の関連記事(本人の記事、寄せられた書籍やイベントの感想など)
親子関係、学校問題などに関する論考をまとめました。
読書記録や書評、映画評などをまとめました。
BTS(防弾少年団)に関する論考をまとめました。
学校の廊下を歩きながら急にフラっとした。倒れることはなかったが、この感じが今の僕なのだと思った。もう中学校も卒業だというのに、僕は最近、すっかり元気がなくなってしまった。頭にずっと靄がかかっていてすっきりしない。さっき下級生の女子が、すれ違いざまに僕の方を見て笑った気がする。もしかして僕は彼女たちが思わず笑ってしまうような恥ずかしい存在なんだろうか。僕はもう本当にみすぼらしい。 保健室の前を通る。保健の先生は優しいけどちょっと迫力がある。元気がないときに会うのはきついから、
先日、「友達」についてのインタビューを受けて、その際に私の中での「友達」の定義を考えてみた。それは、君はこれからもそんな調子で君の好きに生きたらいいじゃない、と相手の生き方を全面的に面白がれる関係性のこと。 「友達」と同義で用いられることがある「仲間」だと、部活動だったりクラスだったりするとまとまって何かをいっしょにやらないといけないので「君はそんな調子で好きに生きたらいい」とは言えない。だって共同の目的を持つのが仲間だから。そこには協調性という軸があり、同調圧力もかかる…
noteは昨年12月に始めたばかりで、その使い方として、すでに書いた文章のアーカイブ用という位置づけをしていたのだけど、それに備忘用という用途を加えようと思う。今日は昨日行われたLA(高校生哲学対話)授業について。 この授業の概要は以下 ◆LA(リベラルアーツ)が目指すこと <授業内容> ・開講は4~7月のみ *最終は7月7日 ・リベラルアーツは「自由を獲得するための知識」の意味 ・毎回テーマごとに現代の論点解説と対話 ・予定されるテーマ 意識と認識 存在と時間
先日、平倉圭さんとのメールのやりとりで、福岡の滞在エリアのオススメを案内する機会があったので、少し編集してこちらに載せます。他にもたくさんありますが、私の観測範囲でということで。 (1)市内 柳橋連合市場周辺(渡辺通駅) 天神も博多も近く利便性が高い 古い市場が面白いけど、一部再開発が始まってしまっています 西戸崎 米軍ハウスが残るエリア レンタサイクルして志賀島1周もできる 福岡都心への移動は船がおすすめ 下山門~今宿~今津海岸 福岡市内の中心部から最も近い自然海岸
社会がいまこうだからこうしようという判断は基本的にやらない方がいい。たかがしれるので。(2024.4.3) 日々の仕事について社会的意義を語り出すとどうしても虚飾が張り付いてくるので、目の前の現実に反応できる状態こそを保持したい。(2023.9.27) 学校や社会に馴致した我々の選択は、すでに能動的な主体性を奪われた後の受動的選択でしかないのに、選択はそこに主体性があるよう錯覚させるようにはたらく。(2024.3.14) 悪事やタブーに片足つっこむことなく無難に大人にな
勉強に対する大人の見立てはだいたい間違っていて、それはおそらく自身の学生時代において、勉強に対する認識が間違った大人の影響を受けて形成されたから。多くの人は大人になってもその後遺症の中で生きている。以下 勉強に対する子供の「やる気がない」という親の嘆きは、現在の子供の内面を責める形で表出するが、その時に親が見て見ぬ振りをしているのは、子供がいかなる時間を過ごしてきたかという歴史の問題であり、その歴史には当然親も含まれる。このことに自覚的であれば、勉強しない子供のやる気を一方
主役は耳の聞こえないボクサー、ケイコ。弟に「勝手に人の心読まないで」「話したからって解決しない」と伝える彼女は、他人が思考の先回りをすることを嫌がるし、言葉の駆け引きでは欲しいものは何も手に入らないことを経験的に知っている。 この映画では情緒的に分かりやすい物語展開は注意深く避けられる。しかし、それ自体が破棄されているわけではない。物語を誘発するのは空間と身体である。 ケイコの生活圏は概して河川敷や階段下といった低い土地で、そうした深さを持った土地で人たちが水になじむよ
今でも一番記憶に残る担任の先生は小1・2のころのH先生。彼女がクラス全員を横に整列させてビンタされた日のことが忘れられない。理由は覚えていない。全員をビンタした後、H先生は「あなたたちは1回ずつビンタされただけだけど、私はあなたたちの人数分叩かれた」と言って涙を流していた。僕は頬も心も痛かったし叩かれたことに納得もしていなかった。全員ビンタなんて今だったら絶対あり得ない話だけど、そうじゃなかったあの当時(1980年代前半)の時代感覚を忘れたくない。 彼女がダメな先生だったとは
高校入試は入試まで気持ちよく勉強できている子のほうがうまくいくことが多く、勉強をやれやれと言われ続けた子は気持ちよく勉強できてないので伸びない子が多い。語弊を恐れずに言えば、高校入試程度で子供を追い詰める大人たちはその先の大学入試が見えてなさすぎる。高校入試でさえこれなので、小受、中受で子供を追い詰める大人たちはほんとにどうかしている。そこで勉強嫌いにしてどうする。(2023/12/17) 2月上旬にある中学校の中3の担任の先生がクラスの生徒たちに呼び掛けたそうだ。「受験は
タイトルに、デビュー作『ちょっと踊ったりすぐにかけだす』について、と書いてこの文章を始めてみたが、「満を持して」という言葉を付け加えたいところだ。 古賀さんはデイリーポータルZでのご活躍のほか、自身のブログで発表する日記(本人は日記エッセイと呼んでいる)が人気で、さらに古田徹也さんや岸政彦さんなど学才や実績のある作家たちのファンも多く(古田さんは自身で「狂信的なファン」とさえ言っている)、むしろいままで本を出版していなかったのが不思議なくらいだからだ。きっと古賀さん的にこの
(勉強ができるはずの)親など日ごろ勉強を教えてない人が子供に教えるとなぜうまくいかないかといえば、必要な知識を有限化できていないから。どうしても(良かれと思って/または単なる知識自慢で)余計なことを教えてしまう。教えるのが上手な人は、何を教えるかよりも、何を教えないかが分かっている。(2021年12月) 授業も勉強もずっと集中していることより強弱をつけることが大事。勉強が上手な子は(授業中にずっと集中しておくなんて無理なので)集中したり弛緩したりを繰り返しながら、全体として
いまの世の中を覆っているのは「既に私も配慮してるんだから、あなたの方もこっちが不快にならないように配慮して」という新しいファシズムで、こういう趨勢で割りを食う人たちをマイノリティと呼びたい。事実は単に人の心が蔑ろにされているだけだが。(2022.7.28) 心が足りないから表向きの「配慮」で済まそうとする。すぐに擬制が剥がれて信頼関係がガタガタになる。これは、ある中学校の対応に感じたことだ。(2022.5.23) 執拗に他者への配慮を求め、常に相手が傷つかないようにしよう
千葉雅也『意味がない無意味』(河出書房新社)を読んだ。全体に緻密で難解ないわゆる「論文集」なのだが、随所に特別な旨味がある。 意味がある無意味「穴=秘密」は「信仰主義」の拠点になる。無意味という「穴」に、カントの「物自体」やフロイトの「無意識」、ラカンの「現実界」を適合させようとした私自身の試みも、いかにも宗教的動機だったことがいまならわかる。 対して、彼の言う、意味がない無意味「石=秘密」というのは、ラカンの「他の享楽」や東浩紀=デリダの「郵便的脱構築」、浅田彰=ドゥル
随分前にこのツイートをしたのだが、その数日後に教室の前で会ったあるお母さんから、「先生、うちの親、死ねばいいのに、とか書かない方がいいですよ。どの親が見ているかわかりませんから」と言われ、どの親というかあなたですよね、と思いながらその場では何も言えず、その後しばらくモヤモヤとした気持ちを抱え続けた。 中学生の子どもたちは、たやすく「うちの親、死ねばいいのにー」と言う。正確には、言うタイプの子と、冗談でも決して言わないタイプの子がいる。僕は「言わないタイプ」だったので、子ども
いま、ある教育者の「相手の立場を理解しようと努力し、相手のことを想像する力」であるエンパシーが重要という趣旨のツイートが流れてきた。 シンパシーとエンパシーの違いについては シンパシー=相手に対する同情、共感 エンパシー=相手を理解しようとする力、感情移入 というふうにまとめられたりする。 「アザーネス(他者性)との向き合いと理解、エンパシーこそが芸術表現の本質」(鴻巣友季子)というのは、私も確かに…と思う部分がある……ということを認めた上で、それでもなお私は、エンパシー
「向き合う」とか「寄り添う」という言葉は要注意で、そういうのは「向き合わなきゃ!」という感じで無理にやっても失敗します。やり方は2つで、ひとつめは真心でやること、ふたつめは与えられたタスクとしてこなすこと。後者の方が高度で失敗しにくい。(2020.8.31) 長期的に見れば、親が子どもの心配に寄り添う、同調することが、むしろ子どもの苦痛や不安を長引かせてしまうことは多い。(2020.9.15) 「児童生徒の自殺者急増」というニュースに対する「大人はもっと子どもの心に寄り添