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【短編恋愛小説】女性の生きづらさを考える一助としての小説|『しえん』

     1

 色濃い煙草のけむりが漂ってきて、思わず手を払った。中目黒の居酒屋《かがりび》だった。グラスを触っていたせいで水滴がぴっと跳ねた。右隣の席の、煙草を吸っていた男に当たった。私は眉を下げて、笑顔をつくった。
「ごめんなさい。煙がきたから、つい」
 眉をひそめていた男は、私の目を見るなり、にっこりと笑った。顔を真っ赤にした、大学生くらいの男だった。だぼっとした服を着ていて、手首にはシルバーが巻かれている。渋谷や中目黒ではよく見る格好だった。二人連れで、友人の方は私に見向きもしなかった。
「こっちこそすみません。……さっきの人、彼氏?」
「いや……そういうのじゃないけど」
 雨宮のことだろう。トイレに行くといって、もう十分は経っている。灰皿に残った雨宮の煙草はほとんど焼け落ちていた。
「じゃあ連絡先、交換しません? 何かの縁ってことで」
 男は左手で持っていた煙草を、灰皿にぎゅうぎゅうと押しつけた。その視線は、机に置いていた私のスマートフォンに注がれている。対面の友人は、止めるでもなく囃し立てるでもなくただ静観していた。
 やっぱりこうなるか。
 私はグラスを両手で抱え、いつも通り笑顔をつくって首をかしげた。自分の鞄の中身を強く意識した。
「ごめんなさい、私、今好きな人がいるんです。なので、そういうのはちょっと……」
 男は鼻を鳴らした。男の友人も笑ったように見えた。
「違う違う、そういのじゃなくてさ。なんか友達になりたいって思っただけだから。そんなに警戒しないでよ。よかったら相談も乗るしさあ」
 見かけによらず、ぐいぐいと来るタイプだった。どうせ年下だろうと侮った。酒で潤んだ瞳は私の胸に向けられている。
 ……二回。もう、いいだろうか。
 音を立ててグラスを置いて、私は笑顔を消した。昔から真顔でいると怖がられることが多かった。ただ見ているだけなのに、睨まれていると勘違いされることもあった。
 案の定、男は貼り付けた笑みを引きつらせ、もみ消した煙草を意味もなくつまんでいた。これなら使う必要もないだろうと内心ほっとした。
「あのさ、あんたたち――」
「桔梗、ストップ」
 だがそこに、雨宮が戻ってきた。
「ごめんね、お兄さん達。この子、俺の奥さんだから」
 雨宮は人懐っこい笑顔で、左手を見せた。そこには銀色の結婚指輪が嵌まっている。
「え、でも……」
「ん?」
 表情はそのまま、半歩だけ男に近づいた。雨宮は、嘘をつくとき相手を覗き見る癖がある。長身で胸板も厚い雨宮にはさぞ圧倒されることだろう。
「いえ、すみませんでした……」
 店内の視線を集めていることに気づいたのか、男は手早く荷物を纏めると、友人を連れて、店を出て行った。ドアを開けるときもやはり左手を使った。寒風が入り込み、店の温度が下がる。私はひんやりとした手を、温いおしぼりで拭った。
 雨宮は対面に座り、フィルターだけ残した煙草を吸い殻に押し込むと、またもう一本火をつけた。
「……遅かったね」
「助けてくれてありがとう、だろ」
「……そうね。ありがとう」
「よし」
 私は雨宮のこういうところを好いていた。あけすけに感謝を要求し、それで終わらせてくれる。間違っても、助けたことを恩に着せたり、偉ぶったりして、見返りを求めてこない。昔からそういう手合いは多かった。
「トイレが混んでてな。あとすげえ汚くてさ」
 大方掃除でもしていたのだろう。面倒見がいいのとはまた違うのだろうが、そういうことは放っておけないたちだ。
「手洗った?」
「当たり前。それで? なんで絡まれてたの」
「さあ、煙が鬱陶しくて手を払ったら水が飛んじゃって」
「ふうん。あ、これもうざい?」
 雨宮はくわえた煙草を指さした。
「雨宮はいいよ。友達だし。でもさあ……あいつ絶対わざとこっちに吐きかけてた」
「気のせいじゃなく?」
「気のせいじゃなく」
 頷くと、雨宮は天井を仰ぎ見て、換気扇に向かって煙を吐き出した。
「こうしたら良かった?」
 おちょくられているのだと気づいて、少しむっとした。
「本当だって。席考えてよ。さっきのやつ、私の右隣の席で、私とは対角線に座ってたじゃん。あいつ左ききだよ。だから普通、こっちにあんな濃い煙はこないんだよ」
「よく見てるな」
 雨宮は平坦な口調で言って、煙を吐き出した。顔の辺りに漂っているが、別段手で払うこともない。
「水が飛んだからって、向こうから因縁でもつけられた?」
「そんなことになったらすぐ店員を呼んでるわよ。ちがくて、謝ったらなんか……連絡先聞かれた」
「断ればいいじゃん。普通にさ。喧嘩腰にならなくても」
「断ったってば。なのにしつこくて」
「ふうん」
 雨宮は灰を落として、ビールに口をつけた。
「しかも、ただしつこいだけじゃなくて、なんか、自分にそんな気はありませんみたいな態度取ってきてさ、胸見てるのバレバレなのに。本当に最悪」
「まあ、そんな服着てたらな……」
 雨宮は目線を落として、すぐに逸らした。今日はざっくりと編まれたセーターを来ていた。胸が大きいせいで、どうしても強調した格好になってしまう。下手に隠そうとすると、太って見えるのだ。
「なに、水川が来るから?」
「そりゃあ多少は……でも、あいつらに服は関係ないから」
 水川も、雨宮と同じ会社の同僚で友人だった。
「ふうん。そっか」
 雨宮は納得いかない顔をしたが、それ以上は突っ込んでこなかった。
「でも、あんな喧嘩腰にならなくても良かったじゃん。実際、あのまま俺が来なくて、喧嘩になってたらどうするの?」
「こんな人目があるところで、そうはならないと思うけど……」
 金曜夜なだけあって客も店員も多かった。こんなところでもし喧嘩をふっかけるような相手なら、多分断った時点でそうなっている。
「もしなったとしても、連絡先教えるよりマシ。ああいうのに少しでも気があると思われるとしつこいんだよね。きっぱり断らないと余計に面倒なの」
 大学に入学してすぐは、ナンパをされるたび、見た目が合格ラインだったら連絡先を交換していた。校則や制服から解放されて、舞い上がっていたのだ。新宿や渋谷、たまに銀座にまで足を伸ばして、よく遊んだ。
 でもそれは一過性のもので、半年で飽きた。ナンパで会った男はみな、下心が透けていて、話もつまらなかった。
 そうなると突然、声をかけられるのすら煩わしくなった。
 初めはそれでも丁寧に対応していたが、社会人になる直前、「勘違いするな、ブス!」と負け惜しみを吐きかけられて以来、二、三回は丁寧に対応し、それでもしつこかったらきっぱりと断るようにしていた。
 ナンパと聞いたら「キモいから喋りかけてくるな」と切って捨てる友人もいたが、さすがにそこまではしなかった。その子からは「優しすぎる」と言われたが。
 反対に、雨宮の目には厳しく映ったようだ。真面目くさった顔で、首を傾げていた。
「そういうもんかね。喧嘩になった方がだるいだろ。女だからって殴られないわけじゃないし」
「殴ってくるようなやつなら、やっぱり断って正解じゃない?」
「そうじゃなくてさ……もう少し危機感を持った方がいいって話な」
 私は溜め息を堪えた。この感覚は、たぶん男には――特に、雨宮のような大柄の男には一生分からないだろうと思った。
「しつこいナンパには強く出るのが一番いいんだよ。ああういうのに舐められたら、徹底的に下に見られるから。殴られたら殴られたで、警察沙汰にできるしね。それに――」
 私は鞄から小型のスプレーを取りだした。
「いざとなったら、こういう撃退グッズもあるから」
 手のひらサイズの目潰し用スプレーだった。私の周りでもこうした護身用の物品を持ち歩いている人は多かった。
 雨宮は裏の成分表に目を通して、
「カプサイシン配合ね……こういうのって過剰防衛にならないの?」
「ならないでしょ」
「それに、本当にピンチの時、こんなの用意してられなさそう」
 小馬鹿にするように笑われ、むっとしたが、もうこれ以上は平行線だろうと、何も言わなかった。雨宮も興味をなくしたのか、スプレーを返してくると、また煙草を手に取った。
 私もまだ手つかずだった唐揚げに箸を伸ばした。テーブルには、唐揚げの他に、お通しのきんぴらゴボウと、枝豆、揚げ豆腐と揚げなすが並んでいた。
「……水川、遅いな」
 ほそく煙を吐き出した雨宮が、ぼそりと言った。
 唐揚げに箸を突き刺すと、衣の一欠片が、テーブルに転がった。
 雨宮は灰を落とすと、ゆっくりとジョッキを持ち上げた。
「……なに、何かあったの?」
「別に。なにもないよ」
「今さら誤魔化すなよ。先月、二人で飯行けるようにしてやっただろ」
 私は伏し目になって視線を移ろわせて見せた。他の同僚だったら誤魔化されてくれたかもしれない。あるいはナンパをしてくるような男だったら。
 でも雨宮はまったくどころか、むしろ苛立った様子を見せた。
「いいから話せよ」
 私は諦めて、雨宮を見た。たぶん睨むような目になっていたと思う。
「今日、水川は来ないんだ」
 雨宮は眉を寄せた。それから少し腰を浮かした。左薬指で指輪が輝いている。
「来るって話じゃなかった? そういうの、ちょっと困る。別に嫌とかじゃないけど、お前と二人きりとかさ――」
「それは、ごめん」
 幸い、雨宮の奥さんは寛容な人で、私との付き合いを容認してくれている。それはきっと、水川もいて、三人でバランスが保たれているからだ。
「でも別に、雨宮のことをどうこうしようってわけじゃないから」
「当たり前だ」
 雨宮は座り直して、揚げなすを器用に分割していくと、一かけを口に運んだ。沁みていた出汁がポタポタと机に垂れた。ゆっくりとおしぼりで拭ってから、雨宮は言う。
「水川だろ。なんで来ないの? 誘ったのも嘘か? いや、さすがにそれはないよな。でも水川が来れないって分かってたなら、桔梗は俺のことを誘わない」
 それはそうだ。三人だから容認される関係で、わざわざその不文律を破ったりしない。
 雨宮は箸を置いて言った。
「っていうことは、誘ったけど、断られてもいなくて、かといって約束を取り付けたわけでもない状態で俺を呼んだんだ。そうだろ」
 同意を求めている風でもなく、ただ確信した様子だった。
「相談事か?」
 私はグラスから手を離して、肘を突いた。
「今日、会社では話せなくて。連絡したんだよ。『終わったら飲み行こ』って。でも、返信がなかった。既読もついてない」
「そうか……」
 雨宮はそれだけで理解したようだ。神妙な面持ちで顎をさすった。
「それは、変だな」
 水川は即レスが基本だ。人からの誘いを無視するなんて、そんなことはあり得ない。少なくとも、仲良くなってから三年間、一度もなかったことだ。
 それに、会社で声をかけられなかったのも不思議だった。確かに最近は忙しそうにしているが、それでも日中に声すらかけられないなんて、そんなことあるのだろうか。
「電話もしたんだけど、繋がらなくて」
「ブロックでもされた?」
 冗談めかした声に、私は息を詰めた。そこまでのことは考えていなかった。でも、そういうことも、あり得るんだろうか。
「……ごめん、今のはデリカシーなかったわ」
 雨宮は煙草に火をつけた。くすんだ煙が漂ってくる。私は手で払った。
「心当たりはないのか? たまたま予定があったとか、帰って寝てるとか、忙しくて体調を崩してるとか……」
 雨宮がそう取りなしてくれる。でも残念だ。雨宮なら事情を知っていると思っていたのに。これでは、私が考えていた通りの結論に達してしまう。
「雨宮もなにも知らないんだ。じゃあ……」
 私は一息で言った。
「私が水川に避けられてるんだ。だからだと思う」

     2

 雨宮は黙り込んでしまった。人差し指と中指で挟んだ煙草のけむりが上へ上へ、換気扇に向かって吸い込まれていく。
 私はそっと視線を外した。
 店内は、黙り込む私たちを残して、賑わっていた。特に、奥の座敷はひどかった。大学生のサークルだろう。髪をカラフルに染めた、若い男女のグループがぎゃあぎゃあと騒いでは、座卓に食べ物や飲み物をまき散らしている。
「汚いね、あれ」
 沈黙に耐えかねて、ぼそりと言った。返事を求めてはいなかったが、雨宮は長くなった灰を落として、そちらに顔を向けた。
「ああ、まあな。大学生なんてあんなもんだろ」
 煙草をくわえて、一筋の煙が吐き出される。
「新社会人かもよ」
「似たようなもんだろ。俺たちだって若いときはあんなだったよ」
 雨宮は妙に達観していた。無駄に大きな拍手や笑い声が聞こえても眉もひそめない。酔った男が女の子を肩を抱いているのを見ても目の色は変わらない。電灯に照らされた瞳は酒で潤んで光っている。
「それで、どうして避けられるって?」
 雨宮は顔を戻して、煙草をもみ消した。話の続きだと少し遅れて気がついた。
「私にも理由は分からないけど……なにかしたのかな?」
「なにかしたの?」
「どうかなー……」
 正直、心当たりはなかった。あるいは、心当たりしかなかった。
 ラインをしつこく送りすぎたのかもしれない。さりげなさを装ったボディタッチに気づかれたのかもしれない。先月二人きりで出かけたとき距離を詰めすぎたのかもしれない。あのときは確かにちょっとやり過ぎた。別れ際、あんなことまで……
 考えていくほど、自分のおこないがすべてダメだったようにも、問題なかったようにも思えた。駆け引きなんて、柄でもないことに手を染めたせいかもしれない。水川がのっぴきならない事情で私を避けているのか、私が原因で避けられているのか、分からなくなった。
「そういえば雨宮は、水川と普通に話してるの?」
「ああ、今日も昼は一緒に食ってたし」
 雨宮と水川は、大学が同じで、学生のときは面識がなかったらしいが、入社してから仲良くなったと聞いた。水川だけ部署が違うので、私の方が仲良くなったのは遅い。
「誘ってくれたら良かったのに」
「桔梗、昼は女の子グループで食ってるじゃん。それにお前がどういう気でいようと、男二人といるのはよくないって」
 雨宮の言うことには一理あった。男二人と行動しているだけで、不躾な視線を向けられることは少なくなかった。男を侍らせていると陰口を聞いたこともある。
「部長にも言われたんだぞ。不倫なんて中々やるねって。すぐには分からなかったけど、あれ桔梗のことだろ」
「うわ、なにそれ。セクハラじゃん。最悪。私にも雨宮にも失礼だし」
「な、本当に」
 雨宮はケラケラと楽しげに笑っていた。自分の顔がさらに歪むのが分かった。
 まったく性別とは厄介なものだ。私はただ、雨宮を友人として好きで、水川のことを男性として好きで、どちらとも友人関係でいるだけなのに。外野はいつも憶測で他人の関係を測りたがる。
「桔梗も、せめて水川と間違われてえよな」
「そういう意味じゃないんだけど……」
 内野も案外無理解なのかもしれない。私は話を戻した。
「今日、水川に変わったことなかった?」
「どうだったかな……ちょっと考える」
 雨宮は煙草を取りだして咥えた。しかしすぐには火をつけず、ぶらぶらと弄んでいた。
 私は店員を呼びつけて、何品か追加で注文した。この店は水川が気に入っているだけあって、店の雰囲気がよく、料理も美味しかった。普段だったらこんなにうるさいことはない。今日はたまたま外れ日だったようだ。
 空いた皿をお下げします、と男性店員がさっとテーブルを綺麗にしてくれる。グラスを空けて、新しくビールを注文した。
 ふと座敷に目を遣ると、さっきまで肩を組まれていた女の子が、席の端っこで小さくなっているのに気がついた。その目はスマートフォンに落ちていて、喧噪からひっそり身を隠しているように見えた。対して、男の方は懲りずに、別の女の子に絡んでいた。きっと疎ましがられているのにも気づいていないのだろう。
 しばらく見ていると、頭を撫でられた女の子がついに水をぶっかけた。座敷はしんと静まりかえり、それまでの喧噪がすっと静まった。
 気づいた雨宮もそちらに顔を向け、
「ああ、フラれてら」
 そう笑って肩をすくめた。多分、水をかけられた男も同じ感想だろう。ああ、フラれちまった。もう少し屈辱的だったかもしれない。でも、女の子はもっと必死で、屈辱だったはずだ。しつこい男にはやはり教えてやらなくてはいけないときがある。私は心の中で拍手しておいた。
 店員が座敷に向かっていくのを見て、私たちは同時に目を戻した。
「それで、どう? 変わったことあった?」
 雨宮は二、三回ライターを擦って火をつけた。それから私の目を覗き込むように、机に寄りかかった。
「……たぶん、ない」
「そう」
 そのとき店員が頼んだ料理を運んできた。お騒がせして申し訳ありません。笑顔のかわいい店員が謝った。座敷でのことだろうと思い、首を振った。気にしないでください。あなたは悪くないじゃないですか、とも言てあげたかった。
 店員が下がっていくのを待って、私はテーブルの写真を撮った。紫芋のコロッケ、アジフライ、フライドポテト。まだ残っている唐揚げも水川の好物だった。
「なに。写真送るの?」
「迷ってる」
 雨宮が煙草を置いて、おどけたピースをした。顔だけでなく、指先まで真っ赤になっている。私はそれも撮ってラインを開いた。そういえば、水川と写真を撮ったことがない。
「未読無視されてるのに、こんなの送ったらうざいかな」
「さあ、どうだろ。まだ未読なの?」
 言われて、水川とのトーク画面をひらいた。

 〉今日、飲み行こ
 〉仕事終わったら

 やはり、それで会話は終わっている。未読のままだ。
「見てないみたい」
「ふーん」
 雨宮はフライドポテトに手を伸ばした。二、三本まとめてつまんで、ケチャップ沼に沈ませる。油でふにゃふにゃのポテトは重みでぐにゃりと曲がり、重力にゆったりと引っ張られ、机にたた、と落ちた。雨宮はおしぼりで拭った。
「まあ、送ってみたら?」
「どうしよ。送って反応なかったらつらいし。……あと、さっきから零しすぎじゃない?」
「そう?」
「うん、見なよ。おしぼりめちゃくちゃ汚いじゃん」
 雨宮のおしぼりには、揚げなすの出汁の薄茶色と、ケチャップの薄紅のしみができていた。雨宮は隠すようにおしぼりを畳み直した。
「送ってもいいんじゃね。反応なかったらご愁傷様ってことで」
「それが嫌なんだって。元々そこまで個人ラインでは話さないし」
「そうなのか……でも、いつまでも動かないのも違うだろ」
「それは、そうだけど……」
 写真フォルダの開かれた画面に指を迷わせる。さっき撮った料理や雨宮に、先週遊んだ友人たちとの写真が並んでいる。ジョッキの取っ手を撫でて考える。
 そこで思いついた。
 水川とのトークを閉じて、雨宮と三人のグループに写真を送付した。メッセージも添えておく。

 〉うらやましいだろ

 雨宮もすぐ気づいたようだ。自分のスマートフォンの通知を見て、片頬を上げた。
「いいな、策士だ」
「でしょ」
 ジョッキに口をつけた。ビールの苦みが喉を通り、胃に落ちていく。これなら水川も反応しやすいだろう。そしてグループで反応したからには、私にも返信せざるを得ないはずだ。
「これでも返信なかったら……」
「それは言わないで」
 睨み付けると、雨宮は降参を示すようにぱっと手を上げた。
「上手くいくといいな」
「……本当に思ってる?」
「え、もちろん」
 雨宮はちょっと目を大きくした。まるで疑われるとは思わなかったという風だった。私はジョッキから手を離して言った。
「それじゃあ、さっきなんで嘘ついたの」
 煙草に伸びた雨宮の手が止まる。座敷の方はまたうるさくなり始めていた。
「……嘘って?」
「本当は水川、なにかおかしかったんでしょ? でも隠してる」
 雨宮は目を泳がせた。黒だ。案外こういう咄嗟の判断には弱い。本当に隠したいなら目の動きだけは気をつけなくてはいけない。
 私は唐揚げの最後の一つに箸を伸ばした。
「雨宮は自分のために嘘をつくタイプじゃないよね。特にこういう相談の時は。だから、多分私にとって不都合だったから黙ってるんじゃないの。たとえば――」
 唐揚げを自分の皿に置く。考えて喋りだしたわけではなかったが、考えると結論は一つだった。
「――たとえば……水川が他の女の子といたところを見た、とか」
 それが恋人なのか、想い人なのかは定かではない。だが、私にとって一番の不都合はそれだ。
 雨宮は視線を切って、煙草を二、三口吸った。座敷の喧噪は元通りになったが、さっき水をかけられていた男は、首からタオルを提げて、端の席でスマホをいじっていた。
「直接見たわけじゃない。でも、会話の流れからそうかもって思っただけだ」
「どういう話か聞いてもいい?」
 雨宮は頷いた。
「今日の昼、水川から相談されたんだよ。『女ってどういうプレゼントが嬉しいんだ』って。びっくりしたけど普通に答えた。関係性にも寄るけど、コスメ系は喜ばれるって」
 私に聞けばいいのに、という言葉は飲み込んだ。
「そしたらなんて?」
 座敷から盛大な拍手が聞こえた。横目で伺うと、周りに囃し立てられながら一組の男女がキスをしていた。大方、王様ゲームでもしていたのだろう。終わった瞬間は男女ともに笑顔だったが、女の子の方は水を飲み干し、唇をおしぼりで拭っていた。
 雨宮も一部始終を見ていたのだろう。懐かしむような、羨むような目をしていた。
 舌打ちしたい気分になって、唐揚げをまるごと口に押し込んだ。机をコツコツ鳴らすと、雨宮は顔を戻して、私を見るなり噴き出した。
「ふっ、食い意地張りすぎだろ」
 抗議のため、かるく足を蹴飛ばしてやる。雨宮は笑いながら言った。
「いたい、いたい……ああ、水川な。そしたら、『そっか、ありがとう』って。だから終わり」
 私は咀嚼し切っていない唐揚げをビールで流し込んだ。
「……相手のこと聞かなかったの?」
「聞かねえよ、高校生じゃあるまいし」
「それは、そうだけど……」
 私はジョッキの水滴を親指で拭った。雨宮は小さく溜め息をついた。
「だから言いたくなかったんだよ。気を揉ませるだけだろ」
「いや、聞けて良かった」
 せいぜい強がってみるが、声が震えた。思ったより酔っているのかもしれない。
「俺だって気になってはいるけどさ。あいつ女っ気ないし……でも、そういうのは踏み込みすぎじゃん」
 雨宮の言うことはもっともな気がした。でも気を遣いすぎなようにも思えた。
「水川って姉妹とかいたっけ」
「いや、いないはず。確か年の離れたお兄さんがいるんじゃなかったかな」
 姉妹に対してのプレゼントという線は消えた。質問の意図を汲んだのか、雨宮は付け加えた。
「母親とは縁切り状態らしいから、そっちもないと思う。おばあちゃんは分からないけど、さすがに女のプレゼントって聞き方はしないだろ」
 どんどん、私の不都合が現実味を帯びていく。
「大穴で桔梗ってことも、まあなくはないと思うけど?」
「本気で言ってる?」
「いや、慰め」
 私はもう一度足を蹴飛ばした。
「じゃあ、やっぱり――」
 と、そこで机が振動しているのに気がついた。雨宮がスマートフォンを見る。水川から返信かと思ったが、通知は来ていなかった。
 雨宮は画面を確認すると、ふっと鼻を鳴らして、ポケットに戻した。
「悪い、続けて」
「いいの?」
「ああ、嫁からだ」
「……いいの?」
「今ちょっと……喧嘩中なんだよ。そっとしてある」
「喧嘩? なんで?」
 もし私との関係についてだったら問題だ。雨宮の妻に弁解しなくてはいけない。私と雨宮は友達なんです。好きな人は水川っていう、もう一人の友人で、本当に雨宮はただの相談相手で……
 でも違った。雨宮は途端に、愚痴る口調になった。
「最近、大学の時の元カノ……ああ、トップオブクソ元カノな、がさあ、すげえしつこく連絡してきたんだよ。『最近なにしてるの』『結婚生活どう』『疲れない?』って。邪険にする必要もないから、適当に相手してたんだけど……」
 雨宮はそこで言葉を切って、ビールを飲んだ。
「先週だったか、嫁が会ったらしくてさ。ストーカーとは違うんだろうけど、なんか言われたらしい」
「なにそれ、最悪じゃん」
「最悪だよ。それで浮気を疑われてた。何もないって言ったし、もう連絡も絶ったけど……まだ疑われてる」
 私は首を振った。
「ちがう。最悪なのは、雨宮の対応。なんで元カノからの連絡無視しなかったの? 奥さんが可哀想だよ」
「まあ……それは、そうだよな」
 雨宮は気まずそうに、ハムカツにかぶりついた。
「呼び出しといて悪いけど、さっさと食べて、今日はもう帰ろう。雨宮の奥さんに悪いし。帰ったらちゃんと話しなよ」
 私は半端に残ったポテトを口に放り込んでいった。雨宮も黙々とテーブルのものを口に運んでいく。座敷はその間もずっとうるさかった。
 ちょうど食べ終えて店を出る頃、ピロンと着信音が鳴った。水川からの返信だった。

 〉いいな、美味そう
 〉今日いけなくてごめんな。また誘って。

 雨宮も確認して、ふっと頬を緩めた。
「どう、個人の方は。返信来た?」
 私は水川とのトーク画面を開いた。既読はついていたものの、二、三分待っても返信はなかった。
 首を振ってスマートフォンを鞄にしまった。
「ダメだ。グループで返信したからいいやってなったのかも」
「それか……」
「それか、じゃない」
 雨宮はケタケタと笑って、また手を上げた。
「冗談だって。返信があったんだから、とりあえずは良しとしようぜ」
「うん……」
 でも、どうにも引っかかった。女っ気のない、彼女すらいたことのない水川が、どうして女物のプレゼントなんて用意しようとしているのだろう。どうして突然、私を避けるようになったのだろう。
 この二つが地続きだったときのことは、あえて考えないようにした。
 呼び出した私が会計を持って店を出た。都道には車がひっきりなしに行き交っている。歩道には仕事帰りのサラリーマンが多かった。身を切るような風が頬を打ち据えるが、火照った身体にはちょうどよかった。
「悪いな、ごちそうさま。また水川と飲みに行こう」
「うん、奥さんとちゃんと仲直りしなよ」
「分かってる」
 雨宮は弱々しく笑って、駅まで歩いて行った。足のふらつきがひどかったので、私はタクシーを拾った。
 車内では運転手が何かと話しかけてきた。お姉さん、綺麗ですね。仕事はなにしてるんですか。住まいはこの辺なんですか。ずいぶん飲まれたんですね。彼氏さんに迎えに来てもらえないんですか。
 五十がらみの男だった。初めは笑って流していたが、だんだん面倒くさくなって、イヤホンを耳に突っ込んだ。水川が好きだというバンドの、一番再生回数の多い動画を流す。『ギターソロがかっこいいんだよ』と明るく話してくれた日が懐かしい。
 スマートフォンが震えるたび、水川からの返信ではないかと開いた。ニュースサイトのやカレンダーアプリの通知がほとんどだった。

 〉今日はごちそうさま、また飲もうな

 気を回してくれたのだろう、雨宮はわざわざグループにそう送ってくれた。数分後、水川がそれに返信した。

 〉行けなくて悪いね。楽しめたなら良かった
 〉水川も次はちゃんと来てよ

 すかさず返信する。運転手がステアリングをかつかつと指で叩いていた。

 〉雨宮と二人だと話がとまる
 〉お? なんだ、相談乗ってやったのに
 〉桔梗が唐揚げ口に詰めてたから会話が止まったんだろ
 〉それは言わないお約束でしょうが!
 〉笑

 くだらない会話に終止符を打つように、水川は『笑』とだけ送ってきた。それでもう、会話は終わってしまった。相談が何かとか話は広がったはずなのに。
 相変わらず、私との個人ラインに返信はない。
 窓に頭をくっつけると、火照った顔がひんやりして気持ちよかった。運転手とルームミラー越しに目が合って、小さく舌打ちした。
 イヤホンからはギターのけたたましい音が流れている。急き立てられるような、不安をかき乱すような、好きにはなれない音だった。
 連なったテールランプは、酔った目には眩しすぎた。
 うるさい夜だと思った。

     3

 酒が残っていても、朝は情け容赦なくやってくる。カーテンを開けてしまうと後戻りできなような気がして、眠くもないのに、だらだらとベッドの中で時間を潰した。
 昨日、帰ってきたと同時に吐き気に襲われ、小一時間便器に顔を突っ込み続けた。タクシー運転手が最後の最後、金を払う段になって「もっと愛想良くした方がいいよ」と言ってきたのだ。粘つく声に、胃の奥から食道までを逆撫でされたような気がした。イヤホンを外さなければ良かった。
 胃をひっくり返すようにすべて吐き出し、洗面台で口をゆすいだ。そのまま眠ってしまいたかったが、根性で化粧を落として、スキンケアもして、歯も磨いて、それからベッドに倒れ込んだ。
 泥のように眠ったはずだった。今日は休日で、のんびりしても問題ないはずだった。それなのに、いつもと同じ時間に目が醒めてしまった。
 初めはユーチューブでショート動画を見ていた。数学の証明問題の美しさを機械音声が解説している動画、可愛い女の子が露出の多い服で踊っている動画、沢を背景に魚を捌く動画、プチプラコスメの紹介動画、オススメ映画の紹介動画、副業のすすめ……どれも三秒後には忘れてしまうようなものばかりだった。
 目覚まし時計を見ると、十時を回っていた。もう二時間近く経っている。窓の外から子どもの声が聞こえてきた。カーテンの隙間から朝日が差し込んでくる。寝返りを打って、またスマートフォンをひらいた。
 インスタは、先週にストーリーを上げてから、久しぶりに開いた。通知が溜まっていた。大学の友人からのメッセージに、ちまちま返信していく。
 その中に、元カレからのメッセージを見つけた。

 〉めっちゃ楽しそうやん笑

 たった一文で、ここまで私を不快にする文章もなかなかない。私は既読もつけずスマートフォンを閉じた。頭から布団を被って、耳を塞いで、目を閉じる。
 カーテンを開けずにおいて、本当に良かった。

 まだ雨宮と水川の三人で普通に遊んでいたとき、恋愛遍歴の話になったことがある。一年くらい前だ。酒が入っていて、雨宮も私もそこそこ口の滑りが良かった。彼女のいたことがない水川はずっと聞き手に徹していたが、退屈はしていなかったように思う。彼も酒が入ると、いつもの数倍明るくなるタイプだったから。
 話題は、過去の楽しかったデートや、失敗談、少しアダルトな話から、今まで付き合った中で一番のクソ元カレ/元カノはどんな人物だったか、というものに変わった。
「じゃあ、俺から話すわ。俺のトップオブクソ元カノは大学の彼女だな」
 名前は明日香と言っていた。雨宮の奥さんに何か言ったというのも、この明日香だ。
 雨宮はわざとらしく顔をしかめていた。
「明日香は……子どもがそのまま大人になったみたいな子でさ。本当にいろいろ大変だった。どこに地雷があるか分からなくて、常に顔色を覗う生活っていうのは堪えたよ」
 このときの場所も、中目黒の《かがりび》だった。雨宮はビールを飲んでいた。私と水川はレモンサワーだった。テーブルには唐揚げとチキンカツが並んでいた。
「一番きつかったのは監視されることだった。半同棲だったんだけど、四六時中ベタベタしていないと気が済まないみたいで、家の中にいるときはずっとくっついてくるの。んで、スマホを触ったら怒られるし、本を読んでもダメだし、勝手に外出するのももダメ。飲み会なんてもってのほか。ずっとおしゃべりに付き合ってないと気損ねるんだよ。冗談抜きでのど飴が欠かせなかったね。開けたままトイレをさせられる生活とか、考えたことある?」
 雨宮の口調に恨むようなものはなかった。ただ、昔の失敗を笑う飛ばすようなものだった。だから私は笑ったが、
「それは、きつかったな」
 水川は案外、同情的だった。当の雨宮すら、ちょっと困ったように笑った。
「まあ、別れられてハッピーだったよ。そのあと、なんやかんやあって結婚もできたし。幸せだわ」
 左薬指を見せつけるようにした。私と水川は拍手を送った。
「桔梗は? どんなトップオブクソ元カレだったの?」
 雨宮に振られて、私はもったいぶるようにレモンサワーを飲んだ。水川もどこか期待したまなざしを向けていた。
 グラスを置いて、私は言った。
「私のトップオブクソ元カレも大学のときの人だな。卒業するときようやく別れられたんだけど、結構苦労したんだよね」
「どんなやつだったの?」
 水川と目が合った。私はにやりと笑った。
「とっておきのエピソードがあるんだ。あのね――」

 そこで、目を覚ました。いつの間にか眠っていたらしい。掛け布団がベッドの下に落ちていた。目覚まし時計は十三時を過ぎていた。
「さむっ」
 身震いしてすぐにベッドを出た。スリッパを履いて暖房をつける。もう諦めてカーテンも開けた。窓の結露を手のひらで拭う。重たい雲が太陽を遮っているせいで外は灰がかっていた。
 南西に、豪徳寺を取り囲む社寺林が見えた。身を切るような寒風に、薄くなった葉がそよいでいる。間取りは1Kと狭かったが、この景色が好きで大学二年生から、かれこれ五年ほど住んでいた。
 ベッドに腰掛けてスマートフォンをひらく。何度見ても変わらない。やはり、水川からの連絡はなかった。
 ラインを閉じて、検索アプリをひらいた。『好きな人が夢に出てきた 占い』と検索タブに入れる。ポジティブな意味だと両思い、ネガティブだと恋愛運ダウンらしい。いくつかのサイトを横断してから、検索履歴を消した。
「乙女かよ……」
 小っ恥ずかしくなって、自嘲気味に呟いた。
 でも、ちょうど夢で見たあのときだ。ああして過去の彼氏を笑い種にしているとき、私は密かに水川に恋をした。酔ったときのいつもより明るい声に。口先だけではない優しさに。照れたとき口許を抑える癖に。いつでも端麗な横顔に。水川は、過去の男達の持っていない魅力を持っていて、過去の男達が持っていた欠点を持っていなかった。
 それなのに――
「連絡くらい返せよ、ばーか」
 一人暮らしは独り言が増えて仕方がない。片想いは文句が増えて仕方がない。返信がないと不安が増えて仕方がない。
 私は熱いシャワーを浴びた。酒のにおいが染みついている気がして、いつもより長めにお湯を流した。風呂場を出ると、外行きの服に替えて、髪を巻いた。
 このままずっと家にいたら、いよいよ気分が沈むという予感があった。こんな曇り空でも外に出た方が幾分かマシだ。
 それに、虫の知らせということもある。外に出たら水川に会えるかもしれない。

    4

 淡い期待が砕かれるのは、よくあることだ。こと人生においては『これ以上ないほどの最悪』を何度も味わうことになる。
 でも、何も今でなくても良かったはずだ。
 好きな人から避けられていると発覚し、居酒屋では馬鹿な大学生に絡まれ、下品などんちゃん騒ぎを目撃し、タクシーの運転手にはセクハラされた翌日、トップオブクソ元カレからのメッセージを見て、気を晴らすため北新宿のショップまで来たのに雨に降られた、その直後でなくても。
「……元気だった?」
 軽薄な声が嫌いだった。
「三年ぶりくらい? 緋奈、やっぱ美人だよね」
 いちいち人を評価してくるところが嫌いだった。
「まだ彼氏いないの?」
 語尾につく耳障りな笑い声が嫌いだった。
 私はそちらを見ないようにして、スマートフォンに目を落とした。幸い、通り雨のようで十五分程度で止むらしい。曇天から銀針のような雨が絶え間なく降り続いている。雨で煙る景色の遠くには、総武線の高架が見えた。電車が先を急ぐように走っている。ここからの最寄りは東中野だ。急げばこの雨でも行けるだろうか。
「……あんま無視されると、傷つくんだけど?」
 低い声で、顔を覗き込まれた。濃すぎるフレグランスが漂ってきて、二、三歩後ずさった。
「……なんでここにいるの。袋井」
 パーマがかった黒髪、ぶらぶらと揺れるピアス、趣味の悪い服、締まりのない表情、中学生並みの身長。どれも別れたときから変わっていない。変わらず、私を不快にさせる。
「名前で呼んでくれたらいいのに」
 トップオブクソ元カレこと、袋井は、肩に手を置こうとしてきた。私は身をよじって躱した。護身用のスプレーを持ってきていないことを悔やんだ。
「うわ、超他人行儀じゃん。なに、まだ怒ってんの?」
「別に、どうでもいい」
「はは、ガキじゃないんだからさあ。普通に会話しようぜ」
 袋井は小馬鹿にするように鼻を鳴らした。ガキみたいな身長をしているくせに、と喉元まで出かかった。
「で、なんなの。ストーカー?」
 別れてからずっと音沙汰なかったのに、久しぶりにどういでもいいメッセージを送ってきたと思ったらこれだ。疑うなというほうが無理がある。
「自意識過剰かよ」
 袋井はまた鼻を鳴らした。
「偶然だっての。俺、この辺に住んでるの。帰りなんだよ。雨宿りしようと思ったら、知ってる顔があったから、声かけただけで……そんな邪険にすんなよ」
 邪険なんて言葉が袋井の口から出てくるとは思わなくて、少し驚いた。袋井はもっと安易な言葉ばかり使う人間だったはずだ。やべー、すげー、えぐー、この三つくらいで会話をできるような、そんな人間だった。
 私の視線に気づいたのか、袋井は片頬を上げた。相変わらず嫌な笑い方だった。
「なに。そんなに不思議? 三年も会ってなかったら変わるっての。緋奈は変わらず綺麗だけどな」
 袋井の視線は私の胸と顔を行ったり来たりした。私は腕を組んで隠した。
「で、なに。なにか用?」
 トタンでできた軒がタタッ、タタッ、タタッ、と軽い音を立てている。
「元カノに声かけて悪い? 三年も付き合った仲じゃん」
「あんたが別れようとしなかっただけでしょ?」
「ははは、はっきり言うじゃん」
 袋井は口だけで笑った。
「今日はどっか出かけてたの? 彼氏?」
 なんでもすぐに恋愛の文脈に乗せたがるところも嫌いだった。
「どうでもよくない? 話す意味ないでしょ」
「……俺、そんなに嫌われるようなことしたかなあ」
 袋井は唇を尖らせた。
「確かにちょっとは悪かったけど、愛想悪くね?」
 袋井はまた鼻を鳴らして、肩を竦めた。まるで聞き分けのない子どもに向けるような態度だった。やはり何も変わっていない。

 袋井の話をすると、大体の人からは同情してもらえる。中には似たような経験をした子もいて、まるで自分のことのように憤慨されることもあった。
 付き合い始めたのは大学一年の終わりからだった。向こうから告白されて、断る理由もなかっらから付き合った。今にして思えば、人生最大の失態だった。
 袋井は一言で表せば「プライド以外はなにもない男」だった。いつも誰かを見下せる話題を探しており、関係が薄くても立場の強い人間を友達だと豪語して憚らなかった。虎の威を借る狐を地で行くタイプで、そこかしこでよく問題を起こしていた。
 友人には何度も別れた方がいいと諭された。「あんなチビクズとよく付き合ってられるね」普段は温厚な友人でさえ語気を強めた。
 それでも別れるのに三年かかった。
 袋井の人柄を表すのにとっておきのエピソードがある。一年記念日のデートだ。待ち合わせは新宿の南口、休日のよく晴れた日だった。暖冬の影響か、道行く人はみな、軽装だった。
 私はこの日、別れを切り出すつもりだった。
 二つ返事で付き合って、期待を持たせたのは私だ。でもそろそろ義理も果たせただろう。そう思った。一年記念日にわざわざデートをするのだって、筋を通すつもりだった。
 袋井は待ち合わせに五分ほど遅れてきた。
「遅れたわ。ちょっと道案内頼まれちゃってさ」
「連絡してくれたら良かったのに」
「ああ、充電がなくて」
 嘘だとはすぐに分かった。彼は自分の非を認めるということを知らなかった。
「じゃあ、行こっか」
 謝ることもなく、袋井は手をつないできた。手汗で湿っていて冷たかった。
 行き先はあらかじめ決めてあった。ルミネ新宿店を回って、ランチは千駄ヶ谷のイタリアンレストラン、西新宿で映画を見て、ディナーはハイアットリージェンシーでとって、終電までには解散する。
 店の予約も取ってあった。「適当でよくね」と面倒がった袋井の代わりに、私がすべてプランを組んだのだ。相談もしていたし、何度も確認を取った。ありがとうなんて一言も聞けなかったけど、どうせ最後だとすべて飲み込んだ。
 だというのに、袋井はこう言った。
「買いたいものないし、別の場所いかね? カラオケとか満喫とか」
 別に行き先の変更自体はよかった。本当は昼過ぎからが良かったが、嫌がった袋井のため、ランチまでの時間つぶしを組んだだけだ。
 だが、指定された場所には問題があった。袋井の手が私の手の甲をさすっている。視線は熱を帯び、胸元に注がれている。片頬を歪ませるように笑っている。密室で何を要求されるかは分かりきっていた。
 断ると不機嫌になるのは経験済みだった。私は慎重に言葉を選んだ。
「ええ~、私買いたい物あるんだけど」
「なに、今日じゃないとダメなの?」
「別にダメじゃないけど……」
 そこで横目に袋井を見た。わざとらしく頬を膨らませてみて声のトーンを上げる。
「……せっかくなら一緒に服も見たいなって思って」
 数時間後には振るのに、期待を持たせるのは申し訳ない気がした。でも少しだって袋井に触れられるのは我慢ならなかった。手をつなぐので精一杯だ。きっと今日はこれ以上ないだろう。
「分かった……」
 声のトーンは落ちていたが、不機嫌というほどではなかった。
 ルミネでは見たくもない服を一緒に見て、欲しくもないペアルックの帽子を買った。服もいくつか試着したが、袋井はそのたびに「あの人よりも可愛い」「この人よりも似合っている」と他人を引き合いに出した。
「あの店員も同じやつ着てるけど、全然似合ってないよね。なんでああいう人が服屋で働いてるんだろう」
 料理が美味しいと語るのと同じ熱量だった。語尾に嘲笑の気配があった。
 試着室の鏡で、自分の顔がひどく疲れているように見えた。大丈夫、今日で終わりだから。そう言い聞かせると口角がひきつって上がった。

 ここまで話すと、大抵の女友達は憤慨した。
「なにそいつ。何様って感じじゃん」
「大してモテなくて、お情けで付き合ってもらってるくせに、勘違い野郎だね」
「カスじゃん、クソ。ゴミ」
「緋奈、よく付き合ってられたね。あたしだったら無理だわ」
 みんな自分事のように言葉を荒くしては、袋井を口汚く罵った。そして段々、いかに上手く袋井を貶せるかの大会に変わる。
 男友達だと、男というところで引け目でもあるのか、もう少しトーンが落ちるが、やはり同じ反応をもらえた。雨宮も水川も、「パンチの効いた彼氏」とか「礼儀のなってない子ども」とか「ダメ彼氏の見本市」と形容した。
 そうして、ひとしきり袋井をこき下ろすと、男女ともに続きを促してくる。
「で? なんで別れられなかったの?」

 ルミネを出て、千駄ヶ谷まで移動しようとしたところで、袋井がそんな気分じゃないと言い出した。
「イタリアンとか堅苦しいんだよな。記念日で気遣ってくれてるのはありがたいけど、そんな無理せず、等身大でいこうぜ」
 この「等身大でいこう」というのが、当時の彼のお気に入りの言葉だった。身長の低い袋井が言うと自虐に聞こえた。私は溜め息を堪えるのに必死だった。
「もう予約取ってあるんだけど」
 少し語気を強めても、袋井は気づかなかった。
「電話して断ったらいいじゃん」
「最初にちゃんと確認したよね」
「したけど、あんまり見てなかったんだよ」
「何回も確認したんだけど」
「あーあー、それは悪かったね」
 どんどん袋井が苛立ってきているのが分かった。
「電話するのだって私だし」
「は? 別に頼まれたらやるけど」
「そういう意味じゃない」
 袋井は握っていた手を離し、だらりと下げた。往来で、傷ついた顔を隠しもせず立ち止まった。
「……俺、記念日に喧嘩したくないんだけど」
 私は袋井の手を引っ張って、近くのスターバックスに入った。昼時だからか人は多かった。
 席に着くなり言った。
「もう、別れよう」
 一瞬、周りの音が消えた。袋井は、飼っているヨークシャテリアが実はヒメコンドルだったんだよと言われたような顔をした。
「えっ、は、なんで?」
「言わないと分からないの?」
 悪いとは思いつつ、あまりの察しの悪さに、鼻で笑ってしまった。
「分かんないよ!」
 袋井は音を立てて立ち上がった。視線が集まった。袋井はそのままの体勢で続けた。
「俺なんか悪いことした? 今日だってちゃんとエスコートしてたじゃん。車道側歩いたし、帽子だって買ってあげたし、荷物だって持ってるのに」
 そんな情けないことを大声で言わないで欲しかった。
 車道側を歩くと言って聞かないから歩いてもらっただけ。買ってあげると譲らないから買ってもらっただけ。荷物を持つというから持ってもらっただけ。恩に着せるなら、初めからやらないでほしかった。
 私は言いたいことをすべて飲み込んで、無言のまま睨み付けた。袋井は集まっている視線に気づいたのか、大人しく座った。
「俺、緋奈がいなくなったらダメなんだよ。もう絶対彼女もできないし、緋奈が最後だって分かってるから」
 袋井は静かな声で泣いていた。隣に座るカップルが笑い合っているのが横目に見えた。
「悪いところがあるなら直すから、別れるなんて言わないでよ」
「どうせ直せないよ」
「なんで……? なんでそういうこと言うの?」
 押し問答をしても無駄だと思い、私はいくつか挙げた。
「他人をいちいち評価するのをやめて。すぐに嘘だと分かる言い訳をしないで。誘いを断ったとき不機嫌にならないで」
 袋井はあからさまに傷ついた顔をした。同情を買うような、こちらを責め立てるような、卑怯な表情だった。
 唇を震わせて、袋井は言った。
「それをやめたら、緋奈は別れないでくれるの?」
 非情になりきれなかった私にも責任はあった。いたたまれなくなって、
「考える」
 と口にしてしまったのだ。袋井は涙を拭って、へらりと笑った。
「分かった。全部直すから。緋奈とはこれからも、俺ららしく、等身大で付き合っていきたい。これからもよろしくお願いします」
 真面目くさって頭を下げてきた。私は溜め息を飲み込んだ。刑期を延ばされたような気分だった。
 その後、カフェを出てすぐ、ラブホテルに連れ込まれた。人生で最悪のセックスは何かと聞かれたら、多分この日のセックスを挙げるだろう。

 ここまで話すと反応は二極化する。ものすごく同情されるか、ものすごく馬鹿にされるか。
 女友達の中でも、私を馬鹿にする声と、擁護する声が入り乱れた。
「一年なら分かるけど、追加で二年はもう緋奈も悪くない?」
「いや、断れないでしょ。何されるか分からないし」
「でも相手はチビなんでしょ? 余裕じゃん。無駄な時間過ごしたね」
「そのときは殴られなくても、後で殴られるかもしれないし。危害って殴るだけじゃないしね。むしろちゃんと別れられてラッキーだったよ」
 理解と無理解のあわいを全員が漂っていて、大抵は答えも出ないまま有耶無耶になって終わる。いや、そもそも袋井との関係に答えなんてないのだ。関係を持った時点で間違っている。そういう人だったから。
 雨宮と水川の反応も二極化した。雨宮は私を馬鹿にした。
「それで、三年付き合ったってことは……あと二年もずるずる付き合ったってこと? 馬鹿だなあ。浮気でも何でもして関係切ればよかったのに」
 不快ではなかった。私自身、馬鹿だったなあと思うし、せっかく笑わせるために話したのだから、そのくらいの反応でないと張り合いがないと思っていた。
「そうなんだよね。さっきの雨宮風にいえば、好きでもない男と延々とデートとキスとセックスをする生活って想像できる? って感じで」
「最悪だな」
「そう、最悪なの」
 私たちは笑い合って、酒を呷った。こうして新たな関係構築の礎になるなら、あの経験もそこまで悪いものではないという気さえした。
 でも水川はそんな私を見ながら、ぽつりと言った。
「桔梗。大変だったね」
 酒で潤んだ瞳は、痛ましげに歪んでいた。
「それ、きつかったでしょ。やりたくもないことを強要されるのってきついじゃん。恋人とはいえさ」
「いくらチビでも、男相手だと抵抗できないしな」
 雨宮は半笑いのまま同調した。水川は責めるような目を向けた。
「相手がチビとか、力が弱いとかは関係ないよ。たとえ勝てたとしても、抵抗したらこの後どうなるかって、そういう不確定性が怖いじゃん」
 私も雨宮もグラスを置いた。白けたというのとはまた違う。真剣に聞かなくてはいけないと思った。水川の静かな声には、そういう迫力みたいなものがあった。
「……だから桔梗は本当に凄いよ。ちゃんと話し合いで解決したんでしょ? 尊敬する」
「なに、酔ってるの?」
 私は茶化すように言った。水川はゆるく首を振った。
「本心。桔梗はすごい」
「そ、そう……ありがと……」
 もう冗談を言えるような空気でもなかった。雨宮がすぐに取りなしてくれたが、水川の声はいつまでも耳から離れなかった。
 あの瞬間から私の恋は始まったのだ。

「ねえ、緋奈。また付き合えないかな」
 近づいてきた袋井が、突然そう言った。雨のにおいとフレグランスが混ざっていて、鼻に皺が寄った。私はもう二、三歩後ずさった。
「は? ない。絶対にない」
「そんなこと言わないでさ」
 袋井はへらりと笑った。私に触れようとしているのか、中途半端なところで手はうつろっていた。
「俺だっていろいろ変わったし、見てからでも遅くないって。大学の時はそりゃ、俺も若かったしさ……絶対後悔させないから」
 どうしてチャンスがあると思えるのか不思議だった。
「俺、いまフリーなんだ。緋奈も彼氏いないんでしょ?」
 もう二十分は経ったのに、雨はずっと降り続けている。
「俺は緋奈のこと知ってるし、お互い良い歳じゃん。そんな意地張ってないでさあ……」
 スマートフォンをひらいた。ここから東中野まで、徒歩で十五分だった。雨は一層強まっている気がする。袋井が近づいてきて、甘えるような声を出した。
「なんで無視するの?」
 タクシー会社のアプリを立ち上げる。昨日の運転手の粘つく声が蘇る。でも、元カレと肩を寄せ合って雨宿りするよりはマシだ。そして雨の中を駆け出すよりは。
 だがそのときスマートフォンを横から取り上げられた。バチャっと足下で水が跳ねた。
「なに……返して」
 手を差し出すと、袋井は拗ねた顔をした。スプレーがあれば。
「無視するからじゃん」
「いいから、返せ」
 袋井は溜め息をついて、私の手に置いた。
「分かった。返すからまずは話を――」
 その瞬間、私は走り出した。冷たい雨がどんどん身体を濡らしていく。濡れた靴下がぐちゃぐちゃと音を立てる。どれだけ走っても袋井がついてきているような気がした。
 無駄に道を曲がりながら、信号を無視して、東中野駅のトイレに駆け込んだ。息を整えながら濡れた髪をかき上げる。せっかく巻いたのに。化粧だって台無しだ。
 鞄からハンカチを取り出そうとして、手が震えているのに気がついた。
 あのとき、水川に言われたとおりだった。たぶん袋井相手なら、力勝負になっても負けないだろう。でも違う。袋井にスマホを取り上げられたとき、それを脅しに何か要求されるかもしれないというのが一番恐ろしかった。
「っく……ぅぐっ……」
 こんなことで泣きたくないのに、こみ上げてくるものは抑えられなかった。どうして自分がこんな目に遭わなくてはいけないのか、そういう思いだけがあった。
「水川……」
 かすむ視界の中スマートフォンをひらいた。助けを求めるようにラインをひらく。

 〉元カレと会ってさ

 そう送りかけてやめた。私は水川の恋人にはなりたいけど、悲劇のヒロインになりたいわけじゃない。まして水川の優しさに付け込んで気を引こうなんて最低だ。
 涙が収まるまでここにいようと、暇つぶしにインスタをひらいた。袋井からまたメッセージが来ていたが、もう見ることもなかった。ストーリーを流し見して、投稿にリアクションをつけていく。
 そして、見つけてしまった。
 普段は大して使っていないはずの水川の投稿だった。女の子が対面に座っているのが分かるアングルで、料理の写真を上げていた。不慣れなのか、狙っているのか、タグや投稿文はなかった。投稿時間は数時間前だった。
 卵を割られたクリームパスタと、その奥にうつる女の子の細腕。二枚目にはその子とのツーショットまであった。今どき無加工なんて、水川くらいだ。
 画面の中で、化粧っ気のない素朴な感じの子が笑っている。年齢は分からないが、大学生くらいに見えた。二人で顔を寄せ合っていて、友人の距離感ではなかった。少なくとも、私とこんな写真を撮ったことはない。
 そして――水川に姉や妹はいない。
 私は恋をしてから初めて、水川の投稿にリアクションを送らなかった。
 影だった女が、いきなり輪郭を得てしまった。

   5

 翌週の土曜日、私はなるべく地味な服を選んだ。メイクも最小限にして、長い髪は一つにくくった。普段からメイクを頑張っていて良かった。これで、ぱっと見は私だと分からないだろう。
 鞄にはスマートフォンと財布、いざというときのサングラスとマスクを入れた。盗聴器でも用意しようかと頭によぎったが、さすがに一線を越えているのでやめた。
 私はキャップを目深に被って家を出た。
 雨宮も女の子のことは知らなかった。インスタをやっていないから、当然といえば当然だ。写真を見せると力なく首を振った。
「水川もこんな風に笑うんだな。あんまりイメージなかったわ」
「水川、結構笑うよ。先月も出かけたとき笑ってたし。雨宮はあんまり見ないんだ」
 強がってみるが、正直、私も同じ感想を抱いた。この写真の水川と普段の水川と、笑顔の質が違う。写真の水川は心から楽しげで、どこか甘やかだった。それこそ、本当に親しい人にだけ見せるような――
「言ってて虚しくならない?」
「うるさい」
 今さらの話だ。ずっと私ばっかり一人相撲をしている。
「まあでも……そういうことなんじゃねえの。避けられてたのも、女のプレゼントも」
「水川からは? 何にも聞いてないの?」
 雨宮は私の目をじっと見つめていた。
「ああ……なにも――」
「また嘘つく気?」
 思ったよりも低い声になってしまう。雨宮はお手上げだというジェスチャーをした。
「その女の子については知らないけど、昨日、『女が喜ぶデートってどういうのがある?』って聞かれた。無難に水族館とか映画とか、そういうのを勧めた」
 つまりこの女の子とまたデートに行く約束があるということだ。
「その先は?」
 会社の休憩中だった。雨宮と二人で話しているせいか、妙に視線を集めていた。水川は外回りに出ていていなかった。
 雨宮は席を立ち、私を給湯室まで誘った。
「別に気にしないけど」
「俺が気にするんだよ。ほら、男は女と話しててもグチグチ言われないけど、女は違うだろ。いつも誰かの悪口で盛り上がってる。桔梗が言われてるのも聞いたことある」
「言わせておけばいいよ。そんなの」
 気遣いはありがたいが、どうにも軽んじられている気がしてならない。それに、休憩時間はそこまで長くない。
「それより、水川はなんて?」
「たぶん映画に惹かれたんだと思う。上映中のおすすめ映画を聞かれたから、一番有名なやつを教えといた。恋愛系だな」
「それって……」
「『千リットルの花束』ってやつだけど」
 頭を殴られたようだった。その映画は先月一緒に出かけたとき、今度一緒に見ようと約束していたものだ。確かに口約束だったけど。でも!
「……他には?」
「あとは……映画館は昼時に行った方がいいって教えた。空いてるからな。映画館のあとに行く場所も迷ってたみたいだから、それもいくつか教えた。……デートスポット、俺がほとんど考えてるな」
「もうない?」
「職質みたいなのやめろよ。本当に終わり。これだけだよ」
 雨宮は肩を落とした。
「もういい? そろそろ休憩も終わるし……」
「うん、ごめん。ありがとう」
 礼を言うと、雨宮はふっと頬をほころばせた。
「あとでどの映画館を教えたか、ラインしとく。その場でチケット予約取ってたから、日時も。こういうのあんまり良くないんだけど……今のお前、見てらんないわ。少し休め」
 雨宮は給湯室を出て行った。
 私はトイレに入って、鏡を見た。確かにひどい顔をしていた。ここ二、三日まともに眠れていなかった。
 会社でも水川とは会えていない。彼は何も知らないのだ。自分の連絡ひとつでひとりの人間の精神状態を悪化させていることも、自分の態度ひとつでひとりの人間が救われることも。
 この顔を、水川に見せつけてやりたい気がした。

 電車を乗り継ぎ、十一時には映画館についた。新宿のトーホーシネマズだった。休日ということもあって賑わっていた。中には椅子がなく、仕方なく壁により掛かった。カップルの姿が多く、水川に似た男も大勢いた。つまり、小洒落ていて、背が高くて、優しそうな顔立ちの男だ。
 雨宮からのラインを見返す。水川はどうやら、十一時半からの枠で見るらしい。ここで待っていたら早晩、姿を見ることができるだろう。
 尾行をすることに罪悪感がないわけじゃなかった。でも先月は一緒に出かけたのに、いきなり避けられて、しかも原因が女かもしれないとなっては、確かめたくもなる。それに、この映画はもともと私と一緒に見る約束をしていたのだ。それなのに……
 と、そこで、水川を見つけた。売店で注文をしていた。その隣には写真で見た女の子がいた。緑色のニットにジーパンというラフな格好だ。メイクは薄く、アイラインが引かれているくらいしか、傍目には分からなかった。
 何を話しているのかは聞こえない。だが二人とも受け取り口の近くで、店員がポップコーンをかき混ぜているのを見ながら、笑顔だった。
 私はサングラスとマスクをつけて、注文に迷っているふりをしながら二人に近づいた。
「……は、京ちゃんが好きな方でいいよ」
 京ちゃんは水川のことだ。水川京介だから京ちゃん。安直でいいあだ名だ。
「じゃあハンバーガー」
「いいね。マック?」
「バーキンはどう」
「あー、バーガーキング? 食べたことないんだよね」
「じゃあちょうどいいじゃん。行こうよ」
「この辺にあるの?」
「うん、駅の方にあるって」
「詳しいね、さすが」
「会社の同僚に教えてもらったんだ」
「へー、男?」
「男だよ」
「女友達はいるの?」
 どきりとする。
「なんで急に」
「京ちゃんモテそうだから、一応ね。一応」
「いるにはいるけど……」
「けど?……あ、すみません」
 そこで、女の子が後ろに立つ私に気がついた。水川ともサングラス越しに目が合う。でも私だと気づかなかったようだ。私は会釈して注文カウンターに並んだ。炭酸は苦手だったが、コーラを頼んだ。その場で受け取って壁際に戻る。
 それから映画の上映時間まで、二人は、自分たちの世界に入って話し続けていた。もう内容は聞こえなかったが、水川の顔からも、女の子の顔からも、笑顔が絶えることはなかった。
 それから二十分後、腕を組んだ二人がシアターに消えていくのを見て、私は映画館を出た。半分以上残ったコーラはそのままゴミ箱に捨てた。
 新宿駅に向かいながらサングラスとマスクを取る。まだ十二時前で往来には人が多かった。目の前がかすんで足下がふらついた。すんでのところでぶつからずに済んだが、嫌な顔で舌打ちをされた。
 こんなことなら、尾行なんてしなければよかった。家で大人しくしていたらよかった。女友達がいるかと聞かれたとき、どうして即答しなかったのだろう。女の子の気を損ねるからだろうか。それとも、私はもう、水川の――
 私はインスタをひらいて、一週間放置した袋井からのメッセージを確認した。

 〉逃げないでよ
 〉無視するから悪いんじゃん
 〉怒ってんの?笑
 〉だる、もういいわ

 〉また間違えた。ごめん
 〉スマホ取るとか最低だよな。謝りたい
 〉ごめんなさい

 〉返事欲しい

 〉無視されてもいいから謝るよ。ごめん

 〉許してとかは言わないけど、でも信じて欲しい
 〉俺は本気でひなのこと好きだから
 〉連絡欲しい

 二日前までは毎日メッセージを送ってきていたらしい。元カレに会いたがる人間の気持ちが分かる気がした。寂しさを埋めるためではない。みんな自分を粗末に扱いたい気持ちになって、元カレと会ってしまうのだ。
 私はインスタを閉じて小田原線から帰りの電車に乗った。家に着くと着替えることもなくベッドに倒れ込んだ。涙は次から次へと溢れてきた。

 〉上手くいったか?

 雨宮からそう連絡をもらったが、返すことも出来なかった。

   6

 週明け、私は部署の飲み会に参加していた。店は祐天寺にある小洒落た居酒屋だった。会社が代官山にあるのでアクセスが良かった。
 店の軒には赤提灯がぶら下がり、門塀から入り口までに飛び石が配置されていた。日本風の外観は気に入ったが、始まってすぐ来なければ良かったと後悔した。
 もともと不参加のつもりだったが、上司に「これも仕事だから」と押し切られた。水川がいたらもう少し、と考えたが、同じくらい、いたら何が何でも参加しなかっただろうとも思った。
 乾杯が終わった座敷はすぐに上座も下座もなく入り乱れた。私を誘った上司は赤ら顔で誰彼となく絡んでは眉をひそめられていた。私は目をつけられないよう、座卓の端でひとりウィスキーを飲んでいた。つまらない時間だった。
 さっきまで後輩がひとりいたが、いつもに増して無口な私に気が滅入ったのか、それとも目当ての先輩にアピールでもしにいったのか、何も言わず離れていった。
 こっそり帰ってもバレなさそうだと、財布から金を出そうとしていると、
「連絡くらい返せよな」
 雨宮が何の断りもなく、私の隣にどっかりと腰を下ろしてきた。その拍子に雨宮のビールが私のジャケットに跳ねた。横目で睨むが、雨宮はどこ吹く風というふうで取り合わなかった。
「まだ帰るなよ、これも仕事だ。後輩が真似していいのか?」
 言われて、浮かしかけた腰を戻す。盛り上がっているほうに目を遣ると、後輩は壮年の男性社員数人に囲まれて、唇をとがらせたり、頬を膨らませたり、ときどき肩を小突かれたりしながら、上手く溶け込んでいた。
 私はおとなしく財布をしまった。
 雨宮は鼻を鳴らして、「いい子」と子ども扱いするような口調で言った。
「で、どうだったんだよ? 水川のこと、尾けたんだろ」
「どうもこうも……」
 テーブルに並んだサラダを取り分けながら、どう話を逸らすべきか考える。元カレとの再会。水川への疑念。どちらも話したいことではない。
 サラダを雨宮に渡しながら、
「あれってどう思う?」
「あれって?」
 後輩に悪いとは思いつつ指で示した。
 後輩は今やひとりの男性と寄り添うようにぴったりとくっついていた。青椒肉絲の大皿を中心に、他の男性社員とも顔を寄せ合って、何事かを話している。妙に真面目な表情だったのが滑稽だった。
「まあ時代錯誤ではあるわな」
 雨宮は興味なさそうにジョッキに口をつけた。
「でもいいんじゃね? ああやって上に気に入られるのだって仕事のやり方のひとつだし。なに、桔梗は気に入らないの?」
 嫉妬してるの、と問い返されたような気になってむっとした。確かに後輩は私よりも若いし可愛いけど。でも、
「そういうことじゃない」
「じゃあなんだよ」
 雨宮はまた鼻を鳴らした。
「見ていて不快か?」
「大きく言えばそう」
「なんで?」
「……見たくもない動物の交尾を見させられてる気分になるから」
 言い得て妙だわ、と雨宮は満足そうに笑った。
 でも本当にそれだけだろうか、とも思った。これは、もっと根本的な不快感ではないのか。喩えるなら動物の交尾ではなくて、虐殺や差別やいじめや、そういうもっと薄暗い行為を目撃したときのような……
 そのとき、どっと盛り上がった笑いが起こった。後輩は大きく口を開けて、のけ反っている。寄り集まった男性社員は、口だけで笑いながら、後輩の唇をじっと見つめていた。口内を覗いているようにも見えて肌が粟立った。
「うわあ、すげえ。こりゃあお持ち帰りコースだな」
 見ていたらしく、雨宮がそう言って笑った。よく見ると、寄り添っている男性社員の手は、後輩の腰に回されていた。
 そして後輩はその大きな手から逃れるように、腰を反らしていた。
 少なくとも私にはそう見えた。
「若いねえ」
 楽しげに歪んだ雨宮の瞳が気に入らなかった。あれを動物の交尾に喩えるなら、雨宮はただの見物人だ。でも、差別だとしたら。雨宮は傍観者だ。共犯者と言い換えられるかもしれない。
 そして私も――
 耐えられなくなって席を立った。どうした、と怪訝な雨宮の声を無視してテーブルに近づいていく。
「あ、先輩」
 後輩が真っ先に気づいて、私を見上げて笑った。鼻頭まで赤くなっていて、瞳は潤んでいた。
「ちょっと飲み過ぎじゃない?」
 私は笑顔をつくったまま、後輩の隣に腰を下ろす。急に輪に入ってきたことに驚いたのか、みんな目を丸くしていた。
「この子、そこまでお酒強くないのであんまり飲ませないでくださいね」
 先輩社員ばかりだったが、釘を刺しておいた。わはは桔梗さんは手厳しいな、と一番の年長者が冗談めかして笑った。
 愛想笑いで牽制して、後輩の腰に目を遣った。後輩は視線に気づいたのか、眉をひそめて頷いた。やはり。声をかけて良かった。
 私はやんわりとその手をどかした。
「それに、あんまり女性にベタベタするものじゃないですよ。これも仕事の一環なんですから」
 と笑いかける。一年先輩のその男は半笑いで、何を言われたのか分からないという顔をしたが、後輩の目を見ると、ぱっと手を離した。
「あーごめんごめん。つい。ね」
 後輩は眉をひそめたまま笑って、外の空気吸ってきます、と席を立った。男は気まずそうに視線を流して、嫌なら言ってくれたら良かったのに、と呟いた。
 私はもう何も言わず席に戻った。背中からひそひそ声が聞こえてきたが、何を言われているのかは分からなかった。
「おつかれ。まあ落ち着けよ」
 雨宮は苦笑いしていた。ロックグラスに口をつけ、琥珀色の液体を一気に飲み干した。唇に氷が当たってひりひりと痛んだ。
「落ち着いてるけど」
「うそつけ。そんなに不快だったか?」
「あの子が嫌がってるのが遠目でも分かっただけ」
「そうだったか……?」
 雨宮は首をかしげた。その手からビールを奪い取って流し込む。胃まで一直線に麦芽のにおいが落ちていく。店員を呼び止めて、追加のおつまみと熱燗も頼んだ。お冷やもお持ちしますか、と店員が気を利かせてくれたが断った。
「飲み過ぎるなよ?」
 去っていく店員の背中を見送って、雨宮は口を開いた。
「お前の勘違いじゃないことを祈るわ。さっきのやつ」
「なにが」
「後輩のこと」
「どういう意味?」
「いや、あそこにいるのみんな先輩だから。波風立てるのもさあ。分かるだろ」
 雨宮はジョッキを傾けて、中身がないことに気づき、水に変えた。溜め息が聞こえる。
「女の味方はいいけど、あんまり首突っ込みすぎるなよ」
「なに、女の味方って」
「桔梗はそうだろ」
「じゃあ雨宮は女の敵だね」
 雨宮は目を逸らした。後輩はなかなか戻ってこなかった。私はスマホを取りだして、『きつかったら帰ってもいいからね』後輩にそうラインを送っておいた。既読はすぐについたが返信はなかった。
「あの子、帰るかも」
「まあ、居づらいかもな」
「悪いことしたかな」
 そうだとしたらやり方を間違えたかもしれない。雨宮は甘やかすようなことは言わなかった。
「そんな顔をするなら、初めから関わるなよ」
「でも、見捨てられないでしょ」
「あんなのただのスキンシップだっただろ」
 そうなのかもしれない。でも、そうじゃなかったかもしれない。
「男の怖さは男には分からないよ」
「女の怖さも女には分からないように?」
 こういう問い返しが嫌いだった。顔に出てしまったのだろう。雨宮は大きくため息をついた。
「俺たち全員、大人だぞ。そんなことまで桔梗がやってやる義理はないだろ。嫌なら本人が自分で断ればいい」
 さっきの男性社員の言葉が蘇った。嫌なら言ってくれたら良かったのに――
「そういうの、嫌い」
 つい語気が強くなる。雨宮はさっきまで緩んでいた口許を引き締め、続きを促すように首をかしげた。
「断れなかったんだよ。男性とか女性とか関係なく、先輩だし、そもそもこういう場だし。雰囲気もあるじゃん。それなのに断らない方に問題があるって言い方は嫌い」
 雨宮は咀嚼するように何度か頷いて、
「でも、心配の連絡に返信しないような後輩、庇う必要あるのか?」
「それは……」
 つい言葉に詰まった。雨宮はまくしたてるように言った。
「それに俺に言わせれば、あれだけ距離の近い後輩の方にも問題がある。勘違いされてもしょうがないだろ。多少は接触くらいされる」
「しょうがなくない。大人なんだから、自制心は持つべきでしょ」
「それは後輩もだな。あいつだってベタベタしてたし。勘違いの種だ」
「勘違いされるようなやつが悪いって? そういう発想が……」
 嫌い、と言いかけたところで後輩が戻ってきた。
 私のところまで小走りでやって来て、さっきはありがとうございます、あの人ベタベタしてきて困ってたんですよ、と耳打ちして、今度は女性社員の集まる座卓にいった。吐息からは、かすかに煙草のにおいがした。
「よかったな。桔梗のおかげで助かったってよ」
 雨宮は後輩が去るのを待ってから、当てつけるように言った。私も言い返す。
「ほら、やっぱりあの子は嫌がってたし、断れなかったんだよ」
 つい勝ち誇った口調になってしまう。
 雨宮は、はいはい、と取り合わず、また溜め息をついた。
「そんなにカリカリするくらいなら、水川のこと話せよ。少しは楽になるだろ」
「別にカリカリなんて……」
「してるよ」
 強い語気で被せられて、ぐっと言葉に詰まった。雨宮は赤ら顔だったが、確かな瞳で私を見ていた。
「普段だったら俺には当たらないし、後輩のことももう少し上手くやっただろ。お前そういうところは器用なんだからさあ」
「……さっきの言い方に腹が立ったのは本当」
 でも、雨宮の言うことも正しい。今の私は、自分で思っているよりも余裕がない。
 雨宮はふっと息を吐いた。
「で、水川と何があった?」
 私はどこから話すべきだろうかと迷って、首を巡らせた。
「実はさ……」
 声を潜めて話しかけたところで、視線に気がついた。先ほどの男性社員だけではなく、女性社員にも睨まれている気がする。さっきの後輩ですら厳しい視線を向けていた。ふと雨宮の結婚指輪が目についた。
「……なんで水川来なかったんだろう」
「そりゃあ、部署が違うからだろ」
「そうじゃなくて」
 私はテーブルの上の残り物をさらった。サラダはドレッシングを吸い過ぎてふにゃふにゃになっていた。唐揚げはベタ付いていて、箸で持ち上げると油が二、三滴おちた。皿に彫られた文字に流れていく。
 皿を重ねて置いてから、そっと雨宮に顔を近づけた。
「雨宮と二人でいると睨まれるんだよね」
「あ? ああ……まあ既婚者だからな」
 雨宮は女性社員の方を見て納得したように頷き、それから身体を離した。
「分かってるならあんまり近寄るなよ」
「え、ごめん」
「いや。俺はいいけどさ……」
 雨宮は後輩の方に視線をやって、
「勘違いされるぞ」
 と冗談めかした。
 言葉を返す前に、店員が頼んだものをもってきた。私は熱燗を受け取り、すぐに飲んだ。キリッとした辛みと熱が、全身に行き渡るようだった。空いた皿も下げてもらって、新しく来たおつまみを置いた。
「水川と勘違いされたかったか?」
 雨宮はさっそくハムカツにかぶりついた。衣がバラバラと皿に散らばった。唇が油でテカっている。大きな子どもを見ているような気分になって私は目を逸らした。
「まあ雨宮よりは」
「はは、失礼」
 雨宮は箸を置いて、おしぼりで口を拭った。どうしたらそんなに汚れるのか分からないほど、雨宮のおしぼりはしみだらけだった。
「もう少し綺麗に食べなよ」
 うっかり小言が出てしまう。雨宮は目をそらして、まあな、と曖昧に笑った。
「でも、勘違いされるのは俺もいただけないわ。嫁がまた気ぃ悪くする」
「そういえば、トップオブクソ元カノはどうなったの?」
「ああ、それは解決した」
 雨宮はふだん煙草の灰を落とすときのように、机を人差し指でトントンと叩いた。あいにく座敷は禁煙だった。
「二度と近づかないよう警告文を送って、連絡先も消した。たぶんもう大丈夫」
「本当かなあ」
 そんな程度で近づかなくなるなら、そもそもストーカー紛いなことはしないのではないか。
 だが雨宮は首を振った。
「きっぱり断ると、意外と効くもんだよ。面と向かって近づくなって言われたら、たとえ相手が他人でも少しは気になるだろ。元カレから言われたらよっぽどだ」
 一理あった。
「私も、元カレに言っておこうかな」
「ああ、トップオブクソ元カレ? 袋井だっけ。なにかあったの」
「名前、よく覚えてるね。実は――」
 私は袋井からインスタでメッセージが来たことや、北新宿で再会したことをかいつまんで話した。
 雨宮はときどき相づちを打つだけで、ほとんど黙って聞いていた。
「――っていうことで、まだメッセージが来てる」
 話ながら、熱燗はほとんどなくなっていた。雨宮はハムカツの残りを口に押し込んだ。今度は衣が落ちることもなかった。
「それは、会わない方がいいかもな」
「当然」
「ラインは? ブロックしてる?」
「それも当然」
「じゃあ大丈夫か」
 インスタもブロックしておくべきか迷ったが、自意識過剰のように思えてやめた。
 スマホを取りだしたついでに、テーブルの上の揚げ物を撮っておく。不在を埋めるかのように、今日も水川の好きなものばかりが並んでいた。こんな店ではなく、また三人で、《かがりび》で、飲みたいと思った。
「また水川に送るの?」
「迷い中。うざいかな」
「気にしすぎじゃね? 今はただの友達なんだし」
 友達、という言葉に思わず視線が落ちた。
「……向こうはどう思ってるんだろう」
 思ったよりも酔いが回っているようで、そんな言葉が出た。
「どうって?」
「映画について行ったじゃん」
「尾行したんだけどな。ストーカーともいう」
「雨宮が焚きつけたくせに」
 私はその肩を軽く殴った。雨宮は、うはは、と骨を揺らすように笑った。私は続けた。
「そのとき女の子と水川を見つけてさ」
「へえ」
 雨宮は身を乗り出すようにした。
「たぶん昼食をどうするか話してたと思うんだけど。近くにバーキンがあるからそこに行こうって」
「バーガーキングな。俺が教えた」
「うん、水川もなんで知ってるのか聞かれてそう答えてた」
「それで?」
 私は熱燗の残りを飲んだ。
「水川が同僚から聞いたんだって答えたら、女の子が『女友達はいるの』って聞いてて……」
 そこで言葉に詰まると、予測がついたのか雨宮は続きを引き取った。
「水川は答えなかった?」
「答えたけど、即答じゃなかったし。それに、凄く引っかかる言い方だった」
 今でも思い出せる。
 ――女友達はいるの?
 ――なんで急に
 ――京ちゃんモテそうだから、一応ね。一応
 ――いるにはいるけど……
「それは気になるな」
 雨宮は頷いた。
「『けど、もう仲良くない』なら凶。『けど、友達じゃなくなりたい』なら吉。でも普通に考えたら、自分の彼女に後者はない」
「やっぱり彼女なのかなあ。そりゃあそうだよなあ」
 二人はぴったりと腕を組んで映画館に入っていったのだ。
「もう、嫌われたのかなあ」
 私は徳利を置き、行儀が悪いとは思いつつ、テーブルに肘をついてもたれかかった。わずかに触れた木のテーブルは、冬の空気を吸い込んでひんやりしていた。雨宮が店員に水を頼んでくれた。
「……もし嫌われてたとして」
 雨宮は少しだけ言葉を探すような間を空けた。
「諦めるのか? 原因は何かとか知りたくない?」
 雨宮は適当に慰めたりしない。こうしたきっぱりしたところがモテるのだろうと思った。今も女子社員から忍ぶような視線を受けている。
「知りたいけど……怖いな」
「弱気だな。めずらしい」
 水が運ばれてきた。私は礼を言って受け取り、口をつけた。細かい氷が一緒に流れ込んでくる。ガリガリと噛み砕いていくたび、頭が冷えていく。
「……でも、どうせなら当たって砕ければいっか」
「そのときは、まあ、慰めてやるよ」
 雨宮はそう笑うと、「もう限界」とライターを弄びながら席を立った。
 その間にインスタのストーリーに今日の写真を投稿した。ハッシュタグには無難に流行りの言葉と、店名、祐天寺と入れておく。大学時代の友人からすぐにいいねがつけられた。水川に見せつけるつもりだったが、
「やっぱりダメか」
 水川は数日前からオフラインのようだった。
 唐揚げを取って、皿の店名を隠すように添えられたマヨネーズをたっぷりとつけた。ギトギトの油と肉汁が口内に広がった。これも自分を粗末にする一環なのかもしれない。
 少し前まではこんなことで一喜一憂しなかった。いつから私たちは変わってしまったのだろう。

    7

 一ヶ月前、雨宮の協力を得て、水川とふたりきりで出かけたことがあった。それまでは暗黙の了解として、どちらか片方とだけ遊ぶことはなかったから、初めてだった。
 三人で遊ぶ約束をしておいて、雨宮にはドタキャンしてもらったのだ。雨宮はけっこう乗り気だった。
 でも。
 思えばあの日から、水川は素っ気なくなったような気がする。何か悪いことをしただろうか、と考えるとデートの時のあれこれが頭を巡った。
 新宿でのデートだった。待ち合わせには遅刻した。夜は奢ってもらった。水川の口からは雨宮の話題がよく出た。酒を言い訳にしなだれかかった。
 それから、解散の直前――
 どうして今さらこんなことを思い出すのだろう。
 朦朧とする意識の中、何とかスツールを立つ。バーテンダーは私に気づいておらず、他の客と話しているようだった。控えめな笑い声が聞こえた。ふらつく足は言うことを聞いてくれない。鞄、鞄の中にあるスプレーは、こういうときのために。
 そんな意地張った――ないでさあ……
 嘲笑の気配を含んだ声が聞こえる。声が淀んで聞こえる。身体も水中をかき分けているように重たい。
 はなして
 声が出なかった。グラスを倒せば気づいてもらえるだろうとカウンターに手を伸ばすが、その手を取られ、腹の辺りに手を添えられた。きっと周りからは酔っ払いを介抱しているように見えるだろう。
 こいつは身長も低く、力も弱いくせに、今の私はそれよりも無力だ。
 やめて
 そう言ったはずなのに、舌が上手く回らなかった。涎が口端から垂れていくのが分かった。怖いとは思わなかった。不快だと思った。きっと恐怖を理解できるほど、私の頭は回っていない。
 だが、恐怖を解せない頭でも、走馬灯のように、水川のことは鮮明に思い出せた。
 酔ったときのいつもより明るい声。照れたときの口許を抑えて片目を細める癖。線の細い横顔の輪郭線。
 そうだ。さっきこいつに話したから、水川のことばかり思い出すのだ。
 ああ、大丈夫です……は――が……
 たぶん、バーテンダーが気づいてくれたのだろう。でも、声がどんどん遠のいていく。身体はほとんど動かない。指一本動かすのだってだるい。これじゃあ、スプレーがあっても、どうにもならない。
 重たい頭をなんとか持ち上げて、私を運ぼうとする男の顔を仰ぎ見る。歪む視界でも唇が歪んでいるのが分かった。
 じゃあ、ホテルに行こうな
 耳元で囁かれて、総毛だった。ようやく恐怖が追いついた。
 はなして、やめて
 でも声は出ない。体もまったく動かない。きたねぇ、とハンカチで涎を拭われた。どうしてこんなことになったのだろう。誰かのせいにしたくなって、水川の顔が真っ先に思い浮かんだ。
 そうだ、水川のせいでこうなったんだ。水川が急に素っ気なくするから、私は私を粗末に扱うことになって、それで――
 八つ当たりはそこで、意識と共に途絶えた。
 最後に聞こえたのはカウベルの澄んだ音だった。

     *

 飲み会が終わるころには、もうすっかり夜も更けていた。二次会に行く人を募っていたが、その輪には加わらず、へべれけになった後輩を祐天寺駅まで送っていった。
「先輩。雨宮さんと仲いいんですね」
 わずか十分ほどの道のりだったが、後輩はしきりにそう言った。どこか含みのある口調に引っかかったが、曖昧に笑って誤魔化した。どう答えたって角が立つような気がした。
「今日は助けてくれてありがとうございました」
 改札の前で、後輩は振り返った。
「ああいう場でベタベタ触られるのきつかったんで、本当に助かりました」
「気にしなくていいよ、ああいうのって……」
 困るよね、と言いかけたところを、笑顔のまま遮られた。
「でも、あれ狙ってやってたことなんで。正直、お節介ですよ。私、佐々木さん狙ってたのに。これで嫌われたら先輩のせいですからね」
「え?」
 後輩は笑顔だったが、目には私への敵意があった。さっきの居酒屋で向けられていた目とまったく同じだった。
「佐々木さんって上からも気に入られてるし、そこそこ仕事もできるんです。だから今日落としてやろうって思ったのに……」
 先ほどの男性社員(佐々木というらしい)を思いだす。仕事が出来るイメージも、上から気に入られてるイメージもなかった。あまり興味がなくて見ていなかった。
「でも、嫌がってたじゃない」
「そりゃあ、あんな大人数の前でベタベタされたら、周りからどう見られるか分からないじゃないですか」
 私は言葉を返せなかった。私はこの子の恋路を邪魔したのだろうか。
「まあ、別にこんな程度で嫌われたりしないんですけどね」
 後輩は形のいい唇を歪めて、ふっと溜め息をついた。
「先輩は雨宮さんと……なんですっけ、営業の……水川さん! 水川さんがいるからいいのかもしれないですけど、邪魔するのはなしじゃないですか?」
「あの二人とはそんな関係じゃ……」
 後輩は煩うように首を振った。
「ああ、いいですいいです。今さらそういうのやめましょうよ」
「本当だって」
「あーそうなんですね」
 後輩は、これ以上言っても無駄だろうという態度で、電光掲示板を見上げた。あと数分で電車が来る。
「とにかく、もう邪魔しないでくださいね。別に先輩がどんな男と何やってても関わらないんで、私にも関わってこないでください」
「私はただ……」
「助けたかっただけって言いたいんですよね。でも、そういうのって――」
 後輩はそこで言葉を切った。哀れむような目をしていた。どうしてそんな目を向けられるのか分からなかった。
 そして、その先の言葉も分からなかった。
「――ま、いいです。時間もないんで。じゃあ今日はありがとうございました!」
 後輩は晴れやかな笑顔で改札を通っていった。
 私はしばらくその場を動けなかった。
 私がやったことは無意味だった。それどころか有害だった。雨宮の言っていることこそ正しかったのだ。あの子はわざと、勘違いされるためにベタベタしていた。人前で腰を抱かれるのは嫌だけど、行為自体を嫌がっていたわけではなかった。狙っていたことだ。私はそれを邪魔してしまった。あれは、動物の交尾だった。見物人になっていたらよかったのだ。
 鼻が殴られたようにつんと痛んだ。肺から熱っぽい息がせり上がってくるのを感じる。きっとこれは酔いのせいじゃない。
 このまま立ち尽くしていたらいよいよ泣いてしまいそうで、改札に背を向けた。
 そのとき。
「緋奈!」
 低い男の声が聞こえた。私を名前で呼ぶ男に、心当たりは一人しかいなかった。
 声の方に顔を向けると、袋井が立っていた。仕事帰りなのかコートの襟からはネクタイが見えた。
「な、んで、ここに……」
「その、前のこと謝りたくてさ」
 袋井はスマートフォンを取りだした。インスタを表示して見せてくる。さっきの私の投稿だった。
「ストーカーみたいで、あんまり良くないとは思ったんだけど……」
 それで事情は飲み込めた。あの店の皿には店名が彫られていた。袋井はそれを頼りに会いに来たのだ。私が大学二年生から豪徳寺に住み続けていることをこの男は知っている。駅にいたら現れると見越したのだろう。
「気持ちわる……」
 思わず本音が漏れた。家に来られなかっただけマシという程度だ。
 袋井は力なく笑った。
「まあ……そうだよな。今さらどの面下げてって感じかもしれないけど、前のことちゃんと謝りたくて……」
 袋井はその場でいきなり頭を下げた。
「本当にごめん」
 通行人に怪訝な顔を向けられる。私はすぐに頭を上げさせた。
「許してくれる?」
 捨てられた犬のような哀れがましい目、悲しげに歪んだ唇、怯えるようにふるえた声。相変わらず卑怯な表情だ。
「許さない、絶対」
 私は睨み付けるようにして、そう言った。
 でも口調はどこか白々しく、甘えたようになってしまった。後輩からも打ちのめされて参っていたのかもしれない。自分を粗末に扱いたくなったのかもしれない。
 袋井は頬を緩めた。
「じゃあ、どうしたら許してくれる?」
「嫌なこと、ぜんぶ忘れさせてくれたら」
 できるの、という風に袋井を見る。今日はヒールを履いているから私の方が目線が高い。つい見下げるようになってしまう。袋井はそれでも鷹揚に微笑んだ。
「もちろん」
 ごく自然に、手を取られる。つながれた手は温かく、かじかんだ指先を溶かしてくれるようだった。
 ふと、雨宮の言葉を思い出した。
 ――お前そういうところは器用なんだからさあ。
 聞いたときも思ったが、雨宮は私を買い被りすぎだ。私はぜんぜん器用なんかじゃない。友人を好きになって空回りして、後輩の味方をしようとして失敗して、傷ついたから元カレからの誘いを受けてしまうような、愚か者だ。
「いいバーがあるんだよね。話、聞かせてよ」
 袋井に手を引かれて東口を出た。植え込みを囲むように通されたロータリーには、送迎の車が多く停まっていた。テールランプとハザードが煌めいて見えた。酒が回ったのか、足下がふわふわと覚束なかった。
「明日も早いの?」
「だったらなに?」
「いや、このまま夜が明けなければ、ずっと緋奈といられるのにって思っただけ」
 やはり酔っているのだろう。歯の浮くような台詞すら不快には思わなかった。私は手を握ったまま、
「そういうの、店で言った方が格好つくよ。下手くそ」
 おどけて舌を出してやると、袋井は目を細めた。付き合っていたときよりもよほど恋人らしい会話をできているのが、自分でも不思議だった。

     8

 目を覚ましたとき、身体を起こすより先に、着衣を確かめた。シャツも、スラックスもジャケットも乱れていない。ブラジャーのホックは外れていない。パンプスは脱がされていたが、それだけで、違和感はどこにもなかった。
 何もなかったのだ。
 安心も束の間、何もされていないことが分かると、わざわざ確認したことが恥ずべきことのように思えた。冬の透き通った夜空には、まるで私を見つめるように、切れかけの電灯が浮かんでいた。
 そのとき、隣に人の気配が近づいてきた。
 私は咄嗟に立ち上がった。パンプスを手に持ち、身をかがめる。ストッキングを履いているとはいえ、十二月も中旬だ。冷たい砂が、身体を芯から冷やした。
「そんな警戒するなよ、助けてやったのに」
 その声に、身体から力が抜けた。雨宮がからかうような笑顔で私を見ていた。ブランコが風で揺れてキーキー錆びた音を立てた。このときようやく、自分が公園にいることに気がついた。
「コート、落ちてるぞ」
 指の示す方を見ると、ベンチの傍らで私のピーコートが砂にまみれていた。どうやらブランケット代わりに寝ていたらしい。固いベンチがマットレスの代わりだったのだろう。
 気がつくと寒さが増した気がして、コートとパンプスを着用した。雨宮は鞄も持ってきてくれた。中にはきちんと護身用のスプレーが入っていた。
「な、意味ないだろ。そんなの」
 雨宮は訳知り顔で言った。
「なんで、私……」
 声がひどく掠れた。喉が痛いくらいに渇いている。雨宮はペットボトルのお茶を渡してくれた。受け取って飲もうとすると、
「睡眠薬は入ってないから安心しろよ」
 と、雨宮は忍び笑いを漏らした。一瞬、意味を掴み損ねたが、すぐに気がついた。
「私……袋井とバーに行って、それで……」
 おぼろげだった記憶が蘇ってくる。赤い革張りのスツール、バーテンダーの低く渋い声、袋井に勧められたラクゥエル、腰を抱く熱っぽい手、吐息、視線、どろどろとした眠気、口端から垂れる涎――そして、カウベルの澄んだ音。
「うっ……ぇおッ」
 思い出すと、突然、胃の奥から突き上げられたような吐き気に襲われた。這いずるようにして、茂みへと顔を突っ込む。冬には似つかわしくない青臭さが鼻腔を撫でた。びちゃびちゃっ、と派手な音がする。胃酸が薫って、鳥肌が立った。
「かッ……は、……ッぇぐ……」
「あーあー……」
 雨宮は背中をさすってくれたが、手のひらが上下するたびに、泣きたくなるほどの屈辱感が去来した。
「……そ、れ……やめて……」
 つっかえながら言うと、雨宮はぱっと手を離し、先ほどのペットボトルを私の傍らに置いて、ベンチに戻った。
 しばらくすると、胃の中は空っぽになり、吐き気も治まった。お茶でうがいして、服に吐瀉物がかかっていないことを確認してから、ベンチに戻った。
「で、なんで雨宮がここにいるの?」
「まずは助けてくれてありがとう、だろ」
「……そうね、ありがとう」
「よし」
 雨宮は手持ち無沙汰にいじっていたスマートフォンをしまった。
「タクシー呼んだから、もう少しで来ると思う」
 と前置きしてから、
「あのバー、俺もたまに行くんだよ。祐天寺でああいうバーはあんまりないからさ。バーテンダーとも仲いいんだ」
「じゃあたまたま?」
「そう、偶然。二次会がカラオケだったんだけど、つまらなくて抜けてきたんだよ。それで気晴らしにバーでも行こうかなって。最近、嫁の機嫌取りで忙しくて行けてなかったし」
 尾行されていたのではないかと疑っていたが、そうではなかったらしい。趣味人の雨宮らしい理由だった。
「それで店に入ろうとしたら、女を抱えて出てくる男がいてさ。酔っ払いの介抱かとも思ったんだけど……まあ、あれだけぐったりしてるんだから違うよな」
 そうだ、あの異常な眠気が酒のせいだったわけがない。きっと薬を飲まされたのだ。ブルーキュラソーのカクテルを頼ませたのは、薬物反応で青くなってもバレないようにするため。考えれば分かることだった。
「それで、さすがに見過ごせないから声をかけた。あいつすげえビビってたよ」
 雨宮はそのときを思い出したのか、喉の奥を鳴らして笑った。もし雨宮が来てくれなかったらと思うとゾッとした。今ごろ、広く柔らかいベッドの上で寝かされて、人生最悪のセックスを更新していたことだろう。
「あいつ、知り合い? あんな小洒落たバーで口説かれるなんて、中々やるな」
 楽しげに言われるのにむっとしたが、助けてもらった手前、態度には出せなかった。でも声にはどうしても不機嫌が滲んでしまった。
「あれ、元カレ」
「え? もしかして……」
「そう、トップオブクソ元カレ。袋井」
「あーあれが……」
 ははっ、と雨宮は声を上げて笑った。
「迂闊だったな。元カレに着いていってどうなるかくらい分かるだろ」
 小馬鹿にするような声だった。ぺこっと軽い音を立てて、持っていたペットボトルが凹んだ。
 雨宮は気づかなかったらしく、好奇心に満ちた声で聞いてきた。
「で? なんであんなバーに着いてったんだよ。それに、薬まで盛られるなんてさ」
 お前に落ち度があったんじゃないか、と揶揄うような口調だった。
 いよいよ私は、自分の傷を見せつけてやりたい気持ちになった。私は被害者なのだと高らかに宣言したくなった。助けてくれた雨宮も責めて立ててやりたくなった。水川のことを引き合いに出してすべてを彼のせいにしたくなった。
 この屈辱を、他の誰かにも分かって欲しかった。

     *

 袋井に連れてこられたのは、祐天寺駅通りを抜けたところにあるビルの、地下に入ったオーセンティックバーだった。重厚なオーク材で作られた扉には、アンティークのサムラッチハンドルが設えられ、はめ込まれた磨りガラスからは淡々しい光が漏れ出ていた。
「どうぞ」
 袋井はコンシェルジュよろしく、恭しくドアを開けた。カラランとカウベルが澄んだ音を立てた。
「いらっしゃいませ」
 低く、渋い声に迎えられた。店内には、洞穴に灯されたランタンの火のような、柔らかい光が溢れていた。私たち以外にも、二組の客が、それぞれ間を開けてカウンターに並んでいた。
「こちらへどうぞ」
 バーテンダーに促され、カウンターの端、赤い革張りのスツールに隣り合って座った。
 職場用の鞄は足下の荷物入れに落とした。この空間で、ビジネスバッグだけがひどく不格好に思えた。まるで童話の世界に源泉徴収票を持ち込んでしまったような不適切さを感じた。
「ここ、いい雰囲気でしょ」
 袋井も荷物入れにブリーフケースを置いて。秘めやかに囁いた。
 正直、悪い気はしなかった。今にもマドモアゼルとでも言い出しそうな袋井も、アンティーク調で統一された内装も、ぱりっとしたベストを着たバーテンダーも、傷心の目にはいっそう鮮やかに映った。
「まあまあね」
 突き放すように言ってみるが、声が弾むのは抑えがたかった。袋井はふっとわざとらしく笑った。
「ここ、カクテルが美味しいんだ。俺のオススメはブルーキュラソーを使ったカクテル。ちょっと度数は高いんだけどさ」
 試すように見つめられ、私は言われるまま、ラクゥエルを頼んだ。袋井はジンバックだった。
「かしこまりました」
 バーテンダーは、器用な指でメジャーカップを扱いながら、シェイカーに酒を入れていった。バーテンダーは時折、話を振ってくれたが、受け答えは袋井がしていた。私は本格的で鮮やかな手つきに見惚れていた。
「俺も、手品出来るんだよ」
 と、嫉妬でもしたのか、袋井がそう言ってきた。披露しようとしていたが断った。袋井が本気で凹んでいたのが、なんだか可笑しかった。
 ものの数分で、ラクゥエルとジンバックが出てきた。それぞれ、逆三角形のカクテルグラスと、六角形のタンブラーに注がれていた。
「ごゆっくりどうぞ」
 それまで滑らかだったバーテンダーの口は、それを最後にピタリと止まった。バーテンダーの背後には酒瓶が整然と並べらんでいる。そのまま彼の几帳面さを表しているように見えた。
「じゃあ、再会に。乾杯」
 カチンとグラスが鳴った。唇を濡らす程度だけ口に含むと、想像よりもまろやかな口当たりで、ケーキのような甘い薫りが鼻を抜けていった。
「どう、美味しい?」
 袋井は自慢げな声で聞いてきた。私は素直に答えた。
「すごい甘くて飲みやすい……」
「でしょ? 良かった、緋奈なら気に入ると思ったんだよね」
 袋井は自分が褒められたような顔で、タンブラーを揺らした。氷が縁に当たってカラカラと音を立てた。
「それで……なにかあったの?」
 優しい顔だった。その大人びた顔に息を詰めた。前回は気づかなかったが、こうして暗がりで見ると、もう大人の男だった。思いが顔に出たのか、袋井は力の抜けた顔で笑った。そんな微妙な変化さえ垢抜けて見えた。
「ここでのことは、今日限りの秘密にするからさ」
 天井から吊られた品のいいペンダントライトが、袋井の表情に影を作っていた。私はぽうっと目の辺りが熱くなるのを感じて、カリン材のカウンターに視線を逃がした。
「……それとも、信用できない?」
 作為を感じる、縋るような声に、はっと顔を上げた。思ったよりも近くに袋井の顔があった。
 私はわざとらしく咳払いをして、ラクゥエルをまた少しだけ飲んだ。アルコールの味がさっきよりも強くなった気がした。
「大したことじゃないんだけどさ……」
 そう切り出した。
「私、好きな人がいるの。同じ職場の、身長が高くて、優しくて、仕事も出来る、頭のいい人。でも彼は私のことを友達としか思っていなくて」
 ちらと袋井の顔を見た。傷ついていないだろうか、と確認だったが、袋井はさっきまでと変わらない表情で私を見つめていた。つまり、大人びた、知らない人の顔だった。
「聞いてるよ、続けて」
「……それで、もう一人の友達に手伝ってもらって、二ヶ月前、初めてデートをしたの。でも、それから、素っ気なくなって……」
 私はまたカクテルグラスに口をつけた。酔いが回ってきたのか、息が切れた。脳みそが少しずつ溶けているように感じた。
「やっぱり私が悪いのかな」
 袋井は続きを促すように、片眉を上げて、ジンバックに口をつけた。私は手元に視線を落としたまま続けた。
「なんか気が急いちゃって。それに、水川も許してくれるんじゃないかって、そうやって甘えて……デートの最後、何の断りもなく、キスしちゃったんだ」
 二ヶ月前のあの日。新宿駅で待ち合わせて、紀伊國屋書店の一階から八階まで周り、東口にある猫カフェに入って、休憩がてら夕食までの時間を潰していた。
 夕方頃から十度を下回るだろうという予報だったが、日中は暑いくらいで、スタジャンは脱いでいた。
『そういえば今日、雰囲気違うね。いつもの服じゃない』
 猫とじゃれながら、不意に水川が言った。
 その日の服装は、普段のフェミニン系ではなく、アメリカンカジュアルだった。髪型もコテも当てず、ひとつに括っただけのシンプルなものにした。水川の好みが「友人のような距離感の人」だったからだ。
『そうなの、変かな』
『別に変じゃないと思うけど……』
 なぜそんなことを聞かれるのか分からない、という反応だった。もう少し踏み込もうかとも思ったが、水川の興味がすぐ猫に向いたのでこの話はそれで終わった。このときばかりは猫を恨んだ。
 苦手なりに駆け引きもした。
 大学の友人から教わったように、さりげなく身体に触れたりもした。「初めは肩とか腕とかがいいよ」「緋奈、胸でかいし、押し当てたら?」「相手の反応を見て、問題がなさそうだったら背中とか、あと髪もいいかもね」と教えてもらった。その子は、ゴミがついてると言って、相手の髪を撫でるのだそうだ。
 だが、水川はこれといった反応を示さなかった。
 待ち合わせ場所で呼び止めるとき肩を叩いてみても、ゴミがついていると髪を触ってみても、ふざけて腕を組んで身体を密着させてみても、いつも通りの微笑を返されるだけで、拒絶されることも、応じてもらえることもなかった。
 思わせぶりなことを言ってみるといいとは雨宮の言だった。「なんでもいいんだよ、気を持たせるようなことを言ったら」と軽く言われた。
 これも失敗した。どのタイミングだったが忘れたが、
『そういうところ好きだよ』
『水川の彼女になったら幸せだろうね』
 と言ってみたが、どちらも水川は、
『友達に褒めてもらえるならそれが一番うれしいわ』
 と、あくまで「友達」という言葉を強調した。
 気落ちはした。これでは雨宮と三人で遊んでいるときと変わらない。所詮、自分は友人人に過ぎないのだ。きっと女としての魅力が足りないのだ、と。
 夜は、新宿三丁目にある半個室の和食居酒屋に入った。店内の照明は暗めで、ラウンジミュージックが優しく流れていた。
 笑顔を崩さないように気をつけてはいたが、私の心の中は腐っていた。
『桔梗は普段からこういう店来るの?』
 慣れていないのか、水川はいつになく身体を固くしていた。墨色のノンカラーシャツと同系色のエプロンを合わせた店員がメニューを持ってきた。注文をとる声も上品に響いた。
 それぞれ、八海山とレモンサワー、揚げ物を数種類頼んだ。水川は下がっていく店員に軽く頭を下げて、また視線をキョロキョロと動かした。
『すごいオシャレだね。あんまり来ないから、緊張するわ』
 そんな水川を見ていると、それまでの捨て鉢な気分が吹き飛んだ。こういう気取らなさが水川の魅力だ。そもそも「友達のような距離感の人」が好みなのだ。だったら、間違っていないはずだ、と自分を励ました。
『私もあんまり来ないよ。せっかくだから予約しただけ』
『ああ、せっかく新宿まで来たしね』
 水川は考えることもなくそう言った。普段は会社から近い中目黒の店が多いので、勘違いされても仕方ないような気がした。
 私はもっきりに八海山が注がれるのを見つめながら、
『せっかく二人きりだから』
 と言い直した。升まで溢れた清酒は一点の濁りもなく澄んでいた。水川は真意を測るように視線をうつろわせ、
『雨宮に何か隠しごとでもあるの?』
 冗談めかして笑った。店員は左右対称の笑顔で、ごゆっくりお楽しみください、と下がっていった。
 開き直った私はそれからも、勘違いされるような言葉を吐き、積極的に身体に触れ、距離を詰めていった。酒の力もあったのかもしれない。
 水川は終始、
『飲み過ぎじゃない?』
 と心配そうに眉を寄せた。やはり拒絶されることも、応じてもらえることもなかった。
 支払いは水川が持ってくれた。また返すねと言ったら、じゃあ今度は奢りな、と笑ってくれた。
 予報通り、冷える夜だった。十一月も下旬にさしかかり、もうすっかり秋も深くなっていた。
 日曜日の九時前ということもあって、新宿駅構内は人で溢れかえっていた。手を振り合う友達連れも、抱きしめ合っているカップルも、そこら中にいた。
 水川は小田急線まで見送りに来てくれた。水川は大崎付近に住んでいるので、山手線だった。もう少し一緒にいたい気も、もうこれ以上失態を重ねたくない気もした。
『じゃあ、また会社でな』
 小田急線にも人は多かった。でも、みんな他人には無関心だった。あと、外気が吹き込んできて寒かった。このまま私の思いが通じないまま終わるのが悲しかった。行動しないと変わらないのも分かっていた。
 そうして色々な理由をつけて、私は手を振る水川に抱きついた。
『え……?』
 水川は狼狽えていたけど、拒絶しなかった。振っていた手は中途半端に揺れて、抱きしめ返すこともなかった。私は水川を見上げてかかとを持ち上げた。
 柔らかい、懐かしい感触が唇をおした。久しぶりのキスの相手が水川で心の底から良かったと思えた。
 唇を離すと、水川は目を丸くしたまま、口許を隠すようにした。
『じゃあ、また会社でね』
 そうして一度も振り返らず、私は改札を抜けた。冷たい空気が妙に心地よかった。心臓が痛いほど鳴っていた。
 キスをしてしまったという罪悪感は僅かにあったが、深くは考えていなかった。何より私自身、自分の突飛な行動に驚いていた。まさかあんな往来で自分からキスをしてしまうなんて。
 しかし三週間が過ぎたころ、ラインを送ったが返信がもらえず異変に気がついた。思えば、インスタに上げた大学時代の友人との写真にも反応はなかった。職場でも話すことはおろか会うことすらなかった。それまでだったら、部署が違えど、週に一度くらいは顔を会わせることもあったのに。
 ようやく避けられていると気づいたときには、手遅れになっていた。
 それからの自分の荒れ具合はひどいものだ。水川の尾行、雨宮への八つ当たり、後輩に邪険にされるに至って、こうして元カレとバーで隣り合っている。
「まあ、だから……傷心中って感じ」
 話しているうちにラクゥエルを飲み干してしまっていた。酒が悪く回ったのか、呂律は怪しくなっていた。
 それまでじっと聞いていた袋井はぼそりと、
「あいつ、水川っていうのか……」
 どういう意味か聞き返す間もなく、袋井は笑顔をつくって腰に手を回してきた。タンブラーの中の、形を崩した氷が、カランと音を立てた。
「緋奈、寂しかったんだな」
 慰めるようでも、励ますようでもなく、語尾にはどこか嘲笑する気配が感じられた。
「そんなやつじゃなくて、俺にしとけよ。大事にするから」
 脇腹に中指がはしる。背中に鳥肌が立った。こいつは躊躇いなく人を馬鹿にする、セックスのことばかり考えているようなやつだった。
 冷や水をぶっかけられたような気分になった。もう帰ろう。今日のことは忘れよう。二度と会わないようにしよう。そう決めた。
 だが、袋井の手を振りほどこうとした瞬間、視界が歪んだ。まぶたが溶けてしまうほどの眠気に襲われ、頭がぼうっとした。
 なに、これ……
 声に出したつもりが、喉に力が入らなかった。
「どうしたの、緋奈?」
 白々しい声が囁いた。吐息に耳たぶをなぞられるたび、脇腹を撫でられるたび、脇にじっとりと嫌な汗が滲んだ。
 それから意識を失うまで、そう時間はかからなかった。

     9

 話し終える頃には、ペットボトルのお茶は底をついていた。冴えた月が、さっきまでなかったはずの薄雲に隠されていた。
「これでも、まだ私が悪いと思う?」
 声がふるえそうで、喉に力を入れた。意識するほど泣いてしまいそうで、咄嗟に顔を下げた。
「好きな人に避けられて、後輩にも邪険にされて、そんなの傷つくよ……。そんなときに元カレが現れて揺らぐのってそんなに悪いこと?」
「悪いなんて一言も……」
 雨宮は伏し目の私を覗き込むようにして目を合わせてきた。そういった癖には気をつけなくてはいけないのに。
「うそつき」
「嘘じゃねえって」
 だが、しばらく睨んでいると、雨宮は処置なしというように手を上げた。
「……そりゃあ、少しは思ったけど。危機管理が甘いし、どうせ自分は被害に遭わないだろうって楽観視してるように見える。言ってることも支離滅裂だし。自分を粗末にしたいとかって言って、実際に粗末に扱われたらキレるくせに」
「なにそれ――」
 頭の奥がカッ熱くなった。だが、雨宮は言葉を被せた。
「でも、睡眠薬を盛るやつはさらに悪い。それだけの話だ。どっちにしろ、元カレにのこのこ着いていったお前にも非があった。被害者に付け込むやつもいることを知っておくべきだった。反省しろ、教訓になっただろ」
 反省、教訓。それは本当に私がするべきことなのだろうか。確かに危機意識が薄かったかもしれない。普段だったら元カレに着いていくなんて失態は犯さないはずなのに、正常な判断ができなかったのだ。
 でも、そこに付け込んだのは袋井だ。睡眠薬を盛って、私を暴行しようとした。それでも私は責められるべきなのだろうか。
「……どうせ、雨宮には分からないよ」
 自身の屈辱をどう表現すべきか分からず、私はそう言った。雨宮は怪訝そうに眉をひそめた。話を続けろという意味だと思い、その通りにした。
「雨宮は、袋井に連れられてるのが私だって気づいて、助けてくれたの?」
「いや。似てるなとは思ったけど、近づくまでは分からなかった。声をかけて、お前の顔を見て初めて気づいた」
「でも、助けてくれた」
 雨宮が頷く前に、言葉を重ねる。
「普通のこととしてやってくれたんだよね。困っている人がいたから助ける。犯罪に巻き込まれているかもしれないから助ける。被害者かもしれないから助ける。私でもそうする。たぶん私だけじゃなくて、誰でも」
 雨宮は考える間を置いてから頷いた。
「そうだな。お前が被害に遭っていそうだったから助けた。お前じゃなくても助けた。当たり前のことだ」
 私は被せるように言った。
「じゃあ、私を被害者だと認識したのはどうして?」
 雨宮は眉をひそめた。それは、異論があったわけではなく、なぜそんなことを聞いていくるのか、という表情だった。
 やっぱりこの一点だ。この一点が、雨宮と私の違いだ。ずっと言い表せなかった、雨宮の不理解の元だ。
 私は雨宮を見つめたまま言った。
「たぶん私が女だからじゃない? たとえば袋井が抱えているのが男性だったとしたら、もしくは、私が袋井を抱えていたとしたら、雨宮は抱えられている人を被害者だと思わないんじゃない? ただの酔っ払いだと思わない?」
「まあ、そうかもな。それで?」
 雨宮は察しの悪い方じゃない。それなのに、怪訝な顔は変わらなかった。私は浅い息を吐いて続けた。
「女だから被害者だと認識することはあると思う。実際、被害に遭いやすいしね。だから助けるのは当たり前だって、それも正しい。でもそれって、こう言い換えられると思わない?」
 どうしたら誤解なく伝えられるか、一瞬だけ考えてから、こう言った。
「女は被害者として扱われるせいで、付け込まれやすい」
 雨宮の寄っていた眉がようやく解かれた。
「被害者になると色んな人が近づいてくるよ。善意で助けようとしてくれる人も、悪意ありきで近づいてくる人も。どの手を握ったらいいのかなんて分からない。でも手を取らないと助けてもらえない。そして、一度助けを拒否したら二度と助けてもらえなくなる」
 たぶん、私はもう後輩を助けることはないだろう。男に絡まれていても、きっと見ないふりをしてしまう。
「それが嫌だから、どんな手でも取るしかないんだよ。女っていうデメリットを背負ったまま、安全かどうか分からない手を握るしかないんだ。その怖さ、雨宮には分からないでしょ?」
 雨宮は黙ったまま、頷きもしない。私は続ける。
「そういうことを全部見ないふりして、被害に遭いたくなかったら気を引き締めろっていうのもひどい話じゃない? 正しいかどうかじゃなくてさ。もっと感情的な話として。ひどいと思わない?」
 雨宮が否定か肯定か、口を開きかけた。でも私は被せるようにして言った。
「私も、雨宮みたいだったらよかったよ」
 その声は図らずも、自嘲的に響いた。
「男だったら、こんな被害に怯えることもなかった。雨宮もさあ、元カノが粘着してきたとき、そんなに怖がってなかったでしょ。面倒だなって思っただけで。その程度だったでしょ?」
 責めるような口調になってしまった。きっと雨宮だって不安はあったはずなのに。あとで激しい自己嫌悪が揺り戻してくるだろう。
 でも、口は止まらなかった。
「雨宮、女に生まれたかったって思ったことないでしょ。男だからこんな屈辱的な目に遭うって、そういう経験ないでしょ? だから――」
「もういいよ」
 雨宮が静かな声で制した。その声があまりにも優しくて、言葉に詰まった。
「さっき俺が言ったこと、間違ってるとは思わない。でも……ごめんな、桔梗。お前もいろいろ抱えてたのは分かってたのに。デリカシーが足りなかった。嫁にもよく言われるんだよ。気をつけるべきだったのにな」
 雨宮はハンカチを渡してくれた。
「だから、もう泣くなよ」
「え……?」
 言われて、ようやく気がついた。気がつくとダメだった。泣いていると同情を求めているみたいで、私は雨宮に背を向けた。
 しばらく待っていると、雨宮が呼んでくれたタクシーがやってきた。
「そういえば言いそびれてたんだけど」
 雨宮は公園を出る直前、思い出したように言った。
「桔梗が目覚ますの待ってる間に、水川に彼女でもできたのか聞いたんだけど……」
 いきなりのことに心の準備すら出来なかった。
 ただ呆然と次の言葉を持った。
「一緒に映画行ってたの、姪っ子だって。プレゼントはその子の誕生日用らしい。ほら、年の離れたお兄さんがいるって言っただろ? その娘だって」
「そうだったんだ……」
 それなら距離の近さにも説明がつく。親族相手なら。ほっと胸をなで下ろすが、女の子の姿が頭によぎって、眉に皺が寄った。
「あ、でも、あの女の子、大学生くらいだったよ。水川のお兄さんって……」
「今年で三十六になるって。姪っ子の方は二十歳らしい。若いパパさんってことだな」
 水川の兄が十六で父親になったというのにも、水川との年の差にも驚いた。雨宮は目を白黒させる私を楽しげに見ていた。
「俺もびっくりしたよ。異母兄弟らしくて、あんまり詳しくは聞いてないけどな」
「そっか……」
 タクシーは公園を出てすぐの路肩に停車していた。私は雨宮に礼を言って乗り込んだ。雨宮はぎりぎり終電があるからと、電車で帰るらしかった。
「とりあえず良かったな。水川がまだフリーで」
「うん……」
「じゃあな。今日はゆっくり休めよ」
 その言葉を皮切りに扉が閉まり、行き先を告げるとタクシーが発進した。
「夜遅くまでお仕事、ご苦労様です」
 運転手は痩せた中年男性だった。またセクハラでもされたらどうしようかと気を揉んだが、杞憂だった。
 むしろ「寒くないですか」「音楽でもかけますか」「近道できるところがあるのでそちらを通っても大丈夫ですか」「お加減が優れませんか」と気を遣われた。
 そんなにひどい顔をしているのかとスマートフォンの内カメラで確認すると、顔色を失って生気の抜けた顔が映った。
「うわ……」
 思わず声を出すと、また運転手が気にしだした。ありがたい反面、煩わしくなって、到着したら起こしてもらえるよう頼み、イヤホンをして目をつむった。懲りずに水川の好きなバンドの音楽を流した。
 考えるのは二つだった。
 映画にいた子が恋人ではなく姪だったなら、どうして私は避けられていたのか。それと、袋井が水川を知っている風だったのはなぜか。
 少し考える。ドラムの音が激しく鳴り響いている――
「ああ、そっか」
 そこで気がついた。そうだ、簡単なことだった。きっと雨宮と同じだったのだ。正確には、雨宮の奥さんと。
 水川お気に入りのギターソロに入った。前に聞いたときよりもずっと、一音一音の繊細さが伝わってくるようだった。

 〉今度、時間作ってくれない? 話がある

 水川の個人ラインにそれだけ送った。返事があるかは分からない。もしかしたらこのまま既読すらつかないかもしれない。
 でも、もうそれでいいような気もした。
 もしいつまでも気を遣わせるようなら、直接会いにいってしまえばいいのだ。
 そして誤解を解こう。
 窓に顔を近づけると、冬の外気が頬を冷やしてくれた。テールランプがぽつぽつと間隔を空けて深夜の都道を走っていく。
 しずかな夜だった。

    10

 翌週の仕事終わり、私と雨宮は《かがりび》で水川を待っていた。間日だからか店内は閑散としていた。テーブルの上には、変わらず揚げ物が多く並んでいた。
 水川は予定より二十分ほど遅れてやってきた。どうやら残業をしていたようだ。店に入ってきたとき、妙に疲れた顔をしていた。
「悪いな、待たせた」
「先、頼んどいたからな」
 雨宮は気安く声をかけた。だが水川はテーブルに並んだそれらを見て、微妙な反応をした。コートを脱ぐこともなく、雨宮の隣に腰を下ろした。私とは対面の位置だった。
「飲み物、何か頼む? 私たちはもう頼んじゃったし」
「あ、ああ。そうだな。でも一杯でいいから」
 水川は誰かに弁解するような口調で言って、オレンジジュースを頼んだ。一杯目は酒を注文するのに珍しいことだった。
「なんか、久しぶりだよね」
 呼び出したのは私だったのに、なかなか水川の目を見れなかった。水川は素っ気ない声で、「まあ、忙しくてな」と言った。
 店員が私と雨宮のドリンクを先に運んできた。どちらもビールだった。
「先飲んじゃっていいよ」
 水川はそう言って、お冷やに口をつけた。私たちは言われたとおり先に飲んだ。
「そういえば、姪っ子へのプレゼントはどうだった? 喜んでもらえたか?」
 雨宮がそう切り出した。水川はにこやかに頷いた。今日初めて見せる笑顔だった。
「まあな、助かったよ。ありがとな」
「何をあげたの?」
 私が聞くと、水川の笑顔が固まった。胸をつかれたような気持ちになったが、頬にぐっと力を入れた。水川は何も悪くない。私の過去がすべて悪いのだ。
「雨宮から進められて、ロクシタンのハンドクリームにした。最初はメイク道具とかがいいかなって思ったけど、よく分からないし」
 水川の声が少しずつ尻すぼみになっていった。店員がそこでオレンジジュースを持ってきた。ごゆっくりどうぞ、と下がっていくのを待って私は言った。
「コート、脱ぎなよ。暑くない?」
 だが水川は思案顔でオレンジジュースを口に含むと、こう聞き返してきた。
「用件はなんだったの?」
 きっと今すぐにでも帰りたいのだろう。視線はいつになく泳ぎ、笑顔もぎこちない。
 たとえばここに私がおらず、雨宮だけだったら、水川は酒も頼んだし、コートも脱いだだろう。
 私は単刀直入に切り出した。
「水川、最近私のこと避けてたよね」
 グラスを握る手がぴくっと動いた。
「……それで?」
「急だったからびっくりしたんだけどさ。でもようやく分かったんだ。なんで水川が私のこと避けてたのか」
「ふうん」
 水川はグラスに視線を落として、水滴を親指で拭っていた。私は言葉を切ってビールを呷った。雨宮は唐揚げを三つ小皿によそうと、何も聞かず水川の前に置いた。
 それからこう言った。
「桔梗のトップオブクソ元カレのこと覚えてる? 袋井って名前の」
 雨宮の問いにはすんなり頷いた。
「ああ。不快なやつだったからよく覚えてる」
 きっと忘れられないのだろう、と私は頭の中で水川の言葉を変換して考えた。
「会ったことあるのか?」
「ないよ」
「じゃあ、なんで不快なやつだったって……」
 水川は眉間に皺を寄せて、オレンジジュースを半分ほど流し込んだ。
「そんなの言葉のアヤだろ――」
「嘘でしょ」
 私は被せるように言った。水川はグラスをゆっくりと置いて、首をかしげて見せた。
「なんの話?」
 睨まれているような気がして、手に力がこもった。私はふっと視線を切ってこう切り出した。
「その袋井に、先週会ったんだけど……」
 ときどき料理をつまみながら、袋井とバーに行った日のことを話した。水川は話を聞いている間ほとんど無反応だったが、睡眠薬を飲まされたと聞いたときだけ、はっきりと嫌な顔をした。
「――それで、タクシーを呼んでもらって帰れたんだ」
 かいつまんで話したから、ざっと二、三分で終わってしまった。水川はまだ話が掴めないようで……いや、理解できないふりを続けるようで、
「それで、なんで俺が呼び出される話になるの?」
 と言った。
「水川、もういいよ」
 私はなるべく優しい声を作った。雨宮の奥さんとトップオブクソ元カノの話をしたほうがスムーズだったかもしれないと思ったが、それももういい。
「水川、ごめんね。私のせいで、水川に迷惑をかけた。本当にごめんなさい」
 水川は戸惑った顔をしていた。無理に笑顔をつくろうとしたのか、唇が半端な弧を描いていた。
「え……?」
「袋井に会ったんでしょ? それでこう言われたんじゃないの? 『緋奈に近づくな』って。聞いたわけじゃないから分からないけどさ。こんな感じのことを」
 簡単なことだったのだ。雨宮の奥さんがされたことを、袋井が水川にやった。ただそれだけだ。きっとデートのときキスをした私たちを見て、袋井が勘違いしたのだろう。
「だから私のことを避けてたんだよね。もしかして脅されたりもしたのかな。今もすぐ帰ろうとしてさ……」
 水川は否定も肯定もせず、オレンジジュースを飲んだ。もういつもの無表情に戻っていた。にわかに不安になったが、私は笑顔で続けた。
「でも、もう大丈夫だから。二度と近づかないよう袋井にはメッセージを送って……」
 カン、と音を立ててグラスが置かれた。結露で浮いていた滴がつーっとテーブルに流れた。
 水川は私の目を見据えてこう言った。
「だから、なんの話だよ」
 その声には、はっきりと嫌悪感が表れていた。

 雨宮も私も咄嗟に言葉を継げなかった。水川は小さく溜め息をつくと、コートの袖を捲って時間を確認した。私もつられてスマートフォンをひらく。十九時半を少し過ぎたところだった。
「八時の電車には乗りたいんだ」
 水川はそう呟いて、
「俺が桔梗のことを避けてた理由ってさ。それ以外に、本当に思いつかなかったの?」
 正直、思い当たるのはもう一つしかなかった。
「……デートのとき、キスしたこと?」
 水川はふっと溜め息をついた。
「そうだよ、今日呼び出されたとき、その話をされるのかなって思ってたんだ。謝られたら水に流そうって思ってた。なのに、袋井がどうこうって……」
 水川はやはり無表情だったが、怒っているのだとすぐに分かった。
「……たぶん、桔梗にとっては、ああいうことって大したことないんだよね? だから人に簡単にできるんでしょ?」
「そんなことないと思うぞ。だって桔梗、前の飲み会でもさあ、後輩へのスキンシップが激しいからって、先輩にめっちゃ怒ってて……」
 雨宮は殊更明るく取り繕おうとしてくれたが、水川は呆気なく黙殺した。
「桔梗はたぶん、その後輩が女性だったから怒ったんじゃないの? たとえば男女が逆で同じことが起こっていても声をかけないでしょ?」
「それは……」
 言葉に詰まった。図星だったからだ。
 水川は新品の割り箸を取り出すと、小皿にのった三つの唐揚げのうち、一つを大皿に戻した。
「……桔梗がどういう気持ちかはしらないけど、ああいうことって普通はしないものじゃん。なんでやってきたの?」
 ああいうこと、と濁しされるとばつが悪かった。まるで口に出すのも憚られるようなことをしてしまったように感じた。
 私は声のふるえを抑えながら言った。
「好きだったから、想いが伝わったらいいなって思って。それに、水川ならたぶん許してくれるだろうって思って……ごめん」
 嘘をつくのが得策でないことくらい分かった。水川は二つ目の唐揚げを大皿に戻した。
「たとえば雨宮にいきなり、そういうことされたら嫌じゃないの? 袋井だったら? どうして自分は嫌がられないって思ったの?」
 そこで雨宮が割って入ってくれた。
「本当に嫌だったら抵抗できただろ。その前からずっとそういう気配はあったのに、それはよくてキスしたら怒るっていうのは、さすがに桔梗が可哀想だろ。水川はたっぱもあるんだしさあ……」
 味方をしてくれるのはありがたかった。でもこの反論がズレていることは私にも分かった。水川はいっそ悲しげな目をして、最後の唐揚げを箸でつかんだ。
「それが三つ目だよ。前までは友達としてつるんでいた人がさ、突然パーソナルスペース詰めてきて、ベタベタ触ってきたら怖いだろ。雰囲気だってあるし、断り切れなかったんだよ。確かにそれは俺も悪かったけど……でも、桔梗ならそういうこと分かってくれるって思ってたのに」
 水川は弱々しく笑って、最後の一つを大皿に置いた。綺麗に箸袋に戻すと、先を斜めに折った。こうした所作も彼の美点だった。
「だから、桔梗のことを避けてた。たぶん言ったところで分かってもらえないだろうし、実際、雨宮は納得いかない顔してるしな」
 水川は冗談めかして笑って、席を立った。時間を見ると十九時四十七分だった。
「悪いけど、桔梗の気持ちには応えられないし。そういうことを平然としてくる人とはもう付き合っていけない。だから、ごめんな」
 水川は自分の飲んだジュース代だけ置いて、店を出て行った。
 雨宮も相当堪えたようで、水川の空白を見つめたまま煙草に火をつけた。私はビールを飲み干してこう言った。
「嫌だったら、そう言ってくれたらよかったのに」
 今の率直な気持ちだった。間違った気持ちだと頭では分かっている。だが、やはりそれだけが悔やまれた。
「そしたら私も勘違いしなかったのにさ」
 雨宮はふうっと煙を吐き出した。手で払うことはしない。濃い紫煙が私の身体に絡んでくる。
 お前も同じだぞ、と言われている気分だった。

〈了〉


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